佐賀藩の科学技術 6
<奥羽地方の戦局>
羽州戦に至る過程
京都の大総督府は九条奥羽鎮撫総督、沢副総督、参謀に薩藩大山各之助(後の日露戦争の総司令官のとなる大山巌とは別人で縁戚でもない)、長州世良脩蔵を任命し奥羽に派遣した。参謀に命ぜられた大山と世良は人間として必要な能力を欠く人間であり奥羽を戦乱に巻き込んだ張本人であった。世良脩蔵は傲慢な性格で一人で奥羽を反倒幕軍の空気で盛り上げ奥羽越列藩同盟を作りあげた。非業な死も自業自得であるがそれ以上に奥羽の地を戦乱にたたき込んだ責任はそれ以上のものがあるといえよう。大山格之助は作戦指導もすべて成り行きまかせで奥羽の倒幕軍は苦戦につぐ苦戦となった。奥羽戦乱の原因を二人だけに求めるのは酷かもしれない。真の原因は京の大総督府の指示が的確性を欠いていたことが第一の原因であった。二人は現場において自ら考えて行動するタイプの人ではなくその時の大総督府の命を忠実に実行するだけの人物だった。奥羽の戦乱は大総督府の命令と人事の失敗が重なったことが致命的だった。ただ大総督府の政策が間違っているにしても当初予定されていた薩藩、黒田清隆と長州の品川弥二郎が参謀として派遣されていれば奥羽の状況は一変していたと思われ残念でならない。後の行動から類推すればこの二人は状況を判断し現場において政策を変更できる柔軟な頭をもっていた。
明治元年(一八六八)三月一八日、奥羽鎮撫総督府一行は奥羽の諸藩を鎮圧する為仙台に入った。総督府は抵抗するのは会津藩と庄内藩と判断していたが他の奥羽の藩は討幕派で総督府の指揮下に入るとみられていた。奥羽の兵でもって会津、庄内にあたらせ西国の兵は不要と考えていた。奥羽藩同士で戦わせる作戦で九条総督と世良脩蔵は会津藩を担当し沢副総督と大山各之助は庄内藩を担当することとなった。しかし奥羽の藩の内情はどの藩も「勤皇派」と「佐幕派」の勢力が拮抗し少しの状況の変化により討幕派(勤皇)が台頭したり倒幕軍、反討幕派(佐幕)が勢いを持つような状況であった。奥羽総督府は細かな心配りは無視し乱暴に奥羽の諸藩の地に踏み込んだ。
沢副総督と大山各之助は行動を起こし庄内藩侵攻を倒幕軍についた秋田、新荘、天童藩に命じた。しかし兵力、装備も悪く討伐の意味を解しない寄せ集めの兵は戦意もなく庄内藩兵に追い回され戦闘にもならなかった。四月末、薩長を主とする本格的な倒幕軍は約二〇〇名で羽州街道沿いの庄内藩領「清川」に奇襲攻撃をかけた。倒幕軍は清川に侵入したものの庄内藩のわずかな駐屯の兵と領民数百名で取り囲まれ敗退した。清川攻撃の報に庄内藩では即座に鶴岡より応援部隊を送ったが倒幕軍は既に新荘に引き揚げた後ではあったが鶴岡よりの応援部隊は勢いに乗り藩境を越え倒幕軍を手引きしたとして天童藩を攻撃した。庄内藩兵の強力な反撃が始まると天童の城は炎上し逆に新庄藩まで脅かされる状況となった。この時には庄内藩主の藩外進出は望まぬとの命により庄内藩兵は自領へ引きあげた為大きな紛争とはならなかった。倒幕軍は庄内藩に攻め込んだものの簡単に反撃され本格的な反攻が始まると逆に簡単に押し返され後退しかなかった。
この倒幕軍敗報は奥羽をかけめぐり奥羽各藩では反討幕派が台頭し秋田藩でも倒幕軍に参加したものの惨めな敗戦により藩内に動揺が広がり戦いを指揮した沢副総督も不穏な情勢に秋田から能代、大館を転々とする始末だった。倒幕軍は攻め込んだものの逆に追いまくられ総督府の居場所までなくなり奥羽で安全な場所が無くなり奥羽を転々とせざるをえなかった。
一方会津藩担当の参謀、世良脩蔵は傲慢さから奥羽の藩士から惨殺され奥羽総督府九条総督は仙台藩に監禁された。京の大総督府は援兵として佐賀藩に九条総督の救出を依頼し佐賀藩は深堀領主鍋島孫六郎率いる七五四名の藩兵を仙台に上陸させ九条総督を救出した。しかし総督は仙台にもいることができず盛岡にもおられず秋田藩に受け入れを要請するも秋田藩も佐幕派活動活発となり受け入れを拒否された。弘前藩に行こうとしても藩内の佐幕派より妨害を受け立往生するもようやく藩論統一した秋田藩に受け入れられようやく居場所が確保される始末であった。仙台にて九条総督を救出し秋田で沢副総督と合流した佐賀藩兵を中心とする倒幕軍は改めて庄内藩追討の兵を秋田で編成し庄内攻撃に向かう事になった。
総督府総督が倒幕軍につくように秋田藩に工作した記録が残っている。
一、藩負債及び戦費一切は政府(倒幕軍)がこれを負担する。
二、援軍は早急にこれを整え、戦闘にあっては秋田諸藩(亀田、本庄等)は後詰めをしてよい。
三、事、成就の暁には禄高六〇万石以上(当時秋田藩は二〇万石)となり、政府枢機にも人材の登用はあり得ると説得した。しかし戦い終わった後、倒幕軍は何一つ履行せず秋田から逃げ帰った。無責任の無数の口約束から明治新政府は誕生していった。
<庄内藩の実情>
豊かな土地と優れた軍装
