中世の女性達

  ルイス・フロイスと佐賀藩内儀方

吉田 幸男

 諫早市西小路町天祐寺境内にある諫早家の墓所は初代竜造寺家晴はじめ歴代領主の墓が一代も欠けることなく整然と並び大きさも揃って見事な景観をみせております。しかし藩主の整然とした墓の並びとは対象的に初代・二代の諫早領主夫人の墓は諫早家の墓所にはありません。この夫人達の墓の問題から当時の女性の地位、実像を明らかにし、歴史の真相に迫りたいと思います。ここでは一般的な中世の女性の事例についてもふれ理解の手助けとし、その資料は中世の日本に来日しヨーロッパに多くの日本に関する報告をしたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスです。ルイス・フロイスの日本報告と佐賀藩内儀方資料により領主夫人の墓の秘密に迫りたいと思います。

 宣教師ルイス・フロイスの記録

 日本における中・近世に到る時代をさかのぼってみましょう。当時の第一級の資料は外国人の宣教師ルイス・フロイスに求めることができます。ルイス・フロイスはキリスト教の一派イエズス会の宣教師として来日し激動の時代を過ごしました。永禄五年(一五六二)より慶長二年(一五九七)長崎の地で没するまでの三〇数年間に多くの書簡を戦乱策謀の揺れ動く京都・堺・平戸・横瀬浦・口の津・長崎から発しております。それには日本の政治情勢は勿論の事当時の権力者織田信長、豊臣秀吉、徳川家康そして竜造寺隆信、大村、有馬氏等耳慣れた人々の動きまで含まれております。加えて一般民衆の生活まで細かく興味深く書かれております。歴史から民俗学まで含む非常に貴重な報告書です。ルイス・フロイスの「日欧文化比較」により当時の女性の姿に迫ってみてみましょう。ただルイス・フロイスがヨーロッパにおいては身分が高い宣教師であり、日本においても身分の高い人々の事を書いたとは思われますが具体的な記述はありません。何を見て書いたのか理解に苦しむ点もありますがそのまま引用しておきます。

 日本の女性とその風貌、風習について、日欧文化比較より

 一、ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と尊さは貞操であり、またその純潔がおかされない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ、結婚もできる。

 二九、ヨーロッパでは夫が前、妻が後ろになって歩く。日本では夫が後ろ、妻が前を歩く。

 三〇、ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける。

 三一、ヨーロッパでは妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、又結婚もできる。

 三二、ヨーロッパでは夫が妻を離別するのが普通である。日本ではしばしば妻が夫を離別する。

 三四、ヨーロッパでは娘や処女を閉じこめておく事は極めて大事なことで厳格に行われる。日本では娘たちは両親に断りもしないで一日でも数日でも、一人で好きなところへ出かける。 

 三五、ヨーロッパでは妻は夫の許可がなくては、家から外へでない。日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている。

 四三、ヨーロッパでは尼僧の隠棲および隔離は厳重であり、厳格である。日本では比丘尼(尼)の僧院はほとんど淫売婦の町になっている。

 四四、ヨーロッパでは尼僧はその僧院から外に出ない。日本の比丘尼は何時でも遊びに出かけ、時々陣立(じんたち、軍陣の事、戦場か)に行く。

 五一、ヨーロッパでは普通女性が食事を作る。日本では男性がそれを作る。そして貴人たちは料理を作る事を立派な事だと思っている。

 五二、ヨーロッパでは男性が裁縫師になる。日本では女性がなる。

  五三、ヨーロッパでは男性が高い食卓で女性が低い食卓で食事をする。日本では女性が高い食卓で、男性が低い食卓で食事をする。

 五四、ヨーロッパでは女性が葡萄酒を飲む事は礼を失するものと考えられている。日本ではそれはごく普通の事で祭りの時にはしばしば酔っ払うまで飲む。

  以上はルイス・フロイスが中世の日本において女性に関した記録です。またルイス・フロイスは日本の子供の姿に触れておりますので紹介します。

 日本における児童及びその風俗について、日欧文化比較により

 二、ヨーロッパの子供は長い間襁褓(むつき)に包まれその中で手を拘束される。日本の子供は生れてすぐに着物を着せられ手はいつも自由になっている。 

 七、ヨーロッパでは普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういう事は滅多に行われていない。ただ言葉によって譴責するだけである。

 一三、ヨーロッパの我々の子供はその立ち居振る舞いに落ち着きがなく優雅を重んじない。日本の子供はその点非常に完全で全く賞賛に値する。

 一四、ヨーロッパの子供は大抵公開の演劇や演技の中でははにかむ。日本の子供は恥ずかしからず、のびのびしていて愛敬がある。そして演ずるところは実に堂々としている。

 ルイス・フロイスは驚嘆しながら日本の子供達の世界を見ておりますが最近は日本の良き子供もヨーロッパの子供と同じになりました。いろいろ述べられてはおりますが一因として日本の地位の高い家の子供は自分の家で子供は育てませんでした。乳母の習慣があり生れるとすぐに乳母に預けました。やはりこの育て方が子供を育てる上では良かったのかも分かりません。母親が自分の子供を育てると親の甘えが全面にたち本当の意味での子供を躾る、教育することがなかなか難しいのかも分かりません。以前の日本人は教育について体験的に何が大切かを知っていたようです。

 明治より昭和になり母親が自分の子供を育てる様になるとルイス・フロイスが嘆いたヨーロッパの子供達になってゆきました。また日本には子供に体罰を加える習慣もなかったようです。現在学校教育の場盛んに行なわれている体罰も明治以降、特に日清、日露の戦いをつうじ教育の場に持ち込まれたようです。江戸時代の教育者は全て学問の場での体罰を否定しておりますし最澄も否定しております。それにしても本当にルイス・フロイスが目にした美しい日本の子供達は今はどこに行ってしまったのでしょうか。

