水害の後、諫早公園に移転した眼鏡橋、諫早の眼鏡橋は美的感覚も優れている。

諫早眼鏡橋はどのようにして造られたのか
ー公儀巡見使の目から巧みに避けながら着工すー
諌早の中心部を流れる本明川には美しい石造りの眼鏡橋があります。この橋は江戸時代末期の天保年間に架橋され昭和三十二年の大水害の後、河川改修の為諌早公園に移設されたものです。この眼鏡橋昭和32年の大洪水の折、あまりの頑丈さに流木をせき止めあふれた濁流が市街を襲い多くの死者を増やした原因にもなりました。
現在においては諫早に遠来の客を迎えた時はまっさきに眼鏡橋に案内するのが常となっており、市民にとっても唯一誇れるものといってよいでしょう。しかし最近は眼鏡橋周辺をゴテゴテと飾り立て、かえっで眼鏡橋まで醜くしているのは痛恨の極みです。美的センス、風景に対してポリシーを持たぬ者が行う事業ば成金趣味の見本のようで下品でさえあります。ひきかえ、眼鏡橋を一段とひきたてているのは周辺の楠です。眼鏡橋周辺の楠は群として存在し、春は燃えあがるような鮮やかな若葉をつけ、周りの風景まで明るく照らし出し、生きる勇気さえ与えてくれます。この楠の大木群はひとえに大昔から諌早に住む有名無名の人力が何代にも渡り黙々と育てあげた成果でもあります。現在の市政を司る人々に諌早の先住人のように数百年とは望むべくもありませんがせめて百年先を見越して都市環境を創造してほしいと望むのは無理というものでしょうか。諌早市民が誇る眼鏡橋の架橋理由について従来より疑問に感ずる点もあり、眼鏡橋を完成させた時代をぷりかえってみたいと思います。
眼鏡橋の記述に対するいくつかの疑間
眼鏡橋建設については「諌早市史」に記載されています。多くの先輩諸氏の眼鏡橋建設に関する記載もおおよそ市史の記述を踏襲しているようです。市史によりますと、「幕府の公儀巡検使を迎えるのに本明川に橋がかかっていないのは諌早の面目が立たない」とされています。しかし眼鏡橋建設計画は巡見使の佐賀藩巡察の日程とは関係なく進められているのはなぜでしょうか。諌早領主の日記によりますと、公儀巡見使の諌早来着は天保九年六月十五日で、眼鏡橋完成は天保十年八月十二日となっておりますじ巡見使は眼鏡橋の完成した姿は目にしておりませんし、これについて市史はなにもぶれておりません。眼鏡橋建設にかかわる日程は次のとおりです。
天保八年十二月 柱立橋の計画書、のち却下
天保九年二月十日 眼鏡橋の計画書完成
天保九年五月 眼鏡橋着工にかかる
天保九年六月十五日 巡見使諌早着
天保十年八月十二日 眼鏡橋完成
公儀巡見使と架橋時期
諌早市史の記述はつぎのとおりである。「諌早には今の眼鏡橋の下流にあたるすぐそぱに普通の石橋がかかっていた。それは文化七年の本明川大洪水で壊れてしまった。その頃下町の裏手から土井にかけた粗末な板橋があったがそれは仮橋みたいなものに過ぎなかった。石橋が壊れてから三十年ばかりも復興できず一般は渡河に困難を感じていたが、隅々佐賀藩より上使の下向、公領巡検使のくることが伝えられ、本明川に橋が架してない事は、我が領の面目に関わるところから、新たに架するなら永世不壊の橋にしたいとの儀がおこり、当時既に長崎地方で架橋済の眼鏡橋が少しの地震位には微動もせぬことを知り、眼鏡橋を架する企画がなされ、天保九年五月起工、翌十年八月十二日竣工した」
当初、架橋を計画された橋は眼鏡橋でばなく柱立橋であったようです。天保八年十二月の手覚(架橋計画書)によると柱立式の橋で長さ二四間余りで工事費の見積りば正銀30貫余りとなっております。この計画書はのちに却下され、現在の眼鏡橋に決定したのが天保九年二月十日です。この架橋計画の遅れはどのように考えれば良いでしょうか。不思議なことに架橋の主目的であるはずの巡見使を迎える事はまったく無視されています。巡見使を迎える為の架橋ならば架橋を急ぐぺきところですが一向に急ぐ気配がみえません。それよりわざわざ着工を遅らしたようにもとれます。