庄内藩は正式には鶴岡藩とよばれ鶴岡に城があり領内には庄内平野の豊かな土地に恵まれ藩祖は徳川家康の重臣で「徳川十六神将」や「徳川四天王」の筆頭に数えられる酒井氏である。庄内藩は江戸城においても溜りの間」詰めであり名門中の名門といえる。当時の奥羽越列藩同盟を指導していたのは仙台藩と米沢藩で両藩とも日和見の強い藩であり利を求めて右往左往しており方針はいつも揺れていた。越後で徹底抗戦し山県有朋を幾度も敗走させた河井継之助も一番頼りになるのは庄内藩で頼るならば庄内藩を頼れと言い残しており事実その通りになった。庄内藩は幕末江戸警備を担当しており西洋兵器についても比較的造詣が深かく京都における会津藩の「新選組」に匹敵する「新徴組」を配下に持ち、薩摩藩が江戸市中で行った破壊工作に対して敢然と立ち上がり江戸薩摩屋敷を焼き打ちにした藩である。
安政年間には江戸御台場警備、万延元年(一八六〇)より数年間北海道警備につき国内外の情報にも通じ奇銃隊、五十数名は七連発銃を持ち奥羽では装備も優秀だった。武器は外国商人「スネル」より多く買い入れており豪農、本間家が幕末に藩に献金した戦費は一二万両にものぼっている。本間家は羽州における豪農で全国的にも例の歌が有名である。「本間様にはおよびもないがせめてなりたや殿様に」本間家は四〇〇石の庄内藩士でもある。庄内藩は奥羽一の豊かな藩で現在でも酒田の米蔵には圧倒されるがその他に庄内一揆がある。天保一一年(一八四〇)幕府は一四万石、庄内藩酒井氏を越後長岡に、七万石、長岡牧野氏を武蔵川越に、一七万石、川越松平氏を庄内に国替えを発表した。川越松平氏は家斎の子供を養子に貰い老中水野忠邦に賄賂を使い国替えを頼んだ。
川越松平氏は永年の放漫財政により多額の借金に苦しんでいた家斎の子供を養子にした事を手がかりに庄内の土地を狙ったのである。庄内藩は一四万石とはいえ実質は二十数万石を越える事は天下周知の事実で長岡藩を巻き込んだのは庄内と川越と直接替えるとあまりにも見え透いているからであろう。驚いた庄内の領民は一揆をおこし大挙して上京あらゆる方法により江戸を騒がし老中に籠訴までした。幕府も再考し国替え変えに無理があると発表は取り消された。この折り、本間家は大金を使い反対運動をささえている。庄内藩は会津、長岡両藩と違って庄内平野の穀倉地帯を持ち、財政も豊かで藩運営が良好だった。名将、河井継之助が指揮した長岡藩においても戦闘は武士だけであり会津戦争にいたっては会津藩の一部の百姓は倒幕軍に味方している。会津藩にとって永年の京都警備の為藩財政が破綻し領民に重税を課さざるを得ず領民の離反を招き気の毒な点もあった。庄内藩では藩士、農民まで倒幕軍との戦闘に参加しており戌辰戦争のなかで著しい違いを示している。庄内藩は奥羽列藩同盟の中では最強の軍備と資金を持ち武士だけではなく領民含めて倒幕軍と戦っており士気は非常に高かった。
<羽州戦の本格的戦闘の開始>
武雄兵戦線に参加
西日本の各藩とは対称的に奥羽各藩の倒幕派に対する抵抗は増大し倒幕に参加した各藩はさらなる兵力を求められた。特に佐賀藩に増兵が求められたのは武器の精良さもさることながら奥羽列藩同盟の「討幕は薩長二藩の私的なもの」との宣伝を避ける意味あいもあった。この様な状況下で佐賀藩武雄兵の出陣が求められた。
明治元年(一八六八)、七月二二日早朝、一番船は先鋒二大隊と大砲四門を積み込み瀬戸内海を西に向かい二三日朝、下関を通過、日本海を北上し二五日能登半島を通過し二七日秋田能代の港に到着した。鍋島茂昌の乗船する二番船は二二日午後一〇時出港し一番船と同様の航程をだどり二七日、秋田港外土崎港に入港した。一番船と二番船が別々の港に到着したのは当初二隻とも能代港入港予定だったが秋田に近い土崎港が安全と判明し変更の旨を一番船に伝えたものの海上での連絡が届かなかった為であった。能代港に決められたのは現地からの報告が秋田が庄内藩に占領されているかもしれないとの報が入っていた為で事態は切迫していたのである。二番船が秋田、土崎港に入港すると深夜にもかかわらず倒幕軍参謀、佐賀藩士前山精一郎は秋田藩の重臣を伴い船上に鍋島茂昌を訪問し、戦局逼迫のおり一刻も早く上陸し応援を懇願した。茂昌は深夜の上陸は危険だとして断り翌朝より上陸を開始、午後二時に全員無事上陸し秋田城下新屋の淨願時に着陣した。新屋は背後に雄物川が流れ武雄の陣が破られれば秋田城下突入は安易であった。一方、一番船乗り組の先鋒大隊は能代より八郎潟沿いを南下し途中二泊し八月一日秋田新屋に到着した。先鋒大隊の小隊長である平吉廉之助はこの時の手記を残している。
「人群墸墻(人々の垣根)の如く余が輩の行装を観る、北行に在りてや、都鄙を論ぜす我軍の休止する地の人民はなはだ携る所の小銃に注目す、蓋し、七連発即ち、私篇施弥(スペンセル)銃は皇国未だ知るもの無ければなり」
と書き残している。
一番船の先鋒二大隊の到着を待つように八月一日奥羽鎮守府より武雄兵に次の命令が出された。
「今度其の方引纏め着陣の人数、遠国遥々航海、疲労不一方筈候得共、既に賊徒国境に相迫り、官軍微勢にて、日夜苦戦之趣追々報知有之候に付、速に院内に繰り出し、到着の上は、官軍隊長に申し談じ、精々尽力可致候容、申付候事」
武雄兵の秋田到着時における庄内藩への侵攻は秋田から海岸線沿いに南下する海道口と山側の羽州街道を鶴岡にいたる山道口の二カ所で戦闘が行われていた。海岸線からと山手から二方向から庄内藩を攻撃しようとしていた。