  日本における結婚の様式 

 幸いにも日本においても古来より多くの書き残された資料がありその数には困りません。日本の原始時代の結婚の様式については知識を持ち合わせておりませんが、日本において古来より婚姻は婿入り婚と呼ばれる方式がとられていたようです。この婚姻方法がすべての身分に通用するかどうかは分かりませんが通常は男性が女性の家に通い女性に気に入られればその家に入り婿となります。現在とは逆の方法が採られていたようです。したがって結婚が成立するまでの女性は自宅で男性の来訪を待ちそれも相手は一人だけの場合は珍しく複数相手の場合の方が一般的であったようです。一方男性も訪ねる家が一軒だけでは不安であり、数人の女性の家を回っていたと解するのは常識でしよう。このような状態、すなわち婿入り婚の様式からルイス・フロイスの見たような男女関係ができあがってゆきました。したがって万葉集にはおおらかな恋の歌が含まれているとよく書かれておりますがそれは真っ赤な嘘で男性にすれば就職運動の歌、女性にすれば良い男を見つけだす儀式の歌と解すべきでしよう。それにしてもおおらかな日本の女性の地位を象徴しております。中世以前より家屋敷等の財産は母から娘へと受け継がれ女性が財産の相続権、管理権があったようです。ただ男性は父の官職をそのまま世襲しますから現在とは少し違ってはいるようです。

 江戸時代においても医者、儒者、大名等の系図を調べて見ましても婿入りが多い事に率直驚かされます。中・近世は婿入り婚が普通であり当然な現象でありました。婿入り婚は優秀な男の後継ぎを見つけることができ、財産を分ける必要がなく、嫁姑の紛争もなくはぼ理想的な家庭が築けます。現在、婿入り婚が一般的になれば家族の問題、独居老人等の大部分問題が解決を見る事になります。私の故郷香川県塩飽の島々では最近まで漁師の間では婿入り婚がつづいておりました。

 ルイス・フロイスが書き残した女性に関する事柄はこの婿入り婚を前提に考えればそんなに飛躍した考えをしなくても想像することができます。それにしても中世の女の人は明るく、結婚前から夜遊びはするし、人生を謳歌し、祭りにはおおぴらに酔っ払い、男を従えて歩き、良く遊び、堂々と男を離縁していたようです。

  日本における結婚の様式その二

 異端な人々の台頭ー 関東武士

 ところが日本には婿入り婚ばかりではありませんでした。現在にも続く嫁入り婚の習慣を持つ勢力が台頭してきます。中世始め嫁入り婚の文化を持つ勢力が天下を握ります。鎌倉に幕府を開いた関東武士団です。関東武士団は常に荒れる関東平野から育ち、特に京都を中心とした日本古来の文化を持ちませんでした。関東平野は季節風、洪水等自然条件が厳しく農業といっても境界争いは日常茶飯事で戦闘を職業とする武士団でなければ勤まらず、男性が家を継ぎ一夫一婦制でした。例をあげればこの文化の違いは源頼朝とその妻政子の確執の原因となったようです。京で育った婿入り婚の文化を持ち政子以外の夫人のところを訪ねる事に疑問を持たなかった頼朝と一夫一婦制のなかで育った政子とではとかく問題になったようです。源頼朝から続く源氏の政権がいろいろな問題を起こし悲劇的な終末に終り、関東武士の流れを組む北条氏へと政権が移ったのは余りにも違いすぎる文化だった事も原因の一つでした。この鎌倉時代と共に武士が権力を握るにつれ武士の社会が確立し、日本では異端であった嫁入り婚が徐々に広がってきます。しかし武士が人口に占める割合は少なく、京都を中心とする公家文化は従来の通り婿入り婚の様式でした。当時の公家社会及び西の文化を持つ者からみますと関東武士団は東の夷、田舎の風習、身分の低い武士の物真似などする必要もありませんでした。中世より近世に移る時代にしてもルイス・フロイスが見た通りの社会でした。江戸幕府とともに全国的に武士の社会の結婚は先に述べた関東武士の風習が広まっていったようです。

  日本における離婚の方法

 結婚があれば離婚もあり、結婚と離婚とは裏表の関係にありますがルイス・フロイスは日本における離婚の方法にも驚いているようです。ルイス・フロイスの文章は日本の女性は男性に従属するような内容は読み取れません。逆にどうみても日本の女性が上位であり逆にヨーロッパの女性が下位のように読み取れます。実際ルイス・フロイスの文章によれば日本ではしばしば妻が夫を離別すると書かれてあります。近世における離婚にあたっては男より女性に「みくだりはん」(通常、三行と半分に書かれた。しかし例外もあり。現在の離婚証明書)を渡すことによって成立しました。この事をとらえ江戸時代は男が一方的に離婚できた根拠にしておりますが実際は相当違う様です。最近は民俗学の方面からいろいろ研究が進んでおります。それによりますと離婚にあたり男性側が「みくだりはん」を女性側に出す事は勿論ですが、男性にしても女性より「みくだりはん」の受取り証を貰わなければなりませんでした。これを「返し離縁状」もしくは「返しみくだりはん」と呼んでおりました。男性は離縁した女性よりの受取り証なしに再婚すれば、何か事ある時に「返し離縁状」がなければ重婚罪となり「所払い」の追放刑の重罪が待っておりました。「みくだりはん」の前提としては女の持参金、嫁入り道具を全て返さねばならず一点をも欠けては「みくだりはん」は出せなかった事は勿論です。以前目にした資料で現在本棚を探しても見つけることが出来ませんが、ある地域の「みくだりはん」の調査によりますと現存する「みくだりはん」と家系図を比べて見ますとほとんどが婿入りの家であったとの報告だったと思います。後継ぎが出来ると女は男に「みくだりはん」を書かせ手切金を渡し家から追い出したのががほとんどであったとのことです。これまたルイス・フロイスの記述どおりです。

