熊本を考える肥後の国の特異性

吉田 幸男

始めに

 東京に就職したつもりが九州諫早に転勤となり三二年も腰を住み着くこととなってしまった。薩摩飛脚になってしまった。四国では故郷を離れたまま故郷に帰らぬ事を薩摩飛脚と呼んでいる。帰ってこないとの意味である。鹿児島の友人にとうとう薩摩飛脚になったと話すと怪訝な顔をした。鹿児島では「姫ハブに噛まれる」と言うそうである。鹿児島県は島嶼が多く島に赴任後、情の厚い島の女性と結婚し、本土帰らない人が多いのであろう。的語である。諫早にて静かに定年までと思っていたが近年のITに代表される通信技術の前に一世紀余り続いたモールス無線通信はその使命を終え、諌早にあり全国で唯一となった長崎無線電報局は業務を停止した。三十数年前、無線の職場は永遠と思っていたが職場が消滅し、住み慣れた諫早を追われ熊本に転勤せざるをえなかった。たくましい生活力も無く会社の命に従わざるを得なかった。薄給の身には金がかかる趣味はできずとりあえず市内を歩き回った。熊本での町歩き、人によっては長い散歩とも呼ぶがなかなか楽しいものであった。次々と現れる地名がなんとなく品があり歴史を感じさせるのである。見つけるたびに一人で興奮した。「江津=えず」「渡鹿=とろく」「神水=くわみず」美しい地名である。
 熊本の町並みは東北仙台市と同じく杜(もり)の都と呼ばれているが大通りはその名前にふさわしく街路樹が美しく優雅で、小道は変則三叉路、五叉路、六叉路まであり誠に城下町の香りを感じさせる。水前寺地区は水が見えないほどに透明な水が噴き出しておりその量も膨大である。水がこれほど美しいものかと感激した。砂漠の民、カシュガルの友人に見せたら気絶しそうな水である。江津湖周辺の冬は北方から飛来した鴨が群をなして小川まで定家にし、一メートル近づいても逃げないのは付近住民の余裕ある優しさかもしれない。熊本を水辺の都とよんでもあながち誤りでもあるまい。

優雅な熊本


 熊本の美術館廻りも楽しい。なんといっても今西コレクション。絵画、版画、工芸、人形いずれも選りすぐりの品々がどっさりある。日本の至宝ともいえる品々を一市井のNHKの受信料集金人が独自の眼力で見いだし収集した功績は人間としての価値を感じさせる。NHKには今西氏より高給な人々は大勢いたに違いない。断然今西氏の人生が光って見える。なぜ結婚しないかの問いにあっさり「女は飯を食いますから」は名言であろう。今西氏が述べると響きが違ってくる。
 熊本在の銅版画家、浜田知明は世界の至宝の一人であろう。「初年兵哀歌」は人々の心を刺し、一方においてユーモラスな作品をも残している。熊本にあって世界中の誰よりも戦争の真実に迫った作品を残した人はいないであろう。芸術家といえば東京、東京へとなびき、次にはパリなどに流れる風潮がある。世界の端ともいえる熊本にあって反体制ともいえる立場で節を曲げずに芸術活動を貫き通したのは称賛に値する。浜田氏が立派に活動きたのはまわりに優しい人々、的確な眼力の人々達が多くいて守り包んでいたのであろう。熊本は異色の人物を輩出し、育てている。
 職場で友人となった人より熊本各地を案内された。まずは通潤橋に向った。熊本の誇りなのであろう。通潤橋に向かう途中の小道に一つの銅像が建っていた。その横にある碑文を読んで衝撃を受けた。