七月始め倒幕軍は佐賀兵 七五三名、小倉兵 一四二名、薩摩兵 一〇三名、長州兵 一〇六名、筑前兵 一四一名が秋田に着陣し海道口と山道口の二つに分かれ庄内藩へ進撃を開始した。この佐賀兵七五三名は深堀領主鍋島孫六郎に率いられ参謀は前山精一郎で佐賀藩先鋒として一番早く京に着陣し北陸道をまわり江戸より仙台に上陸し仙台藩に捕らえられていた醍醐総督を救い出した後、秋田に着陣した。
山道口にあたる羽州街道沿いの新荘藩は倒幕軍が敗走した後は奥羽列藩同盟の部隊が駐屯していた。新荘藩は内応を約束しており倒幕軍が進撃を開始すると新荘藩兵は奥羽列藩同盟の兵士を攻撃一挙に敗走させた。庄内藩はこの方面に全然備えておらず精鋭を編成した庄内藩一番隊と二番隊は白河城攻防戦の応援を命ぜられ羽州街道を南に向かって出発した後だった。一番隊は七月四日鶴岡を出発し白河へ救援に向かう途中で上ノ山にて鶴岡より新荘藩の離反の情報と転進命令に接し即座に引き返した。庄内二番隊は一番隊より二日遅れで鶴岡を出発し白河城に向かったものの同じく楯岡にて転進命令に接し駆足に引き返し、夕刻には新荘城の数キロ南「舟形」郊外に部隊を集結し反撃の準備を終わっていた。倒幕軍は新荘城を取り返し勢いにのり舟方の奥羽列藩同盟の兵を攻撃した。前回とは違い舟形郊外には庄内藩正規兵、庄内二番隊が待ちかまえており同じく庄内正規兵、庄内一番隊も順次到着し万全の体制を整えていた。庄内藩の一、二番隊は庄内藩の正規軍であり精鋭をもって知られており従来の小競り合いとは違っていた。庄内一、二番隊は攻撃してきた倒幕軍を一撃で撃退すると本格的反攻を始め逆に倒幕軍を撃破しながら羽州街道を北上し新荘城を炎上させた。
同時期、海道口においては奥羽総督府監軍長州藩の山本登雲介は佐賀、福岡、秋田兵を率い海岸線に沿って南下し、庄内藩領小砂川を攻め女鹿村に迫った。庄内藩は正規の庄内三、四番隊を海道口に配置して待ちかまえており侵入してきた倒幕軍に反撃した。倒幕軍は持ちこたえることもできず大きな損害を出し小砂川を放棄し北方の塩越(象潟)まで後退しなければならなかった。庄内藩の進軍は続き七月二八日、庄内四番隊は矢島に攻め込み矢島藩主は自ら屋敷に火を放ち秋田に落ちのびた。三番隊は海岸線を北上し塩越(象潟)の倒幕軍陣地を攻めたてると倒幕軍は後退を重ね本庄まで引きあげざるをえなかった。武雄兵の到着時は庄内藩が正規兵の庄内一、二、三、四番隊の編成を終わり庄内藩の本格的攻勢が整い藩境を越え秋田藩攻撃に移った時であった。
武雄兵に奥羽鎮撫総督府からの当初の命令は山道口の院内へとなっているが情勢の急変により海道口の本庄に変わったのかもしれない。しかし平吉廉之助の手記によれば山道口院内への記述はなく海道口、本庄へ出陣となっており本当のところはわかっていない。監軍山本登雲助は武雄兵の到着により庄内藩に反撃できるとして武雄兵に平沢に向かって進撃を命じた。同時に矢島奪回には弘前、秋田、福岡、本庄、亀田の藩兵が進撃した。八月五日早朝、武雄兵が平沢に入ると直ぐに戦闘となった。武雄兵はアームストロング砲により葡萄弾を発射、さらに七連発スペンサー銃の射撃が始まると庄内兵は後退を始めた。しかし昼過ぎになり雨もあがると大軍の庄内兵が押し寄せ三方より攻撃を始めすさまじい銃撃戦となった。庄内兵は続々応援の兵を繰り出し劣る兵器でありながら逆に武雄兵に肉薄し砲隊、松山支藩兵も加わり海には鉄砲隊を乗せた船を浮かべ包囲する体制を整えていった。武雄兵には援兵なく退却の命令を出さざるをえなかった。
「賊峰、はなはだ鋭にして流丸雹霰(ひょうやあられ)の如し、我軍事に苦戦す」平吉廉之助は書き残している。初戦敗退で戦死者二名、捕虜二名を出し退却の際も
「風起こり雨来る、兵に雨衣無く、衣袖皆濡れる」
武雄兵は後退し続け夕刻本庄にようやくたどり着いたが本庄は原野であり守戦に適さないとして即座に退去し六日午前六時頃松ケ崎にたどり着いた。倒幕軍についた亀田藩の離反の噂が飛び急遽松ケ崎から道川まで後退した。折りから五日と六日は大雨が降り、雨の中の退却に輜重夫は逃げ出し武雄兵みずから荷物を肩にしての行軍は難渋を極め、途中弾薬三荷が庄内兵に捕獲される始末であった。同様に矢島に攻め込んでいた倒幕軍も撃退され秋田城下に逃げ帰った。庄内兵三、四番隊は平沢での完勝により亀田藩を味方につけ亀田領、道川に軍をすすめ、眼前は秋田城であった。
倒幕軍は庄内藩領に攻め込もうとしていたが反対に強力な庄内藩兵の前に敗退し後退を余儀なくされていた。倒幕軍が庄内藩相手に苦戦している中、突如奥羽列藩同盟の盛岡藩兵一五〇〇名余が藩境を越え秋田領進撃を開始した。盛岡藩兵は秋田の北東の要衝、大館をめざし進撃しており秋田藩は南に庄内藩兵、北方より盛岡藩兵の攻撃を受けることになった。秋田藩は庄内藩進撃の基地としていたが庄内藩からは攻めたてられ新たに背後から盛岡藩の攻撃を受けることになった。盛岡藩兵は攻撃に対して備えのない秋田兵を追撃しながら大館に迫った。八月九日、盛岡藩は「一二所」に侵入しこの方面の秋田兵はわずか二四〇人余りでその装備も一二〇丁の火縄銃と槍、刀のみであった。
総督府の醍醐忠敬は次の文を書き残している。
「庄内兵は小砂川口より大挙来襲、矢島を放火、亀田に迫り、亀田藩主庄内に降る。庄内兵本庄に迫り、官軍これを固守す。この日、南部(盛岡藩)は賊となって突然一二所を犯す。城市騒然」