ルイス・フロイスは中世の日本でこの報告書を執筆したおり、日本に関するこの報告書が絶対にヨーロッパにおいては絶対に信用してもらえないだろうと思って書いた事でしょう。

 鍋島と諫早の矛盾の噴出

  墓に現れた松壽院と慶巌院の不思議

 天正一五年(一五八七)、竜造寺家晴は柳河(現福岡県柳川市)より伊佐早の地在領主、西郷氏を追い払い伊佐早に入部しました。家晴の最初の夫人は千葉胤繁氏の娘です。千葉氏は名前の通り関東出身で、鎌倉時代初期、肥前小城(現佐賀県小城町)に地頭職に任命され肥前千葉氏の始まりとなりました。千葉氏は少弍氏、竜造寺の有力領主となり佐賀藩祖鍋島直茂も一時は千葉氏の養子となったことがありました。家晴に嫁した千葉氏の娘は早死にし後家晴は再婚し、夫人は竜造寺隆信の娘です。家晴の墓は前述の通り西小路町天祐寺にありますが、後の夫人となる竜造寺隆信の娘の墓は本明川を挟んだ浄土宗慶巌寺にあり夫婦は別々の墓で場所も離れております。付け加えれば隆信の前夫人の墓は竜造寺隆信が島原で戦死の後、荼毘にふされた北高来郡高来町小江の鏡円寺に葬られております。

 諫早領主の二代目直孝は鍋島氏の傘下に入る時に姓を竜造寺より諫早に変えました。諫早直孝の最初の夫人は竜造寺政家(竜造寺隆信の子)の娘・松壽院ですが後の夫人は佐賀鍋島藩祖鍋島直茂の娘で彦菊・長寿院です。直孝の墓は天祐寺にありますが、最初の夫人松壽院の墓は慶巌寺にあり、後の夫人の長寿院の墓は天祐寺です。しかも直孝と長寿院の墓は一緒ではありません。長寿院の墓は一段と高い高台に建てられており花崗岩で作られた豪華な石室作りで歴代の領主の墓より格段に立派です。三代以降の領主と夫人はすべて夫婦並んでおりますが四代目の墓は夫婦一緒ですが石室作りであるのが歴代領主と違っております。興味をそそられる点は諫早領主に嫁いだ竜造寺隆信・政家のそれぞれの娘達、松壽院と慶巌院の墓は領主の墓所天祐寺ではなく、浄土宗慶巌寺に葬られており、第二代藩主直孝の後の夫人、長寿院の墓だけは歴代領主の墓よりも群を抜く立派な点です

  竜造寺より鍋島氏へ

 中世より近世に到り佐賀藩は竜造寺氏より鍋島氏に政権が移動します。この政権の移動は日本史にもまれに平和裏に藩主が交代しました。当時の政治情勢、藩内情勢に簡単に触れてみます。

 天文十四年(一五四五)竜造寺一族は味方を装う少弍、馬場氏の巧みな戦術にかかり有力な武将はほとんど戦死させられ一族は存亡の危機にたたされます。天文十五年(一五四六)残された竜造寺一門は僧門にはいっていた圓月を還俗させ竜造寺家を相続させました。この時の圓月が竜造寺隆信です。隆信は壊滅状態の竜造寺家を天正八年(一五八〇)には九州の五カ国すなわち肥前・筑後・肥後半国・筑前九郡・豊前三郡の広大な領地を傘下に納め九州の有力大名へ成長してゆきました。当時鍋島直茂は竜造寺隆信の有力武将として隆信の危機を幾度も助け竜造寺一門の中で最有力武将となってゆきました。鍋島直茂は竜造寺一族の中で領土を広げる為の独立軍的な兵を持ち筑前等では隆信生存中でも直茂自身の名前で領地安堵の書状をだしております。

 天正十二年(一五八四)、竜造寺隆信は鍋島直茂等家臣団の忠告を無視する形で島原の有馬氏攻略の行動にでます。これに対し鍋島直茂は有馬氏の背後には島津氏がつき侮り難い事、有馬氏に対しては寛容をもってのぞむように諌言します。しかし全ての忠告を無視した隆信は軍議の席でも一旦決定した作戦を突如変更するなどして戦いに臨み有馬、島津の軍の猛攻に遭い島原で戦死しました。島原の敗戦、隆信戦死の重大事態を迎えたにもかかわらず柳川に引きこもった鍋島直茂に対し、竜造寺一門は直茂に竜造寺の国政参加を依頼します。この背景には隆信の死後九州の有力大名である竜造寺・大友・島津氏の均衡が崩れ、とりわけ竜造寺は権力の中枢、隆信を失い大友、島津両氏の攻撃の矢面に立たされた事、加えて従来竜造寺の勢力下においても地在領主の離反が続き領国の支配さえ困難となった事があげられます。この逼迫した事態にもかかわらずあくまでも直茂は竜造寺の国政参加を拒否し竜造寺一門は最大の危機に遭遇しました。竜造寺の運命は鍋島直茂の国政参加しかないとみた竜造寺一門は竜造寺家老、須古竜造寺信周(隆信弟)を派遣し必死の説得を試みました。