我が故郷の事


 少し横道にそれるが私の故郷は讃州塩飽島で現在は香川県丸亀市本島町である。塩飽島と肥後熊本は少々因縁があるのである。塩飽島は瀬戸内海の中央に位置し有史より海賊をなりわいとし、歴史の転換点には源平合戦、倭寇、秀吉の薩摩攻め、朝鮮侵攻時に水軍として参加している。中世より近世にいたる歴史の変換点において村上三島衆、九鬼等、海賊よりの水軍が勢力を失い、滅亡したのとは対照的に塩飽海賊衆は江戸幕府唯一の海軍の役割を担うことになった。江戸時代、塩飽の人々は北国の御用米を大阪まで運ぶ西回り航路を開拓し、最盛期には四百隻以上の千石船を運航していた。江戸時代、幕府の船方として栄華を極めることとなった。塩飽の人々は幕末、幕府軍艦咸臨丸渡米の折りにも水主として三十数名も乗組み、我が先祖も鉄砲方として乗り込んでいる。明治以降は幕府の船方としての地位を失ったが船大工が陸にあがり屋大工となった。千石船を作っていた船大工が手がけた民家は精緻を極め、そのうえ豪邸が多く、現在では町並み保存令の適用地域となっている。金田一シリーズの獄門島、夏目雅子主演の瀬戸内少年野球団などのロケ地ともなっている。島外では岡山県の倉敷の倉群、東京では神田のニコライ堂建築の折りの棟梁、大宮御所(吹上御所)の門が塩飽大工の手によるものである。
 数百隻にも及ぶ千石船を持ち、幕府の唯一の海軍として幕府御用の海運を一手に担い繁栄を極めた塩飽は大名への貸銀も行っていたようである。塩飽には多くの借用証文が現存しており、ほとんどの借用証文は借り手が不明な中で肥後細川家の借銀証文だけは隠しようもない。加えてその量が多い。借銀証文が貸し方に現存する意味は借銀を返却しておらず踏み倒したようである。塩飽に限らず細川家の借用証文は別段珍しいものでもなく全国的規模で一番多く存在している。細川藩は借銀をも踏み倒す倫理観の無い貧しい藩とのイメージを持っていた。熊本県立図書館を訪れた際、郷里には多くの細川藩の借用証文が保存されていると言ったら確認もせずにご迷惑をおかけしましたと丁寧に詫びられた。やはり多いのであろう。
 