侵入した盛岡藩兵には秋田、弘前の両藩兵があたったが盛岡兵は大軍をもって進撃し八月二二日には大館を完全占領し能代をうかがう事態となった。能代が落ちれば秋田は完全に孤立が避けれなくなってくる。奥羽総督府は新たな対策を迫られ盛岡藩相手に佐賀藩士、田村乾太左衛門を大館口仮参謀に任命しすべての権限を与えた。八月二二日、秋田郊外の港船川に上陸していた佐賀藩小城兵一〇小隊と庄内藩と対峙していた同じく佐賀藩兵三小隊を抜き佐賀藩が中核となって盛岡兵とあたることになった。仮参謀田村乾太左衛門は斥候隊五名を先発させた。同時に田村乾太左衛門は手勢の佐賀藩兵約三〇名をつれ盛岡兵との戦場になっている「荷上場」に向かう途中盛岡藩迎撃を命じられた小城支藩の二人の大隊長に面会を求め、今後の指揮について調整をしている。
田村乾太左衛門は
「二君の官職は我より上なり、余の指揮を受けんや否や」
との問に小城支藩の二人の大隊長は
「軍中のことは平時に異なり、君の指揮に従わん」
この打ち合わせの裏には佐賀藩の大隊長は通常一〇〇〇石から一五〇石の大身であり田村乾太左衛門はわずか一五石である。この確認は戦場で無用の混乱を起こさぬよう念を入れたものと思われ田村乾太左衛門の慎重な性格を示している。田村乾太左衛門は道を急ぎ八月二七日、荷上場に到着した。大館の資料には
「八月二七日昧爽(夜明け)参謀副役佐賀藩隊長、田村乾太左衛門は我が北部戦争の官軍総隊長として佐賀藩兵三〇名を引き連れ秋田藩士鈴木三郎太郎と共に荷上場駅に到着する」
一方小城支藩の兵は急を要する戦場でもあり脚力強健の者を先行させ早い者から順次到着し二八日にはほぼ全軍到着した。先発させた斥候隊は二七日に到着して戦場の斥候を終わっていた。八月二七日の大沢付近の戦闘において
「盛岡兵の優勢な敵襲を受け秋田兵は山から追い落とされた。報告により秋田藩援兵と小城兵五名が大沢に向かったが同地の秋田兵は退却寸前だった。援兵の到着により攻勢をとって山上陣地の回復攻撃に向かい盛岡兵は山上にありながらわずか五名の小城兵の連発のスペンサー銃射撃に閉口した。五〇名の盛岡兵は五名の小城兵にかなわず払暁までに山上陣地より後退した」
スペンサー銃を持つ佐賀藩兵が到着すると戦場は一変した。佐賀藩兵の持つ七連発のスペンサー銃と盛岡兵の旧式な火縄銃では勝負にならなかった。佐賀藩兵の到着時より盛岡藩兵は一方的に後退するだけとなった。九月六日、盛岡兵は大館を放棄し藩境まで一方的に後退せざるをえずこの後、盛岡藩は藩境まで破られ降伏の使者を秋田に送り戦闘を終了させる以外なかった。佐賀藩の新兵器の威力と共に戦闘方法にも習熟し、田村乾太左衛門等の真の力量を持つ者を参謀に任命するようになった。近代兵器と共に指揮官に人を得ると決着は早くなった。
一方庄内藩相手の戦闘では庄内藩一、二番隊は新荘の城を陥落させた後も進撃をゆるめず奥羽街道を北上し山道口より秋田城に向けて進撃を開始した。難所とされる雄勝峠で倒幕軍の防御線を破り院内を陥落させ湯沢、横手を通過し八月一六日には大曲に入った。大曲は雄物川が大きく流れを変えている場所で対岸は角館であった。この間、倒幕軍にとって一方的な後退の陰には正面よりの強力な庄内一、二番隊と仙台藩兵が背後を襲うとの噂がながれ退路を断たれる恐れがあり戦闘を避け一方的に撤退を急いだ事も一因だった。雄物川南岸に達した時点では庄内藩は圧倒的に装備、士気すべてに優っていた。庄内兵は雄物川河畔に達し進撃が止まり川を挟んで倒幕軍と対峙し戦線は膠着状態となった。
倒幕軍は後退に後退を重ねていたが長崎新遠隊約四〇〇名、大村藩三二四名、島原藩二五七名、平戸藩約四〇〇名、薩摩藩六三七名、佐賀藩一二五九名の九州を中心とする応援部隊が続々秋田に到着し山道口の戦線に投入された。八月二三日、多くの応援部隊を得た倒幕軍は反攻にでた。特に薩摩兵は雄物川を渡河、花館の庄内兵を駆逐し大曲に駐屯する庄内一番隊を攻撃した。庄内兵は薩摩藩兵の攻撃をしのぎ戦闘は膠着状態のまま夜になった。その夜、庄内一番隊は少人数で花館の薩摩藩兵を攻撃した。薩摩藩兵は昼間の激戦にて全員就寝中で夜間の奇襲に備えなく大混乱に陥り薩摩藩の隊長まで戦死し庄内藩の圧勝に終った。薩摩藩兵を中心とする倒幕軍は元の雄物川北岸に引き返さざるをえなかった。
庄内藩はこの戦いの後「その射弾の烈しい事従来の比ではなく、遠距離でも良く命中する」として新しく到着した倒幕軍と武器の優秀さを書き残している。庄内藩にとって戦う相手が従来と違い強力になってきたと認識している。倒幕軍は雄物川中流域の北岸に陣地を築き防衛線とし守りに入った。八月二八日、庄内兵は倒幕軍が持久戦に入ると雄物川を渡り角館の倒幕軍を攻撃した。しかし角館は自然の要害に加え最新の武器を手にした九州を中心とした多くの援兵が配置され攻撃した庄内兵は多くの損害をだし撤退せざるを得ず初の完全敗北であった。