 天正十二年(一五八四)四月八日直茂は肥後南関より家晴を柳河に移し、佐賀蓮池の城に入りました。この時竜造寺一門の有力領主は直茂にたいし起請文をだし全面的に協力する事を誓っております。これには隆信の子政家まで名を連ねております。このように隆信の死後竜造寺一門は鍋島直茂を中心にしてまとまってゆきました。鍋島氏の地位と実力は秀吉の島津侵攻、朝鮮出兵等をつうじ中央権力も認め、肥前佐賀は佐賀鍋島藩となってゆきました。

 しかし佐賀鍋島藩は関が原の戦に西軍に参加し敗戦、藩取り潰しは免れましたが外様(とざま)となり多くの公儀普請を命ぜられ未曾有の財政危機に陥りました。この佐賀鍋島藩の危機に際して諫早・武雄・多久・須古の旧竜造寺四家は自らの領地を削り佐賀鍋島藩の財政立て直し策としました。旧竜造寺四家は三部(三割)上地を二度繰り返しほぼ領地を半減させました。自らの領地を減らしたものの旧竜造寺四家は佐賀鍋島藩の危機を救い藩内に大きな発言力を得る事となりました。鍋島直茂は諫早・武雄・多久・須古の四家を加判家老に任命し佐賀藩政をまかせました。藩政の最高責任者は年貢の収納等財政をも含め大きな力を得る事であり、実質的な力は藩主以上のものがあります。藩は鍋島藩となりましたが実権は逆に竜造寺四家が支配する事となりました。竜造寺四家の佐賀藩政の場における力は強力で幕末まで変わることなく竜造寺四家の執行体制がほぼ続きました。 

  佐賀藩内儀方(ないぎかた)知行

 佐賀藩の藩主、領主夫人について具体的な資料、内儀方知行についてふれてみます。内儀とは一般的には身分の高い人の夫人の事をさしましたが時代を経るとともに夫人一般をさす言葉になりました。内儀方知行は領主夫人等の知行を指し知行地が水田ならば化粧田と称しておりました。佐賀藩成立時の内儀方知行として佐賀藩着到(分限帳)のなかで寛永五年(一六二八)、寛永一七年(一六四〇)、寛永一九年(一六四二)、明暦二年(一六五六)の分限着到には寺社領と内儀方知行の石高が示されております。佐賀藩の内儀方知行において驚ろかされる事は内儀方の合計石高が寺社領の半分にも達しております。この中には佐賀藩主鍋島勝茂の夫人、高原院(徳川家康養女)の内義方知行の中での豊後日田の知行や佐賀藩で大配分(三支藩、三親類、諫早、武雄、多久、須古領等)内部の内儀方知行は含まれておりません。日田の内儀方知行は慶長一〇年(一六〇五)徳川家康の養女高原院が鍋島勝茂と結婚した際に高原院が家康から賜ったもので最初は切米(米の現物支給)で渡されておりましたが、慶長一三年(一六〇八)になり日田の天領一〇〇〇石を割き高原院の化粧田とされました。この化粧田は藩主鍋島勝茂の知行する佐賀藩領三五万七〇〇〇石とは別の徳川家の化粧田でした。高原院の化粧田は佐賀藩にもあった筈でその分は佐賀藩の内儀方知行の合計石高に含まれている事になります。

 佐賀藩においては化粧田の譲渡は夫人の自由意志で決めることができました。化粧田は実家に返されたり婚家の知行に加えられるものとも決まってはおりませんでした。自由意志といっても化粧田の相続人に対して領主は再給する形をとる事は勿論です。侍の知行地を子に譲る場合藩主の了解が必要な事は当然でそれは内儀方も同じで藩主の了解が必要でした。

 諫早等の大配分内部での内儀方知行の石高が佐賀藩着到での内儀方知行の合計石高に含まれていないのは佐賀藩主の知行ではないからで大配分内部の侍の知行や寺社領と同様に佐賀藩の着到の上では大配分領主の知行高に含まれている事になります。化粧田の特徴として侍の知行であれば一人の侍が大配分領主と佐賀藩主の双方から知行を給わっている事はありません。しかし内儀方知行になるとちょうど高原院が徳川家の知行と佐賀藩の知行を合わせ持っていたように佐賀藩本藩の内儀方知行と大配分の内儀方知行の両方を一人でもらっている例は珍しくありません。

 内儀方知行は侍の知行であれば当然賦課される負担が免除されておりました。近世始め佐賀藩は公儀普請役を命ぜられ財政は危機に瀕し、慶長一六年(一六一一)三部上地、連年三部、五部、七部の高率の反米、反銀を課しました。それにもかかわらず慶長一六年(一六一一)の三部上地は内儀方知行にも及ばされましたがそれ以外は内儀方に関しては公儀普請、反米、反銀の負担からも免除されておりました。鍋島家と竜造寺高房の相続争いにかんして鍋島家の証人として江戸に向かった竜造寺四家(諫早、武雄、多久、須古)の費用、藩主の江戸出張に伴う費用は家中一律の負担とされましたがこれらも内儀方知行は免除されておりました。

 一、佐賀藩の化粧田は寺社領の半分と膨大で、これには大配分領内の化粧田は含まれておらず夫人達は多くの化粧田をもち膨大な収入がありました。

 二、夫人のものである化粧田は子供、実家、婚家の知行に加えてもよく、夫、実家から独立した存在でした。

 三、佐賀藩の夫人は内儀方知行を鍋島本藩領主と大配分領主の両方からもらっている人もおりますが侍ではこのような者はおりません。

 四、夫婦は別会計であり夫人は化粧田からの収入を何に使おうと夫から干渉は受ける事はありませんでした。

 五、侍の知行は家の知行として存在しておりましたが化粧田は個人の特有財産であり家の概念から離れて存在しておりました。

  竜造寺家の化粧田  妙安と槌市

 内儀方の資料が少なく非常に困りますがわずかに残された資料により推測しなければなりません。諫早領だけの化粧田の資料があれば良いのですが現在見つかっておりません。従って竜造寺、鍋島家の化粧田の資料により諫早領の夫人達の化粧田に迫らざるをえません。竜造寺家、旧竜造寺の多久家、小城支藩、佐賀本藩の資料を引用し諫早領化粧田の推測の材料としました。