 通潤橋から肥後の国を見る

通潤橋に戻るが銅像の側の碑文によれば通潤橋建設は一人の総庄屋の手によると書かれていた。てっきり通潤橋の建設は藩の総力を挙げて作られたのに違いないと思いこんでいただけに衝撃を受けた。肥後の国は総庄屋の方が藩主より人物が大きい。「通潤橋」は庄屋が作ったとしても実にすばらしい。巨大な土木工事ながら小さなところまで神経が行き届き、機能的加えて美的な石造の橋は見事とゆうほか無い。近在に石橋があるかと聞く何カ所かあるので案内しましょうと車を走らせてくれた。通潤橋近くの数橋の石橋を見せてもらったがいずれも立派な石橋で他所ならばすべて県、市を代表する文化財としても通用する立派なものであった。通潤橋が余りにも美しく雄大過ぎで他のすばらしい石橋が少々見栄えがしないのは致し方ないといえよう。通潤橋と同じく近在の橋の建設も例外なく施工は総庄屋と表示されていた。ただ通潤橋以外の橋が人馬の通行する橋として建設されたのとは対照的に通潤橋は橋として建設されたのではない。通潤橋は橋内部が水路となっており潅漑目的であり、幾千の田地田畑を潤す為に建設されたものである。
 通潤橋は安易な工事では無い。庄屋は何度も何度も躊躇したに違いない。難工事に立ち向かう勇気、構想力、想像力、資金力が求められる。大勢の人々を動かし、時には人々を励まし、銀を工面し、完成までこぎつけたのが一介の総庄屋とは驚くより他ない。橋は深く切れ込んだ渓谷を跨ぎ、石造りで恒久性を持ち単純、機能的に美しい。現在のように国の御役人が国民から集めた金をさも自分の金のように札束で県の役人や土木業者、国民のの頬を張りながら必要のないダムの建設や干拓事業を進める世とは違うのである。肥後の国といえども総庄屋といえば農民の代表もしくは藩庁組織の中では一番末席であろう。身分の低い人が企画、立案、金の調達、人々を動かし、工事を指揮したのである。世界にも誇れる難しい事業を肥後の国では一介の総庄屋がいとも簡単に巨大土木工事を完成させるのである。肥後の山奥で渓谷の上に石の空中楼閣を築く発想だけでもすばらしい。諫早史談会の石橋研究家山口祐造氏の著書によると肥後熊本における石橋は三三〇橋あり、質量ともに肥後熊本は断然日本一といえよう。
 肥後熊本は全国から借銀しまくり、返す意志なく、すべて踏み倒し、倫理感や信義もかなぐり捨てながら藩を維持する一面と、農民の代表ともいえる庄屋クラスが日本のみならず世界にも誇りうるような巨大土木工事をやり遂げてしまうのである。細川藩では他領にては借銀を踏み倒しながらも自領の農民からはまきあげようとはしないのである。この不思議とも言える現象を取り上げて近世日本の政治の一端にせまってみたい。
 中世の九州は各地に国人とも称する小豪族、小大名が割拠し、それらを取り込む形で竜造寺、大友、島津の三雄鼎立の状態が続いていた。肥後の国は北西部九州を根拠地とする竜造寺、西部九州の大友氏、南九州の島津氏の三大勢力の狭間にあって多くの国人が勢力を保って独自の国を形成していた。三者の均衡が崩れるのは中央政権としての秀吉の薩摩侵攻である。秀吉は島津攻めの後、九州における新たな知行割りを行い、肥後は佐々成政に預けられる事となった。秀吉は肥後の国の特殊事情を承知していたらしく代表的な国人衆五二名に直接朱印状を与え本領安堵していた。秀吉は佐々成政にたいし、特に国人への配慮と三年間の検地をしないように命じていた。佐々成政は肥後藩主として安定を得るには国人衆を掌握すること必要であった。しかし佐々成政は田地の面積、収穫量、農民の調査を指示した。佐々成政の拙速すぎる政策は肥後の国人衆の一揆を招き、肥後の国は争乱状態となった。佐々成政だけでは肥後国人一揆を鎮圧できず九州中の大名達に応援を求めた。
 肥後国人一揆に際し諫早領主竜造寺家晴は秀吉の命により肥後国人衆の鎮圧に肥後に出兵したが西郷氏の残党に諫早の城を攻められ急遽引き返し城を取り返した。この項余談ながら同時期の出来事である。
 肥後国人一揆の後、秀吉は佐々成政を罷免、死をもって償わせ、代わって加藤清正と小西行長両名に対し肥後の国の治世をまかせた。側近ともいえる二人に国人一揆の後の荒れた肥後の国の再建を競わせた。加藤清正は肥後入部までは三四七〇石の物頭でその前は四七〇石であった。二人とも肥後が初めての大領地経営であり大大名として多くの家臣を必要した。加藤清正、小西行長両名は生き残りの有能な佐々成政の旧臣と肥後国人衆を家臣団の列に加える余裕があった。秀吉は子飼いの有能な二人を競わせ、家臣団の少ない者を配置し、心憎い人事である。
 現在でも加藤清正は人気が高く熊本の人々は親しみを込めて「清々公」と呼んでいるほどである。清正公の土木事業の後は至るところに見ることができ、特に朝鮮の役の後、多くの兵士を土木技術者に転用し治水の神様として現在も名高い。熊本市役所の前には巨大な加藤清正を偶した石の置物があり、商店街の看板に「清々公の地元です。」などと書かれれば細川家の二〇〇年以上の治世など吹き飛んでしまう。細川家は肥後熊本にて影が薄く感じる。建設省だか県の役人が河川の修理計画を地元民に説明したところ
「清々公の堤を壊すのか」
地元民に一喝され役人はビビッタと紹介されていた。今もって清々公の人気は高い。細川家は中世から近世の世に移る時期に肥後に入部することとなる。加藤清正、忠広親子による治世の後の入部はやりにくいことは想像に難くない。 肥後入部時の細川家は豊前小倉の四〇万石の大大名であり肥後五四万石に加増され、子飼いの家臣団に対して加増の必要はあり、大幅な地元採用とゆうべき加藤家旧家臣、肥後国人衆の血を引く武士団の大幅な細川藩編入は難しく領国経営は非常に困難であった。徴税を強化すれば領民、国人衆の一揆に結びつく要素は潜在化しており領国経営は神経を使ったと思われる。