公儀巡見使は天保九年六月十五日に諌早についております。一方眼鏡橋完成は天保十年八月ですから、巡見使は眼鏡橋を見たり、渡ったりした事はありえません。完成していないのですから。巡見使と眼鏡橋との関連はないといえるより、橋を巡見使に見せないように建設を遅らせたとの説も成り立ちます。巡見使の目に触れるおそれがなくなってから、眼鐙橋を架橋したと考えるのが自然です。現在のような総石作りの豪華な眼鏡橋の完成直後に巡見使を迎えれば使役、費用等の質問攻めにあう事は必須です。それより巡見使とは新たな話題は無い方が良いに決まっています。佐賀藩に限らずどの藩においても巡見使を迎えるにあたっては想定問答集等まで作り、事前に予行演習を行い無用の嫌疑を受けないように細かく配慮しておりました。巡見使の来諌を知り、急ぎ架橋計画を遅らせたとの見方が自然です。幕藩体制下において藩は公儀に対しては余分な金はないとの態度をとるのが普通でした。諌早領と同じく佐賀藩旧竜造寺系、武雄領においては長崎街道武堆領を通過した長崎奉行が「佐貿藩武雄領は豊だ」と言った報告が耳にはいると直ちに別の長崎街道をわざわざ作りました。武雄領では長崎街道が二本存在するのはご存知のとおりです。
公儀巡見使とは
巡見使についてふれてみます。諌早市史には巡検使とありますが国史大事典等には巡見使としているのでそれに習う事にしました。江戸時代において漢字は表音文字として使われるのが普通でした。武士の記録は戦場にて殿様が読み上げるのを祐筆が記録する事から始まりました。戦場での論功行賞の為でした。この為漢字の意味より音を記録するのが普通でした。それに加えお家流が加わり現在のように漢字が意味を現すことはありませんでした。
佐賀藩における最初の巡見使は寛永十年で、通常将軍の代替わりに行われていたようです。当初は大名領主権力者の監察が主眼であったようですが、時代を経ると物価の動向等、在地の民衆を直接監察し、大名、領主の仕置の善悪を調査するようにもなったようです。佐賀藩では巡見使をどのようにして迎えたか、諌早出身の城島正祥氏の著書を引用してみます。佐賀藩では巡見使を「巡検御上使」と呼んでおりました。普通正使は3名でお供を入れると100名前後でした。藩主鍋島勝茂が国元に送った巡見使接待についての手紙が残っています。
「御上使に至り少しも御馳走申すまじき由、固く仰せ聞かせられ候、此の段御上使衆へも仰せ談ぜられ候由に候、右の如く御法度に候条、その心得尤に候」
巡見使には絶対に御馳走をしてはいけない、その事は巡見使も知っていると注意しています。現在と大違いです。現在中央官僚はどのような接待を受けても罰せられないようで江戸時代の官僚を見習って欲しいものです。
続いて
領中御泊々にて米、薪、塩、味噌、大豆等、薬、わらじ、馬くつわの類、下々不自由にては御事欠下さるべく候条、領中より他領へ御通りの道筋、轟より長崎境、三瀬通りの道筋、唐津への道筋、大村平戸への道筋、寺井津、神代、伊万里此の道筋、御泊に罷り成りそうな所には、右の雑物前廉より遣わし置き、余り値安く候はば結句取合い有間敷候条、二割三割程物安く売り候様に申しつけらるべく候、尤も右所々の道橋念を入れ、御泊は今にこれある家を修理候而、掃除区下見苦しくこれ無きように、下々の宿の儀も亭主々々心能く仕り、宿礼等の儀こなたより申し出ざる様に、右何れも前廉より固く申しつけられ然るべく候」
藩主勝茂は以上のような手紙を国元に送りましたが、心配らしく改めて手紙を出し、先の内容を取り消し、新たな指示を出しています。
「よろず売り物そのところ値にてこれなく候はば、御事闕げ候とも御買い取り有るまじき由に候、此内二割、三割安く売り申すべき由申し遣わし候へ共、右の分に候条、有体に申し出で候様に達さるべきこと、付り、駄賃の儀も右同然の事」
最初の手紙では巡見使通過する道筋には入り用な品物を揃え2ー3割安く売れと指示したが後の手紙では問題になるのはまずいと判断したのか、前回の指示を取り消し、巡見使には通常の値段で売る様に改めて指示しています。巡見使を迎えるについて慎重さと、厳格な公儀巡見使の姿がみえます。しかしあまりにもありのままだとまずいと思ったのか、新たな指示もだしております
「藤津の渡船、此内(このうち)余り小さく候而、不便に御座候条、馬などゆるゆると立ち候様に、二隻ほど丈夫に急度(きっと)作らせるべき事、但し古船のごとくに相見え候様に仰せつけらるぺきこと」
「御上使衆宿畳など新らしく、御座候ては御馳走に罷りなり、能くあるまじく侯条、少し敷きならしたる畳に相見え候様にしかるべき由に候事」