 元亀二年(一五七一)竜造寺隆信は夫人の連れ子である妙安に化粧田を与えております。

 神崎之内西郷贅田ケ里の内

  一八坪九反の内 五段

  元亀弐年拾月一一日 隆信

  秀方(妙安)  参

 別の記録には宗 も化粧田を持っており、佐賀郡の高来村の一〇〇〇石を二つに分け、妙安と孫の勝山大蔵に譲っております。妙安は父母の双方から化粧田を貰っている事になります。

 竜造寺隆信は近隣の地在領主を屈服させ竜造寺の領地を拡大させてゆきます。よくもちいた戦法は武力で屈服させた後、子供を相手先に養子として送り込む方法をとりました。佐賀藩政上重要な役割を果たした武雄領を例に引いてみます。武雄後藤家は現武雄市(塚崎)を根拠地にして平安末期からの武雄一円に勢力を持っておりました。中世末期にいたり竜造寺、大村氏と激しい戦闘を交えます。なお当時領主の後藤貴明は大村純忠とも戦いましたが貴明は大村氏の実子で、大村純忠は有馬氏の養子です。

 天正八年(一五八〇)竜造寺隆信は武雄領の地在領主、後藤貴明を後藤家の内紛に乗じて降伏させ貴明を隠居させ実子家信に貴明の娘「槌市」と結婚させ武雄後藤家を相続させました。以後武雄後藤家は竜造寺一門に下り重要な役割を担う事となりました。この時竜造寺隆信は嫁「槌市」に広大な化粧田を与えております。

 筑前国早良郡之内桧原下廿八町之事、為化粧田進之所如件

  天正八年一二月一日

  隆信御判

  鎮賢御判(竜造寺政家)

  槌市 まいる

  領地を広げる隆信は念願の武雄後藤家を傘下に治め、嫁の槌市に与えた二八町の広大な化粧田は広かったのか狭かったのでしょうか。

  旧竜造寺多久家における化粧田

 多久家は現多久市を領地にとして竜造寺隆信の弟竜造寺長信(須古の信周は弟)を祖とします。長信はじめ二代多久安順、三代多久茂辰は鍋島藩成立時の不安定な期間の請役すなわち国元総支配役をこなし、困難な国運営を行い藩の基礎を固めまました。多久家は多くの資料が残っております。長信は慶長四年(一五九九)母親の慶 より一〇〇〇石の化粧田を譲り受けております。

 多久家二代の多久安順の夫人、徳寿院は鍋島直茂の子供であり勝茂の姉に当たります。また三代多久茂辰の夫人は天性院で勝茂の子供にあたります。これは諫早家二代が直茂の娘、三代が勝茂の娘でおなじ組み合わせです。

 徳寿院も天性院も膨大な化粧田をもっておりました。承応元年(一六五二)大割帳控によれば多久領内検高一万石九斗のにたいし徳寿院は五〇〇石、天性院は五〇石あまりあり、多久家中の配分は四一八六石余りです。以上は多久領内だけであり両人は佐賀本藩にも化粧田を持っておりました。徳寿院の化粧田は父直茂から賜った瓦河内、母陽泰院から譲られた詑田、弟の藩主勝茂から譲られた山口村があり膨大な化粧田を持っておりました。

 明暦二年(一六五六)九月の徳寿院の覚書は八〇石あまりの化粧田の処分について藩主勝茂の点合(諒解の事)を求めております。

  覚

 米  四一石二 瓦河内村

  右者此前小城之内ニ而、日峰様(直茂)ヨリ下被候五〇石也、

 先年三部差出候相残三五石併出来米六石二加テ

 米 一五石四九八合九 神崎之内、詑田

  右者陽泰院ヨリ之御譲也

 山成米 本 三一石四七六合二 山口村之内

  今成米 二八石〇九三 〃

  右者此前小遣料として下被候

  右合米 八四石七九一合九

 右之内

  瓦河内ニテ 米 一五石四九八合九 天性院へ

  詑田 米 一五石四九八合九 天性院へ

  相残 米 五三石七九四合一 多久茂辰、茂矩へ

  相渡申度候

  巳上

  明暦二年九月一二日 徳寿院 御印

 右御書付のとをり承届、いつれもしかるへく存候、後日のためてんなひ(点合)仕、しんらんいたし候、以上

  明暦二年九月一三日 しなのの守(勝茂) 御印

 とくしゅ院様

 徳寿院は多久家二代安順の夫人ですが、自分の化粧田について夫ではなく佐賀藩主に了解を求めておりますが、ここにあげられている化粧田は多久家とは直接関係のない佐賀本藩の化粧田だからです。あらかじめ譲る相手について藩主の了解を求めたもので後日譲るとしております。嫁の天性院(姪にもなる)に一部、残りを子・茂辰、孫・茂矩に譲るとしております。茂矩は多久家四代になります。又別の資料も残っております。

  御知行覚地米 一五〇石 砥川村之内 但泰盛院(勝茂)様ヨリ被

  遣候也地米 一五石四九八合 詑田 但徳寿院様ヘ陽泰院様ヨリ

  御譲之地地米 一五石四五八 瓦河内村の内 但徳寿院様ヨリ御譲之地地米 五三石四七四 西山村

  合定米 二三六石四七

  米 三〇〇石 御賄料 但毎年

  万治三年庚子一〇月二八日 長門(多久茂矩)