一方、海道口では八月一八日、庄内藩三番隊は長浜付近より秋田に向かって進撃を開始した。守備をしていた秋田藩兵は持ちこたえず後退を始めた。直接指揮をとり始めた鍋島茂昌は衝突と同時に武雄兵三小隊を前線に送り秋田兵を収容しながら逆に庄内三番隊の右翼を包囲、スペンサー銃とアームストロング砲で反撃を開始した。的確な防御戦の指揮と優秀な兵器の前に庄内三番隊は退却せざるをえなかった。この戦いでは薩摩の軍艦、春日丸が加わり海より艦砲射撃し、軍艦への対抗兵器を持たない庄内藩兵は一方的に後退するしかなかった。庄内藩は海道口でも初めて完全な敗北を喫した。倒幕軍のスペンサー連発銃、アームストロング砲、艦砲射撃等新兵器の前に庄内兵は勝利する方法を見つけることができず作戦行動は鈍化した。庄内藩の攻撃も艦砲射撃を避け戦線を山側に移動しなければならず、スペンサー連発銃を持ち常に側面より包囲攻撃してくる武雄兵の対策が必要となり攻撃体制をとることが難しくなった。庄内藩は秋田進攻の作戦立案ができず指揮も乱れ始めた。九月四日、庄内藩は積極的な攻勢を取らぬとの理由で庄内三、四番大隊長を免職した。この事件により後任の大隊長はより積極的な作戦攻撃を要求され無理な作戦をもたてざるを得なくなった。対称的に当初は弱兵と呼ばれていた秋田、佐竹支藩等の東北の倒幕軍の兵にも新式銃が行き渡り始めると庄内兵と対等に戦うようになり庄内藩の勝利はますます遠くなった。
九月八日、庄内藩は初の庄内二、四番隊による山道口、海道口の共同渡河作戦を実行した。庄内二番大隊は秋田と角館の防御の弱い中間で雄物川を渡河、秋田兵を中心とした倒幕軍を追い散らした。この方面にいた沢副総督は角館に避難、長崎振遠隊、筑前、島原兵まで背走し角館に逃げ込んだ。庄内二番大隊は雄物川渡河攻撃後、左右に戦線を拡大し刈和野まで到達し倒幕軍に脅威を与えた。同じく庄内四番大隊も二番隊の渡河地点より川下で渡河したがこの方面の秋田兵は既に武器を一新しており福岡、新荘等の兵も待ち受けており激戦となった。庄内四番隊の渡河攻撃の報に武雄兵は予備隊を派遣、三小隊は雄物川を渡り約五キロを一挙に駆け抜け激戦中の四番隊の側面を攻撃すると四番隊は一挙に崩れ敗走を始めた。武雄兵の側面攻撃に庄内藩四番隊は多くの死傷者と数門の大砲や数十の施条銃を遺棄し初の庄内藩正規大隊単位の敗走になった。倒幕軍にとっては相手の作戦を見抜き十分に余裕をもった防御戦であり兵力の集中が円滑に進み兵器の威山本登雲助力を十分発揮する戦場となった。庄内藩にとって大隊長罷免の後の作戦でありあせりを誘発させ作戦自体が相当無理があり、庄内二番隊の渡河攻撃の成功も四番隊の完敗により孤立化し引き返さざるを得なくなった。庄内藩の大敗北の影響は大きくこの戦い以後、秋田への進軍は全く不可能で勝利の展望も見いだせず総退却につながった。九月一八日、庄内藩は総退却の命令を出し庄内三番四番隊に続き庄内藩第一、二大隊も鶴岡に向け撤退を開始し、九月二七日に正式に倒幕軍に対し降伏を表明し羽州戦争は終わった。
武雄兵は当初、倒幕軍の指揮官山本登雲助の敵情を考えない作戦の為苦戦をしいられた。この反省から鍋島茂昌は庄内藩の強大な戦力の前に戦線を整理し、山道口の鍋島藩兵を海道口に転換し統一した指揮下にいれた。茂昌は庄内藩の強力な兵力に対抗するため徹底した防御戦で対抗した。羽州戦の途中より倒幕軍通じての作戦が慎重になり相手かまわず突き進むことがなくなっている。七月末の武雄兵到着時の海道口の指揮は監軍山本登雲助がとっており途中罷免の事実はなく形式的には最後まで山本登雲介がとっていたものと推測される。しかし途中より茂昌もしくは佐賀藩参謀前山清一郎が全面に出て指揮をとったと思われる。佐賀藩参謀前山清一郎は山本登雲助をたびたび批判しており戦闘末期には山本登雲助はほとんど監軍としての発言力を失っていた。前山清一郎の手記が残っている。
九月一六日、庄内藩総退却の二日前、庄内藩兵が糧食を腰にして戦闘をしたことについて山本登雲助は「庄内の兵は連戦連勝、本日の戦いは殊に勇強、小荷駄を肩にして奮戦せり、その勢い当たるべからず、秋田城の運命も明日には尽きん」と述べこれに対し前山清一郎は「越後の官軍が必ず勝を得たるべし。庄内兵の敗走は今夜にあらん、官軍反撃をなさば必勝して前日連敗の汚名をすすぐを得と」登雲助は理由が分からず何故か問うと前山清一郎は「庄内兵が小荷駄を肩にせしは越後口の官軍が既に庄内に進撃するをもって軍を退けんと欲してなり。前日の戦いが平日に比べ強力なのは当表の官軍の追尾せんことを恐れてなり」と述べている。戦闘終盤、長州藩監軍山本登雲助は庄内藩は総退却する為の攻撃の意図を解せず秋田進攻と勘違い、監軍としての能力のなさを示している。山本登雲介が最後まで指揮をとっていたならば庄内藩勝利は間違いないところであろう。対盛岡藩相手においても田村乾太左衛門を任命するなど戦いの途中より奥羽総督府の作戦が的確となっていった。
茂昌は秋田城下新屋に本陣を置き最終的な防御線をつくり最前線には秋田藩兵、佐竹支藩兵を配置している。秋田兵を一番前線に配置したのは地元の主体性を尊重し士気の高揚からいっても当然の処置であった。庄内藩の攻撃を受けると最前線の秋田、佐竹支藩兵は陣地で持ちこたえる間に武雄砲兵はアームストロング砲をもって応援にかけつけ銃隊は攻撃軍の側面に回り込み側面より包囲攻撃する戦術をとっている。防御戦とはいえ武雄兵すべてを予備軍として温存し戦場のどこにでも投入できるよう機動性を持たせている。茂昌の作戦は単純で誰にでも分かりやすく、戦いに勝つ形ができあがった。戦術も柔軟で薩摩軍艦春日丸の艦砲射撃の威力を知り後には春日丸の艦砲射撃を作戦に組み込んだだけでなく武雄兵を船に乗せ海上よりスペンサー連発銃で敵軍の弱点を側面攻撃したり上陸攻撃をかけ機動力使った作戦を立てている。