細川家の治世

 江戸時代を通じ細川家による治世中、一揆等騒動等の発生は無く、国政の危機といった藩政上の重要問題の発生は無く失政は無いといって良い。しかしながら藩経営にも金が必要であり、税の執行は無いほうが良いが大勢の家臣団を抱え、対幕府ともなれば莫大な金が必要なことはゆうまでも無い。解決策は借銀であろう。全国から返す意志もなく借銀し、踏み倒し回ったのであろう。返したかったかも知れないが返す銀があれば最初から借銀はしていなかったに相違なく、現在に至るも全国に細川藩の借用証文を残す結果となったのであろう。現細川家の御曹司が先祖の汚点に口を拭いチャラチャラと軽い言葉を連発するのは「片腹痛し」である。肥後の国の人々は幸せであったろう。税金は軽く、高級藩士は全国を歩き回り借銀しまくりながら藩を運営し、口うるさい上方商人の罵詈雑言に耐えながらも領内からは厳しい取り立てをしなかったのある。当然ながら農民、庄屋層に金が貯まるのは当然で石橋はその結果であろう。細川藩は困窮し、一方肥後の農民は豊な生活を送っていたようにみえる。肥後熊本にはその事を裏付ける別資料も見ることができる。金郷士、金上げ侍、寸志御家人、これらをまとめて金納郷士と呼ぶそうである。これらの言葉は全国的にも散見されるが九州では肥後熊本だけであろう。言葉を聞くだけで意味が分かる制度も珍しい。細川藩では寛政年中に「寸志御賞美規矩」を定め、米一俵を三五匁として寸志の額による身分の等級を規定した。(城南町史、花岡興輝氏)決まりを定める前からこのような制度があったことは想像にかたくない。さらに財政が逼迫すると寸志御家人が増加し、この寸志御家人は一代限りの為、代替わりには継目寸志を出すようになっていた。それでも足りず継目の先取りまであり、三代先まで先納の例まであった。金納郷士の特典を少し紹介したい。