  おかか様 参

 以上の御知行覚は徳寿院、死去の約半月後、万治三年(一六六〇)一〇月多久四代多久茂矩が母天性院の化粧田と賄料の確認の覚え書きです。天性院が徳寿院より譲渡された本藩の詑田と瓦河内の化粧田、直接天性院が父勝茂より賜っていた砥川村の化粧田と多久領内にある西山村の化粧田と賄料を確認しております。多久家の三代夫人天性院は約五三五石の収入があった事になります。

  支藩小城鍋島家の化粧田

 佐賀藩における支藩の創設は佐賀藩主鍋島勝茂の三名の子供達を幕府の人質、江戸証人として差し出した事に始まります。元茂は三代将軍家光の大刀相手として毎日登城していた事もありました。三人の江戸城での扱いは部屋住の大名扱いであり、新たに始まった参勤交代をも勤めなければなりませんでした。佐賀藩内に新たに三支藩が創設されました。しかし三支藩成立にかんする詳しい資料は残っておらず佐賀県史にも三支藩がどうして創られたか不明とされており正確なところは今も判明しておりません。小城支藩初代の元茂は祖母陽泰院(直茂の夫人)の化粧田を相続しております。

 寛永三年(一六二六)正月一四日、陽泰院が元茂へあてた書状が残っております。

 一、わか身へ日峯(鍋島直茂)より給まいらせ候与賀郷飯盛村之内米三〇〇石之所、先様そもしへ遣わされ候様ニと信の殿(鍋島勝茂)へ申候へハ分別ニておハしまし候

 陽泰院が夫である鍋島直茂より賜った化粧田を元茂に譲る内容の書状です。陽泰院の化粧田は多久家の徳寿院にも譲与されておりますが当然諫早家二代直孝に嫁いだ長寿院(徳寿院の妹)にも譲与されたとするのが当然でしょう。

鍋島直茂と慶円の間に生れた天林は最初納富家輔に嫁いでお鶴を生みましたが、家輔の死後は鍋島茂里に再嫁し高岳院を生みました。高岳院は小城初代元茂の夫人となります。納富家は後に竜造寺信周(須古祖)の四男長昭をお鶴が娶って再興しました。葉隠には納富家断絶の後、お鶴が化粧田七〇〇石を賜わったとあります。この前後の事と想像されます。寛永一七年(一六四〇)八月一二日、天林は義弟の勝茂から賜わっていた化粧田をお鶴と高岳院に分割して譲与したいと勝茂に願い出て承諾を得ております。

 勝茂から天林に宛た書状は次の通りです。

 都合定米五〇石五斗の事、此内そもしさまへしんし置申候、しかれは紀伊守女共(高岳院)、市佑女共(お鶴)へ御分け候てくたさるへきの由、しかるへくそんし候

 天林の他の覚書にはお鶴に二五石、高岳院に二五石五斗相続したことが判明しております。天林の化粧田は分割相続されておりますが家とは関係なく娘に当分し母系だけで相続していることになります。

 高岳院は母、天林から譲与された以外に多くの化粧田をもっており、元和三年(一六一七)元茂が一万石の加増を受けた時、加増分のうち小柳の二七〇石は高岳院の化粧田とするように記載されてあります。

 高岳院の遺書の中に化粧田の処分に関する記述が残っておりますがその内容は次の通です。

 一、にっぽう(直茂)さまより下され候ちきやうひたの守(鍋島直能、小城家二代)へくれ申したく候

 二、天りん(天林)さまよりさまより下され候ちきやうおと成(乙成、高岳院の娘)へくれ申したく候

 三、われらちやうの内、おまん(高岳院娘)へ少々ニてもくれ申したく候 

 高岳院の娘、乙成はこの遺書の書かれた前年親類、鍋島白石家初代の直弘夫人となっており高岳院から譲られた化粧田のほかに元茂(小城家初代、高岳院夫)より一〇〇石の化粧田を賜わっております。

  諫早家の化粧田

 諫早家の化粧田については、諫早において資料を見つけることができず諫早史談においても本格的には述べられておらず記述するのに困難をともないます。わずかに「葉隠」に諫早家の化粧田の記載があります。

 諫早石見守(二代直孝)の御女玄蕃夫人(照見院、長寿院の娘)、小川前舎人夫人(洞明院、長寿院娘)、此の両人へは勝茂候より化粧田五〇石宛遣わされ候由

 また別の資料には長寿院の化粧田について佐賀本藩にある化粧田五〇石を孫娘、自得院に譲ることについて藩主の了解が得られた文書が残っております。自得院の夫は諫早家四代諫早茂真で諫早歴代藩主の墓の中では唯一夫婦で石室の立派な墓に納まっております。現存する資料によって諫早の夫人達の化粧田は分かっておりません。旧竜造寺系多久領並とするならば諫早領主夫人で五〇〇石以上ではなかったと推測されます。

  化粧田からの収入の使い方、諫早三代夫人宝乗院の場合

 夫人達は広大な化粧田を持ち加えて藩主、領主に奉公する必要がありませんでした。なかでも多くの内儀方知行を持つ有力な夫人達はその収入をどのようにしていたのでしょうか。正確な時期は不明なるも寛永後期と推測される卯月一四日、鍋島勝茂が請役の多久茂辰への書状が残っております。

 先様家中に銀子借候義停止可然候、致詫言候付借候而も不納仕、返弁申候ハて不叶儀候故、催促候へハ、最前之忝さハ徒ニ相成、却而恨を受候間、自今巳後必無用可仕候

 勝茂の子供で諫早家に嫁いだ宝乗院が家中に貸した金が滞っていることに憤慨し今後は貸銀を禁じ、宝乗院の借銀は知行米を差し押えても取りたてるように命じでおります。宝乗院は諫早家三代の茂敬の夫人ですが宝乗院の化粧田はどのくらいかは記録が残っておりませんので詳細は不明ですが、同時期同じく勝茂の娘として多久家に嫁ついだ天性院の妹になりますからほぼ同じ位あったと推測されます。