庄内藩は最中的には敗北したとはいえ他の奥羽越列藩同盟の藩と違い自領に倒幕軍の侵入を許すことなく戦いを終えており誇ってよい成果である。羽州戦後、明治新政府は庄内藩に対して会津若松への転封を命じたが藩あげて反対運動を起こし転封処分を撤回させた。この後もいわきへの転封が示されたがこの折りも強力に反対運動を起こしており本間家は新政府へ献金し撤回させた。鶴岡藩の最終的な処分は一八万石から四万石の減封だけであった。
一方、会津藩は下北半島の不毛の土地へと転封となった。藩士は餓死の苦しみを伴う苦渋の生活を送り庄内藩と対称的であった。会津藩士の苦渋の生活は軍人柴五郎自伝が詳しい。柴五郎は北京の駐在武官時、義和団の乱の折り各国居留民の安全を確保しながら籠城戦を指揮し各国北京籠城の人々の賞賛をあびた。
秋田藩は勝利した藩であるが戦死者三五一名を数え負傷者は不明とあり勝利したものの庄内藩より多くの戦死者を出しており戦いの後の傷は大きかった。秋田藩では庄内藩との戦いにより大黒柱を失った家庭は悲惨を極めた。今でも秋田では廃藩置県の後、無禄の中に残された若い後家は伝家の刀まで売り尽くし飢えて泣く子を抱きながら虚空を凝視し死に逝く老父母を看取る哀れさを語り継いでいる。当然の事ながら庄内藩降伏の後、秋田藩が倒幕軍に参加するとき約束は何一つ履行されず奥羽総督は逃げるように秋田から立ち去った。
佐賀藩兵の西洋の組織化された軍事力は奥州はじめ戊辰戦争で大きな威力を発揮した。羽州戦における武雄兵の戦死者六名、負傷者八名であり対戦相手の庄内藩は戦死者二九八名、負傷者四一六名ととなっている。武雄、多久、小城支藩を含め佐賀藩全体では五〇〇〇人余り参戦し戦死者七十五名、負傷者百十三名であった。同じく薩摩藩七三〇〇名余り参戦し戦死者五一四名、負傷者七四三名を数えている。
<佐賀藩の解体に至る過程>
直正の外交の結末
佐賀藩における「外交」は藩主を中心に御側に属し一方「藩政」は請役を中心に請役所が受け持つのが佐賀藩旧来の組織原則だった。天保元年より始まる佐賀藩の藩政改革は斉直時代の藩政混乱の原因となった御側の請役所に対する干渉を排除することから始まったのは当然である。藩存立の重大任務である「外交」と「藩政」を完全に分離し責任を明確にした結果、請役所は「藩政改革」を成功させ佐賀藩を日本最強の藩に生まれ変わる事に成功した。天保時代よりすべての藩組織の機構改革を行い、藩軍事力の強化、長崎港警備の整備、人材の登用、農村改革、藩財政の健全化、藩運営の透明さは誇ることができる。幕末時、薩長はじめ多くの藩が藩内抗争を起こし同じ藩士同士が殺し合い見苦しい状態となった。佐賀藩内では藩内抗争、脱藩者も少なく大きな混乱は起きなかった。江藤新平始め数名の脱藩者も藩の決断を促すためで藩士同士で流血騒ぎ等は無縁といえる。
幕末佐賀藩では藩政の範疇に入るものは請役所を中心に順調に成果を重ねたが一方藩主、御側に関する外交の部門は失敗の連続であった。藩主直正は有能な側近を欠いたまま幕末外交を展開してゆかねばならなかった。幕藩体制下、平和の時代の外交といえば幕府や各藩とのつき合いにくらいであり、ある面では前例を踏襲するだけで凡人でも努めることができ有能な人材は不要であった。幕末は幕府、朝廷、薩長始め有力雄藩、浪士が私利私欲のみによって動き複雑かつ謀術渦巻く政局の判断は直正一人の肩にかかった。直正とてしょせん大名であり、世相に薄くこの時代の外交は荷が重すぎた。政策の一貫性を欠き幕府、他雄藩からはいつも疑惑の目でみられ常に決断できず遅れ遅れの失態続きとなった。佐賀藩の外交は機能的な請役所とは反対に時代に対応した外交の仕組みが確立しないまま幕末の混乱期に突入した。大名育ちの直正には外交らしき外交はできず混乱期の外交の陣容を整えるでもなく成り行きまかせの外交しかできなかった。倒幕の最終局面、鳥羽伏見の戦いの前にも態度を決めることができなかった。
御側の連続する外交の失態に御側に外交をまかせることのできない事態は衆目一致するところとなり佐賀藩は外交の組織改革をせざるをえなくなった。慶応四年(一八六八)八月、外交の連続する失態により御側は全く力を失い外交はじめ御側の機構を請役、請役所が吸収することとなった。請役所を中心に機能的な外交が可能となった。この改革は外交のすべての権限を請役に集中させるもので内政、外交まで含め藩の体制強化をめざしたものであった。ただこの改革は藩の体制強化には成功したものの請役に権限が集中し藩主としての権限が無くなり藩主の座がただ単なるかざりとなった事に気づく人は少なかった。幕末より明治の早い時代にはいると佐賀藩は支藩、大配分領を中心に独自の行動を始め旧竜造寺の諫早領などははやばやと独自に行動はじめ佐賀藩から離脱し独自の行動するようになっていった。
<明治以降の佐賀藩>
武雄領主、武雄茂昌の行動
明治二年(一八六九)、重臣達の間で藩政改革で意見が対立し請役の武雄鍋島家鍋島茂昌は一切の役職を辞職し二度と佐賀には帰らぬと言い残し武雄に引き揚げた。結局茂昌の後、請役に就任したのは神代刑部だったが領地や真の実力を持たない者の請役就任は藩に混乱をもたらすだけで単なる飾り物となっていた藩主への求心力をも一挙に失い実質上の藩解体にまで一挙に進んだ。
