塩飽島、栄光と過疎 吉田 幸男

 塩飽は私の故郷である。瀬戸内海の海賊といえば村上水軍が有名ではあるが活躍は日本史的には一瞬であった。しかし塩飽海賊衆は瀬戸内海の狭水域である備讃瀬戸を根拠地に江戸時代末まで海上勢力者として過ごした。村上海賊衆も塩飽から行ったとの説もある。
 塩飽島がある所は瀬戸大橋が最初にかかった場所でもあり、古代より瀬戸内海海上交通の要衝の地に加え京、大阪に近い事が繁栄を支えたことは間違いない。戦国の世、海賊として名をはせた九鬼水軍、村上水軍、松浦党も近世に入る頃には消えたが塩飽海賊衆は中世から近世にいたるまで活躍した。他の海賊衆のように海上戦闘集団、帆別銭(海上の税金)ではなく主に輸送船団に徹し、陸上の大名と利害の対立が少なかった事、京、大阪に近くの中央権力者が最初に接触するのが塩飽海賊衆であり、塩飽を味方につけなければそれ以後の海賊衆の接触手段がなくなる事が生き延びた主原因でろう。
 純友の乱における松島、釜島は塩飽の海であり、源平の合戦、屋島の戦いでは源氏は塩飽海賊衆の固める海を渡海できず徳島から渡らなければならなかった。塩飽海賊衆は秀吉の島津、小田原、朝鮮攻めに活躍し、江戸時代に至ると唯一の海上勢力として河村瑞賢と共に西回り航路の開拓した。新井白石は『奥羽海運記』に、塩飽の船隻、特に完堅精好、他州に視るべきにあらず、その賀使郷民また淳朴と記している。
 正徳3年には塩飽船は5石積み以上が472隻をかぞえ1500石積み等大型船が112隻となっている。幕府御用米の運送に従事していた塩飽船も時代と共に米以外の商品や投機を目的とした北前船の出現により苦境にたたされるのである。島の統治は自治で人名(にんみょう)と呼ばれる船方650人があたっていた。江戸時代の公儀御用は朝鮮通信使の大阪より京に至る間の案内であた。塩飽勤番所は現存する唯一の勤番所で中には織田信長、秀吉、秀次、家康等の朱印状が残っている。
 
 塩飽海賊衆にとって最後の活躍の場所は幕末西洋式軍艦の水主として活躍した事であった。幕府が最初に建造した西洋式軍艦、鳳凰丸にも30名の水主が乗り込んだ。当時の手当は1あたり米1升と年間10両であった。鳳凰丸に続き、観光丸、昇平丸、鵬翔丸、等多くの塩飽の者達が乗り込んでいた。咸臨丸渡米の折り水主50名のうち塩飽の者35名を数えている。咸臨丸渡米の折り、ほとんどアメリカ人が操船したとされているがこれは考えられぬ事である。帰国(復航)は往航より正確に操船され、ハワイに立ち寄っている。生家の宮三郎も最年少の16才で乗り込み渡米したが、残念ながら戊辰戦争にて落命している。
 文久2年、榎本釜次郎、赤松大三郎等15名の留学生を西洋に送ったが塩飽から2名も選ばれている。水夫頭、古川庄八、上等水夫、山下岩吉である。西周が渡欧の折り、留学生を乗せた船が塩飽島に寄港時を記録している。
「咸臨丸のいたるや、島民は端艇に乗りて群り来たり、母は子を認め、婦は夫を認めて歓呼相応ず、その喜び知るべし」
 多くの塩飽水主が乗組員としていたことが分かる。なお2人は帰国の折り15人扶持、150両を拝領した。古川庄八は帰国後、開陽丸の水夫頭となっている。明治維新とともに海賊衆としての役割を終え、仕事を失った船大工が陸にあがり船大工の腕をいかし高度な建築をこなしていくのである。中国地方、四国の神社仏閣の建築には塩飽大工が建てたものも多い。倉敷の蔵、商家の建築はほとんどが塩飽大工の手による。

 残念ではあるが塩飽は過疎の島々となってしまった。1997年現在塩飽本島で933名、75才以上が208名、90才以上が16名である。

 今年は塩飽本島で合同文化祭が行われ、塩飽大工展が行われたそうである。塩飽棟梁橘貫五郎の史料、大工道具、明治時代に作られた大工の学校塩飽補修工業学校(現多度津工業高校の前身)の史料等も展示されたそうである。