 近世初期佐賀藩で一番の化粧田の持ち主は徳川家康の養女として嫁いできた勝茂の夫人高源院であったことは間違いありません。高源院は日田の一〇〇〇石に加え、佐賀藩領にもあり夫人の中では一番多くの化粧田を持っていたようです。

 寛永一七年(一六四〇)三月七日の鍋島勝茂の書状には高原院が家中に貸し出し、滞らせている借銀の一部を請役家老多久茂辰に命じて取りたてさせております。この額は寛永一一年(一六三四)暮までの計算で四九貫二二匁六厘四毛九払とありとくにこの金は、公儀から高原院に下された銀、すなわち日田の化粧田からの収入とわざわざ念を押しております。多久茂辰はすべての借銀の回収は不可能だったとみえ残りを鍋島直弘に取りたてを命じております。

 藩主勝茂の記録も残っております。万治元年(一六五八)正月一〇日の高源院より請役多久茂辰への書状が残っております。この年は勝茂の死後の翌年に当たります。

 せん年たいせい院(鍋島勝茂)江三千両かしまいらせ候、その内せめて五、六百両成りとも給へかしと、たんこ(鍋島光茂、勝茂孫鍋島藩二代)に申候へはたんこはいかにもかってんニて、くれ候ハんよし申候へとも、金の出所なきよしニて候

 夫人達の取り立てについて指示までしながら一番夫人達に借銀をしていたのは勝茂のようです。文面には勝茂死後の翌年、高源院は夫勝茂に貸した三千両の一部五、六百両でも返して欲しいと当時の藩主鍋島光茂に督促しております。藩主始め家中の困窮をよそに佐賀藩の夫人達は豊富な化粧田の収入を夫を含めた男達に高利で貸しをしていたわけでありなかなかたくましい存在でした。

 長寿院は弟嫁(高源院)と嫁(宝乗院、勝茂の娘)は佐賀藩家中に藩主みずから禁令を出す程銀貸しをしていたのですから長寿院は率先してしていたと思われます。その成果は如実に長寿院の墓に表われております。諫早祖の竜造寺家晴、夫である二代諫早直孝の墓より一段と高い場所を切り開き、諫早地方では珍しい花崗岩の石室づくりの墓を作りました。そうでもしなければ銀貸しで膨らんだ膨大な銀を使う事ができなかったのでしょう。長寿院は文字通り長寿で当時としては異例の八三才の生涯を過ごしました。諫早家三代茂敬の夫人、宝乗院の銀貸しの利益は父勝茂の禁令の影響もあってか普通だったらしく墓も普通であることは御承知の通りです。

  佐賀藩における化粧田のその後

 城島正祥氏の著書「佐賀藩の制度と財政」によりますと佐賀藩における化粧田は時代と共に除々に縮小の傾向をみせ、近世中・後期にはほとんどみられないとしております。しかし化粧田、もしくは化粧田に相当するものは消滅はしていなかったようです。幕末時の佐賀藩武雄家の記録には化粧田の記録が見られます。その一つは鍋島直正(斉正、閑叟)と将軍徳川家斎の娘、盛姫の婚儀の話が持ちあがった際、当時の佐賀藩請役の鍋島茂義は財政困難につき婚儀の返上の努力をしますが、将軍家に対し返上が不可能になると盛姫に化粧田をつけるように懇願しております。この懇願には鍋島勝茂の婚儀に際して将軍家より化粧田一〇〇〇石がついていた事に触れております。しかし茂義の努力にかかわらず婚儀は決定し結果は化粧田もなく文政後期の財政危機の一要因となりました。

 しかし同時期の文政一〇年(一八二七)二月、鍋島茂義は当時の藩主鍋島斎直の娘、閑叟の姉にあたる竈姫を夫人として迎えますが、竈姫にはちゃんと化粧料一〇〇石とお供の女中一〇名がついております。この百石の中身は化粧料とあるだけ化粧田、すなわち知行か現物の切米かは分かりませんが佐賀藩においては将軍家の娘の婚儀にさえ廃止していた化粧田もしくは化粧田に相当するものが幕末まで続いていた事になります。

  諫早領の竜造寺の夫人達、慶巌院と松壽院

 家晴の後の夫人が竜造寺隆信の娘で松壽院、二代直孝の最初の夫人が竜造寺政家の娘で慶巌院です。この二人の松壽院と慶巌院の運命をどうなったのでしょうか。諫早家に嫁した当時は松壽院と慶巌院は九州の三分の一を勢力下に持つ竜造寺隆信の娘と孫で当時としては最高の夫人です。二人にふれる前にこの頃の最高の夫人達を他領に例を求めてみましょう。

 織田信長の妹、お市の方は大名の浅井家に嫁ぎました。織田信長は越前の朝倉氏追討の行動を起こします。これに対し朝倉氏は浅井氏と秘に同盟し信長を挟撃する作戦を立てます。信長は浅井氏との姻戚関係に安心し、朝倉氏攻めを要請しております。信長にしてみれば、敵対は勿論考えられず傍観してくれる筈だと思って作戦を立てました。この時、浅井の城の中にいるお市の方は浅井氏は朝倉氏とともに織田軍に敵対するとの情報を得ると兄、信長に小豆を送りたいと許しを得ます。そして堂々と袋の両端を縛り上げた小豆の袋を信長に送り届け、信長に浅井氏の敵対行動を暗に知らせました。この小豆の荷物を受け取った信長は浅井氏の行動を察知しほぼ勝ち戦だった朝倉氏との戦闘を中止、なりふりかまわず信長自身真っ先になって琵琶湖の湖畔を京都に逃げ帰っております。