鍋島茂昌は武雄領に帰ると武雄領独自で武装を始め武雄城を整備し近代兵器を配備武装した。茂昌の行動は
「武雄は兵を挙げ佐賀城を乗っ取り竜造寺再興をめざしている」
佐賀城下に不安な噂となって広がった。
明治三年(一八七〇)、鍋島茂昌は新政府より招かれ上京、兵部省の顕職兵部大輔(少将)に就く事を進められた。羽州の戦場において近代兵器で戦った経験を高く評価しその一方で近代軍事用兵の才能に欠ける西郷隆盛の補佐を期待していたのかもしれない。しかし茂昌は兵部省の最高責任者が西郷隆盛と判明すると
「西郷の下で仕事をするのはいやだと」
と断り武雄に帰った。茂昌は西郷隆盛の能力を見抜いていたものと思われる。西郷隆盛は豪放な性格と思われがちであるが功績があったのは謀略だけで近代戦ではほとんど成果をあげていない。西郷隆盛は近代用兵の能力は無いといって良く戌辰戦争の彰義隊討伐、北陸、奥羽の各戦線においてもただうろたえるだけでだった。北陸の続く敗戦にうろたえ鹿児島に兵を集めに帰ったりしており冷静に戦場での判断ができなかった。結果として西南戦争ではその戦術指導の未熟さから落命する事になったのは周知の事実である。
明治四年、鍋島茂昌は再び上京し元佐賀藩主鍋島直大はじめ佐賀藩あげての任官運動にも首を振らなかった。鍋島直大の招宴が開かれ招待者は福島種臣、大隈重信、大木喬人、佐野常民、江藤新平等々今をときめく佐賀藩出身の新政府の顕官達である。
茂昌は案内される折り
「今日の席次は現職の席次のよるのか、旧藩時代の席次か」
と聞き
「旧藩時代の席次にて結構で御座居ます」
執事の声がかかると茂昌は招待者の一番上席に座った。出席者一同が席についたところで茂昌は一座を見渡すと佐賀藩出身の明治政府の顕官たちも誰一人として顔も上げることが出来なかったと伝えられている。今をときめく明治の顕官といっても時代が時代であれば茂昌とは同席もできない人々である。武雄鍋島家の茂順、茂義、茂昌と三代続く改革の努力がなければ佐賀藩の顕官達の地位も夢の又夢であったことは想像に難くない。茂昌は佐賀藩請役として幕末の佐賀藩の指導者であり御側外交の失敗を補弼し佐賀藩を明治政府成立の功労藩に仕立てた最大の功労者であることは出席者が一番よく知っていたと思われる。この後、鍋島茂昌は武雄から出ることなく乗馬、能楽に日々を過ごした。明治四四年、日露戦争の余韻も消える頃鍋島茂昌は七九才の生涯を閉じた。
<最後に>
戌辰戦争後の恩賞は薩摩藩長州藩永代十万石、佐賀藩二万石、奥羽の戦いでは何も功績がない西郷隆盛二千石、自分から軍監の資格なしと認めた大山格之助八百石、幾度も敗走し他の戦線まで迷惑をかけた山県有朋六百石である。明治政府は薩長土肥といっても実質は薩長の私物の政府で国の利益より自らの利益を優先し戌辰の戦役においても多くの愚物が目につく。奥羽総督府の参謀長州藩士、世良修三、薩藩士、大山格之助は世上伝えられているとおりであり論外といえよう。羽州戦における監軍長州藩士山本登雲介にしても満座の軍議の席上亀田藩隊長を鉄扇で殴りつけこの事が亀田藩を敵方の庄内藩につく原因となった。薩長にもう少し人を得ていれば「鳥羽伏見の戦い」以後の戦闘、特に奥羽の戦闘はなくてもよかったはずであろう。
薩長にひきかえ佐賀藩は明治になり多くの人物が多く輩出した。これは天保の改革を通じ人材の選抜を終わっていたことによると思われる。佐賀藩士前山清一郎は仙台藩に軟禁されている奥羽総督府九条総督を機転により救い出し情勢を的確につかんで任務を果たしており、羽州戦の参謀役としても任務を果たしている。佐賀藩士田村乾太左衛門は小身ながら参謀職に任命され秋田藩を背後から攻撃してくる盛岡藩兵の攻撃を阻止し逆に押し返した。会津戦争においても薩長土の兵は大規模な戦闘を交えずに会津城下に進撃しその後の籠城戦では佐賀藩のアームストロング砲のみが有効な攻城兵器となった。庄内藩は財政も豊かで治世も良好で奥羽列藩同盟の中では最強の藩で佐賀藩の羽州戦への参加がなければ秋田陥落は十分考えられる事態であった。
江戸開城の際、勝利者として江戸城に入った倒幕軍の薩藩士西郷隆盛は農事に関する書籍を収集し、参謀の薩藩士海江田武次は金は何処にあるかとしきりに軍資の所在を尋ねた。佐賀藩士、江藤新平はひとり政治向きに関する書籍簿冊の類を捜索した。この状況を目撃した山岡鉄舟は彼らの性格をありのままに発揮したるを推知するのであると控えめに書いている。佐賀の乱で非業の死を遂げた島義勇にしても明治初期、秋田県で知事当時干拓事業を起こし現在に至るも神様のように慕わており、佐野常民は赤十字を創ったように薩長と違って異才の能史を輩出した。