宝暦元年御才覚

弐百目 傘御免

五百目 家内不残傘

参貫目 苗字刀御免御郡代直触

拾五貫目 独礼

弐拾弐貫目 一領一疋より(旧字)御留守御中小姓

 献銀額によって細かく決められ、享和年間では壱五拾目で傘御免、拾参貫目で独礼となっており時代によって献銀額と身分との相違が見られるものの誠に公明正大で買位ができるのである。飽田郡と詑間郡において寸志の者は一四三八名にものぼっており、少々の数ではない。さらに天明期に一六八名、文化期に三三五名、天保期に一一五名、幕末の慶応期に三二三名とそれぞれ百名を越しており、藩財政危機と時期をいつにしている。献銀すれば武士としての身分をも買えるわけで、江戸時代といえば身分制度が明確化されていたと思われるが献銀でどうにでもできたのである。肥後細川藩は重税を課せ一揆でも起これば佐々政則と同様になることは目に見えており、細心の注意をもって領国の経営に当たったと思われる。重税を課せることはできず領国経営は非常に難しく、領国での税の徴収もままならなかったと想像される。他国の大商人、京、大坂の銀貸し、我が故郷の幕府御用の回線問屋に借銀に走り回るはずであり、他国の大商人が一揆に走るはずもなく評判が少々悪くなるだけで踏み倒せば良いことであろう。石橋架橋技術だけでは石橋はできず石橋を建設する上での算術等の教養、技術の集積、建設資金の調達、地域住民の信望が最低限要求される。江戸時代における政治は非常に柔軟で個性あふれていた。肥後熊本の年貢が非常に安かったのと同様、隣藩島原領の年貢も非常に安かった。島原の乱はご存じの通り「島原の乱」後である。幕府はこのように大一揆の後は細心の注意をもって治世にあたり、両藩とも江戸時代を通じ大きな問題、勿論一揆などは起こっていない。いかに江戸時代の官僚機構、政治形態が優れていたかの証左であろう。江戸時代は門閥とか言われているがこの時代の官僚機構はすばらしいものである。現在の官僚達に爪の垢でも舐めさせたいくらいである。

江戸時代は全くの軍事政権であり、上部機関になるほど責任は重く、管理も厳重であった。まずどの様な役職にも目付がついており目付の報告次第では罷免及び処罰の対象となった。相手方との交渉の場においても目付は同席しており、目付の同席無しには正式な会議とは認められないものであった。さらに目付は日常の生活の場にも及んでいた。高位高官には目付を張り付け、不正などできないような仕組みであった。この事は幕末、日米修好条約に訪れた米高官の手記にも示されている。米高官が雑談に及ぼうと話しかけると音もなく目付がすり寄ってきたと書いている。この事は軍事政権ならば当然で、戦闘状態に入ってから相手方に寝返られてはたまらないであろう。目付、軍監の地位は非常に高く役目も重大であった。さらに日本的ともいえる切腹があった。切腹は判断の誤り、政策遂行上の失策による責任のとりかたであり犯罪ではない。高官といえども犯罪を起こした時は当然ながら「打首」や「磔」「獄門」であり切腹は犯罪とは性格を異にする。江戸時代門閥出の愚官といえども目付の監視下で生命をかけて政策立案すれば良い政治ができるのは当たり前であろう。自ら立案した政策が失敗すれば「切腹」しなければならないのである。明治維新により「版籍奉還」すなわち全国の大名は領地を政府に返還した。版籍奉還は難航すると思われたがほとんど問題が起こらなかったのは大名が政治における緊張感からの逃避があったことは想像に難くない。徳島蜂須賀家か平戸藩だったか失念したが当時の藩主が版籍奉還の後「これで腹を切らずに済む」と述べている。大名は大きな権限を持っていたことは事実であるが大きな治世責任を負わされ、最後には腹を切る覚悟もせねばならずその重圧は大きなものがあったと思われる。その重圧から逃避できるとするならば「版籍奉還」は渡りに船であったに相違ない。江戸時代の大名はじめ幕府高官の緊張感は現在の西洋式政府高官とは雲泥の差なのである。幕末日本に滞在したイギリスの通訳官「アーネスト・サトウ」氏によれば幕府高官の家に招かれたそうである。外国ならば外務大臣に相当する職責ながら、家財道具がほとんど無く,家人も少なく本当に質素で驚いたそうである。客人をもてなす大きな調理場もなく食事は賄い屋から出前であった。日本人としては理解できる事柄ながら、各国の政府高官を見た目には非常に清廉潔白と写ったに相違ない。混乱したといわれている幕末でさえ日本国民は幸せに楽しく暮らしていた。

