平成13年1月8日(月・祝)

下鴨神社と有史以来の存在感。

 なんとも奇妙な天気だ。昨日一昨日と、京都はとっても寒かった。一昨日は風が強く昨日は午後から雪が降った。そして今日は低気圧が過ぎ去ったせいであろうか、きれいに青空が澄み渡り暖かい。しかし、この青空なのに雨粒がぱらぱらと降っては止んだりとしている。これぞまさしく!天気雨だ。

 

 惹かれる、ということがある。理由がなかったり、また理由があったとしても思い出せないようなことだったりして、訳はわからないけど惹かれているということがある。こいういときの出会いが、結構自分の一生を左右するような出来事になったりもする。大抵はアタリである。

 下鴨神社にやってきたのも、その惹かれた行為によってだ。もちろんここは京都でも有名であるし、幾度かその名を耳にしていることは間違いない。しかし、ガイドブックの地図を眺めていたときに真っ先に飛び込んできたものがこの下鴨神社であったし、ガイドブックの文章を読んでからますますもって行くべきだと感じていたのだ。

 少し手前でバスを降り、橋を渡って参道に入った。砂利を敷いた参道の両脇には森があり、森の中には(参道と並行するように)小さな川が流れていた。漠然とだが、普通の神社の参道と比較して空間が広いように感じられた。迫ってくるものが感じられないのだ。

 森は、「糺(ただす)の森」と名づけられていた。常緑樹と落葉広葉樹、そしてササが下草としてあった。もちろん落葉広葉樹は、すべて葉を落とし裸だった。突然何の脈絡もなく、東京の武蔵野で見られる雑木林とは違った雰囲気を持っていると思った。もちろん東京と京都では植生が違うし、なによりここは神聖な森だ。人の手が入って維持されている武蔵野の雑木林と異なっているのはあたりまえの話なのだ。植生については全くの無知な自分なので、こんな的外れなことが突然頭に浮かんでしまった。

 小川は湧水起源にちがいない!と確信していた。決して多くない水量、神社の存在、糺の森・・・間違いない。すぐ近くに中規模の川が流れていることも判断材料のひとつである。そしてそれが確かであったことが、神社境内にある御手洗池を見てわかったのであった。

 神社というものは、人間活動と密接に関係しているものであり、その立地理由というものが必ずある。比較的新しい神社には新しい神社なりの、古い神社には古い神社なりの・・・。下鴨神社のように太古からある神社には、大昔のわれわれの祖先が生活するうえで欠かすことのできない物事が関係している。そう、この下鴨神社には、水の源、そして生命を育む森がある。2千年のあいだずっとこの地に水を湛え、森は更新しているのである。なんてすばらしいことなのであろう!

 

 境内に入る前に小川の縁まで降りてみた。手にとった小川の水は冷たく、軽く口に含むと少し苦かったが、この水で清めて進むことにした。

2001.01.08. Camera (Minolta TC-1),  Film (Fuji SUPERIA 400)

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