幕末期の佐賀藩の最大の功績者は武雄鍋島家鍋島茂義になろうが広い意味では藩の仕組み、中世より続いた日本的組織の柔軟さに求めることができよう。藩主の独裁を巧みに制限し集団として力を発揮できるような知恵を持っていた。武士階級、支配階級は自らの政策上の失敗を切腹で責任をとりこのような責任の取り方は他国にはない。武士といえども犯罪を起こせば斬首であり、切腹ではなかった。江戸時代が長く続いた理由の一つに為政者の責任と取り方の明確さにある。明治維新の武力革命の旗印となった攘夷も倒幕が達成されると実にあっさりと捨て去られた。攘夷と称される外交問題でしか革命のかけ声となり得なかったが逆には内政では問題にならなかった事を示している。内政問題では革命のかけ声すらならずほぼ完全であった。江戸時代は軍事政権であるが日本にとって誠に平和な時代で国民の生命財産を実によく守っている。明治維新を日本の夜明けと書いてある教科書もあるが明治維新は日本民族にとって暗黒時代の始まりであった。明治維新より昭和二〇年間の七十数年間は戦争にかり出され七、八百万人もの尊い人々が幸せな家庭生活より徴兵され戊辰戦争、西南戦争、中国、南方で餓死等非業の死を遂げた。短期間に日本国民にこれだけの死者を出した政権は日本歴史上最低の時代といえる。長崎、広島では十数万人もの人々が生きながら焼き殺された。一〇〇〇万、二〇〇〇万人とも数えられる他国民の生命を奪い取った時代の始まりを文明開化となぜ呼べるのであろうか。
日本史に断然輝いて見えるのは江戸時代であろう。誠に平和な時代を続けたものでこの時代を支えた武士は称賛に値する。何といっても支配階級の責任が非常に追求された。権力の座にある者の政策は正誤にかかわらず結果責任を求められた。政策上の失敗は切腹によって責任をとり自らの生命を賭け政策を推進したのであった。ただ民だけに悪政の結果を押しつけることはまずなかった。江戸時代は日本史における最長の戦争のない時代であった。日本史において天皇が歴史の表面にでてくると民が多く死ぬが江戸幕府は日本史における不思議な存在天皇の処遇をよく心得ていた。明治維新以後の歴史は下賎の連中が西洋からの法律で自らの立場を合法化し自己利益の為だけに政治権力を行使した。旧日本軍もそうであるが同じ選抜方法をとっている官僚達も記憶力が優れているだけの人々を幹部に据え特権集団を形成し善良な市民の生命をもてあそんだ。ただ単なる記憶力、紙の上だけの試験で選んだ集団は非常に危険な人間集団であることは旧日本軍に例を求めるまでもなく現在においても政、官、法曹等は危険者予備者の集まりと呼べるのである。共通することは一片の試験に合格した人間は自ら責任を絶対とろうとしないのである。水俣病、エイズの大量発生、住専等はその発生だけで政、官の担当者の処刑を実施すべきであろう。軍隊や社会の仕組みを西洋から導入しながら敗軍の将官は銃殺刑が当然であるのにこの決まりだけは導入しないのはいかにも日本の指導者層の人間が卑しい。日中戦争、ノモンハンの事変の後、現地の最高責任者と参謀を銃殺刑にしておけば日本歴史の汚点である外国軍隊の駐留を許すことになった太平洋戦争はよけいなものであった。
この様にしてみると中世から近世の日本人がつくりあげた日本社会と比べ明治以降の西洋型国家は多くの欠陥を持っていることである。日本の国は明治維新から七五年で国が滅びたが最近の住専の不始末、神戸大震災後の救援活動等にみられる硬直した官僚機構や社会構造は政治家、官僚、経済界癒着、腐敗の構造は西欧型民主主義国家の限界を示している。江戸幕府は約二五〇年続き外交はともかく内政ではほとんど失点が無かった歴史を良く学ぶべきであろう。
ふとふと江戸時代の事を思うのである。大藩の藩主といえども切腹におびえ身分の高い人ほどその役職の決定には命をかけ政策を実行していたのである。江戸時代の日本は非常に豊かであった。明治期の税金と比べても雲泥の差くらいの安い税金であり、明治にはいってから小作農が増大しているのは農村振興より徴税を優先した結果である。国民総生産高が余り変わらぬ江戸時代と明治と比べてみても世界の列強と比しうる軍事力を備えられたのもすべて税金からであり江戸時代は近代兵器を購入する軍事費が無かっただけ住みやすいといえる。何といっても江戸時代、農民始め庶民は軍隊に徴兵されることもなく生命を奪われる恐れもなくびのびと生きた時代で江戸期の日本は実に住み易い国であった。
一九九六年、秋この原稿を仕上げるために東北各地を旅行した。思い出深いのは何といっても鶴岡市である。上品で奥深くそれでつつましやかで想像していたとおりの街であった。街で会った人々も親切さが上品である。俗悪な観光地の商人の丁重さとは違い優雅なのである。人々を見るときにはいろいろな見方があろうかと思われる。悪人、善人とも分けれようがいざとゆうときには悪事も働かなければいけないときもあろう。我が子を飢えさすわけにはゆかないのである。たとえ盗んでも我が子の口には入れなければならないのである。このようなときは親鸞上人もこのような悪人は良しとするであろう。鶴岡市はそのような上品さを感じるのである。幕末、突然、朝廷をそそのかした西方の藩より賊軍の汚名をきせられた。しかし賊、悪人、反朝廷と名指しされようと妙に上品なのである。育ちは消せないのである。かえって薩長を中心とする倒幕軍が品が悪いのである。武雄の初戦の折、武雄の軍夫が二人庄内藩の捕虜となったが丁重に送り返している。庄内藩は売られた喧嘩を血を流して受けなければならなかった。困難ななかにも上品に受けとめている。人間の品性はどこかでてくるものである。
今泉信彦氏は近々武雄の資料の本を出版するそうです。ぜひお買い求め下さい。
主要参考文献