幕末日本を訪れた外国の人々は江戸末期の日本社会を賞賛している。幕末、日本を訪れたプロイセンの使節オイレンブルグは次のように書き残している。「ほかのアジア人たちは生活のためにやもう得ず、仕事をした後では、何時間もしゃがみ込んで煙草を吸い・・・(略)・・・または完全に無感覚に空を眺めているのに反し日本人の休息は常に活発なものである。活発を好むことは、確かに生活力、若々しい精神力、さらには高い文化の可能性を証するものである。年齢により、また身分によりそれぞれの娯楽があり、その魅力は精神の鎮静や弾力、熟練などを発達させることにあるのである。(オイレンブルグ日本遠征記、中井昌夫訳、雄松堂書店)同時期、イタリアの使節アルミニヨンは、「下層の人々が日本ほど満足そうにしている国は、ほかにないといえるであろう」(イタリア使節の幕末見聞録、大久保昭男訳、新人物往来社)日本の国がおかしくなったのは明治維新からである。農民の税金が重くなり、小作農が増え農村が疲弊し、国民が貧しくなっていった。日本史上最大の愚行とも悲劇ともいえるのが明治維新といわれる出来事であった。現在においても文部省の教育では明治維新を快挙としているがどうみても薩長土肥の下級武士による暴力革命で品の無いものであった。革命の号令が「尊皇攘夷」であったが革命が成功するやいなや「尊皇攘夷」はあっさり捨て去り、自己の利益のみめざして突き進むのである。明治維新以降の日本社会は薩長土肥の下級武士が政権を握り、物質的欲望のみめざし、江戸時代につちかった国民の勤勉風土と相まって悲劇的社会を構成するのである。先に幕府高官の清廉潔白とは引き替えに薩長土肥の下級武士より成り上がった明治維新の顕官達は汚穢汚史といえるものであった。国民の困窮をよそに西洋洋館の大豪邸を競って建て、広大な西洋型農場を作り、一般国民から遊離し、自ら下した政策、決定に決して責任をとらず私腹を肥やし一方で国民を不幸のどん底に叩き込み国家まで破滅させてしまった。鹿鳴館を作り西洋的な娯楽に走る発想こそ明治維新の性格を示している。

先に肥後熊本での歴史を述べたが江戸時代後期と明治前期では日本の農村におけるGNPはほとんど変わっていない。明治維新以降、農地にかかる重税の為、全国的に小作農が増え、農村は疲弊していった。この農地にかかる重税によりほぼ世界にならぶ軍事大国になったのである。明治維新より農村から収奪した金により短期間にて世界一流ともいえる軍事国家をつくりあげたのである。視点をかえれば江戸時代の農村は短期間に軍事大国になるだけの富を蓄えており、その富をもって軍事ではなく平和な農村文化、生活に使っていたわけであり、江戸時代の農村が非常に豊であった証明になろう。一介の庄屋が通潤橋をも建設できるはずである。薩長土肥の下級武士による政治、藩閥政治、西洋型政治形態、即ち日本における明治維新以降の政治形態を選択した代償は日本の国を破滅に導き、婦女子を含む戦死者は数百万をゆうに越え、たった七七年で国家自体が自爆してしまい日本史上最低の時代となった。昭和天皇をして「ヒロヒト」と呼び捨てにされ世界的にヒットラーと同列の犯罪者よばわりされているのである。

日本軍のインパール作戦に相対した英軍の若手参謀は「日本軍兵士は世界一優秀で、勇敢であるが、一番愚劣な人物が参謀肩章を吊っている。」と書いている。このパターンは繰り返すものとみえ最近の高級官僚の不祥事、警察不祥事等は同じ病根であろう。教科書等で述べられている江戸時代における農村の貧困は明治、大正に比べればその比ではなく、一方において武士すなわち支配階級が貧しかった事は正しい。江戸時代貧しいのは支配者階級としての武士で、被支配者階級としての農民は豊であった。この江戸時代こそ我々日本民族が作り上げた最高の政治形態ではあるまいか。権力を持つ者に富を配分せず、自ら厳しく律し、高位高官には目付を配し監視の目を厳しく、失敗には切腹で責任をとらせるのである。二百数十年続くのも肯けるのである・