巡見使を迎えるにあたって何事も新たに作り、接待する事は御馳走となり禁止されでいた事が良く分かります。国元では相次ぐ指示で値段を改めさせたり、新しい畳や船を古く見えるようにするのも大変であったと思われます。巡見使に酒を出す事も厳禁されていた様です。御上使には勿論お供の者が所望して差し出しても処罰されるとしております。
「御徒士巳下の衆、酒を申し乞ひ候共、差し出しまじく候、押しで所望に任せ万一差し出し候へば、宿主不調法に申しつけらるるの段、相達せられ候」
気兼ねしながら酒を所望する公儀巡見使一行
ただ、酒については公儀の指示通りには行かなかったようです。巡見使の酒については別の記録が残っています。これは眼鏡橋建設と同時期、天保九年に巡見使を迎えた時の記録が残っております。
「御徒士の御方より御召し呼びなされ候につき、即ち罷り出候処、今日は山坂道にて殊の外くたびれたり、湯江より多良迄の処、誠に難所なる道にて候由、仰せられ、何と申す峠にて候や、御尋ねにつき。多良峠とも湯江峠共申す事の由承り及び候段、申し上げ候処、草臥の様子にて何か相望みこれある様子に相見え候につき、御手代かわりの御茶にても差し上げ候様申し上げ候処、それは嘸々宜敷く仰せられ、必ず必ず上へは相知れざる様にして差し出しくれ候様、仰せられ候につき、襖立て切り、酒を茶出しに入れ持参仕り候処、御徒士より御一人御立てなされ御近習の間へ御出なされ候処、間もなく御近習の御方より両人か御出でなされ、茶わんにて右酒を残らず御徒士衆と共に御召上りに相成り、その後今日の鰻肴に致したく候故、今少し呉れ候様仰せられ候につき、即ち持参仕り候処、悦びの様子にて御陰にて草臥相休候様、御申しなされ、誠に結構の酒当宿の酒にて候や御尋ねにつき左様にて御座侯段申しあげ候」
「その未寝酒また少し相望まれ候につき又茶出しに酒を入れ蚊帳の中に持参仕り候へば、千万恭なき様仰せられ候、その後御徒士以下へは都て持参仕り候処、皆々悦びの模様にて恭き様仰せられ候」
公儀巡見使一行がおっぴらに酒さえ飲めず、襖を立てその陰でこそこそと酒を飲んでいた状況がうかがわれます。現在の官僚は毎日無礼講のようですが、、、。巡見使の接待は厳重に決められ、過度の接待は厳禁されておりましたし天保の時代においても守られていた様です。巡見使にたいしては酒、道中に必要な物の提供も禁止されており、船、宿の畳なども新調することも同様であったとみられます。以上の事から巡見使が諌早に来るからといって歓迎の為に眼鏡橋等を作るなどは発想の外です。加えてこのような事は公儀からさえ厳禁されていた事なのです。眼鏡橋を造り巡見使を迎えるといった事はこの時代の発想として出てきません。藩に巡見使を歓迎攻めする余分な金がある事が分かれば公儀普請を押しつけられたり、長崎港警備等過度の出費を余儀なくされるのが関の山であることは近世の世界を知る者にとっては常識といえましょう。
最後に
眼鏡橋が造られた時代は佐賀藩とって好条件な環境でした。天保の改革が成功しさらに江戸時代の三大飢饉のひとつ天保飢饉に見舞われました。この飢饉は享保時代と違い主に飢饉に見舞われた地域が北日本でした。この為佐賀藩は比較的被害が少ないうえ、大阪大塩平八郎の乱にみられるように全国的に米の値段が暴騰した事も佐賀藩の財政的には好条件でした。佐賀藩は米を大量に販売できる藩でした。佐賀藩の財政危機は米の豊作と非常に関係があります。佐賀藩において財政危機は慢性化しておりましたから江戸時代日本は豊作続きであったと思われます。何しろ飢饉で米の値段が暴騰したのは江戸時代通じて三回のみでしたから。
通常の橋即ち柱立橋ならば13の分の1でも架橋可能であるのにわざわざ三九00貫も費用のかかる眼鏡橋を建設しているのは財政調達のゆとりがあった為に眼鏡橋を作ったと推測もできるのです。事実、諌早の眼鏡橋は巨大ですべて石作りであるのにかかわらず異例の速さの一年少しで完成しております。
巨大な石橋が工事の延期もなく完成された裏には、財政的に間題がなかった事、諌早湾の干拓、広大な諌早平野に農業用水を送る為の用水路、それに伴う底井樋工事など大規模土木工事にたけており、これらの土木工事と比べると眼鏡橋の工事は比較的容易でといえるでしょう。