 同じく信長の娘、徳姫は徳川家康の長男信康と結婚しました。当時の複雑な状況下の事でしょうが詳しい状況は省くとしてこの徳姫は父信長に夫、信康と義母である家康の夫人、築山殿は武田方と内通していると報告します。この報告を受けた信長は家康に妻と長男の二人の処刑を命じ家康は実行せざるをえませんでした。

 例は数多くありますが当時の状況としては他家に嫁いだとしても心も体も実家の為、実家の代表者の役目をもっておりました。当然大名の夫人として生きてゆくこれらの夫人達は実家の興亡とは無縁での存在ではありませんでした。嫁ぐといっても実家を代表し、父と夫が戦闘に入れば一番先に殺される事は珍しくはありませんでした。

 諫早嫁いだ松壽院と慶巌院の二人に降りかかった運命は過酷なものでした。隆信は戦死、政家は藩内において徐々に力を失い実家が没落してゆくのを嫁入り先から見なければなりませんでした。その上に隆信、政家の領地が鍋島家に移ってゆくと同時に松壽院と慶巌院の化粧田は当然のごとく消滅したと考えられます。わずかに残った化粧田は夫の家晴、直孝からの物だけになったと推測されます。当時の最高の夫人達にとっては婚家先、すなわち夫から与えられた化粧田だけで生活する事は屈辱以外のなにものでもありませんでした。

 中世の時代、藩主が有力家臣に娘を嫁がす事は閨閥を形成し家臣との関係を緊密にする事に加え、藩主は家臣を監視し、家臣の方は藩主より最上の人質を取る事になります。中世、近世は現在考えられているよりも藩主と家臣団は上下関係はおおきくはありませんでした。中世の武士団は全員が平等ともいえるものでした。中世の海賊の集団として有名な松浦党も平等で、私の先祖瀬戸内海の塩飽海賊衆は近世終まで人名(にんみょう)と呼ばれておりますが、人名は全員平等で上下関係はありませんでした。政治を行なう年寄りは年番と称し人名全員の中から交代で選ばれておりました。

 松壽院と慶巌院は佐賀藩における竜造寺隆信、政家の権力の消滅と同時に諫早家に嫁ぐ意味がなくなり、領主の妻としては必要な条件を失いました。

 松壽院と慶巌院は収入がなくなっても竜造寺の女としての体面を保ちました。力を失ってゆく実家竜造寺の女としての誇りが自分の墓所を夫の墓所天祐寺にではなく新たに本明川を挟んだ地を選び寺を創ったことにあらわれております。慶長十年(一六〇五)慶巌院は十七才の短い人生を閉じ墓所は慶巌寺としました。慶巌寺は慶長十年(一六〇五)、現原口町の常楽寺を移転したと伝えられております。死亡時と同時の寺の創建にも驚かされますが、当時の慶巌院は財力も尽き葬儀と寺の普請は現在の様に立派には出来ずわずかに庵程度であったとは容易に想像されます。慶巌院は若くして実家が没落し、当時の最高位の女の座より滑り落ちても自分の墓所を得て十分満足であった事でしょう。本来なら天祐寺に葬られてもなにも支障はなかったと想像されます。わざわざ寺を新たに創る行為に竜造寺の女の誇りが表われており見事です。同じく竜造寺隆信の娘、松壽院は少し長生きして寛永十二年(一六三五)死去しました。これまた天祐寺ではなく、慶巌寺境内、慶巌院の側に安息の場を求めております。松壽院は九州の雄、竜造寺隆信を父にもちながら淋しく一番辛い状況で晩年を迎えたようです。

  最後に

 ルイス・フロイスによって描かれた日本を丁寧に見ますと現在の社会との違いに驚かされます。日本的に完成された社会が一大変革を迎えたのは明治維新に求めることができます。明治維新は長く日本に続いた家族制度をも破壊しました。江戸時代に形式だけであった女性の地位も西洋の法律を丸写をした為にほとんどなくなりました。ルイス・フロイスの描くヨーロッパの世界は男女同権の世界ではなく男尊女卑の社会であった事は間違いありません。日本における家族制度と家父長の考え方は軍国化する時代すなわち日清、日露戦争の時期に完成しました。明治維新は理念、すなわち革命目標がなかった事で有名で新しい国家を作るにあたり理想像を外国に求めた事にみられます。

 明治の革命の主役薩長土肥の下級武士達は自分達の武力革命を正当化する為に江戸時代は悪い時代と盛んに学校教育の場を利用しその影響は現在にも続き教科書は勿論の事、多くの歴史書もこの影響から抜けだすことができないのは誠に残念です。

 永い歴史を持つ日本史の上で女性の最大の悲劇の歴史は明治より昭和二〇年間の七五年間であった事は明らかです。女工哀史、カラユキさん、戦争未亡人等々明治維新以後は多くの男の血と女の涙が流れました。又日清・日露の戦い・シベリヤ出兵、支那事変太平洋戦争等一〇〇〇万人を越える人々の血が流れました。その中でも昭和史は女の涙の歴史でした。

 江戸時代二五〇年間は島原の乱の死者約五万人が最高で誠に平和な時代でした。日本史において戦死者が一番少なかった事は特筆に値します。今こそ現代人にとって江戸時代とは何かを真剣に考えてもいいのではないでしょうか。

参考文献

日欧文化比較 ルイス・フロイス

諫早家系事蹟 諫早史談会

佐賀藩の制度と財政 城島正祥

佐賀藩の総合研究 藤野保

武雄史 石井良一