[所長の自己紹介]  〜 由来を知っても役には立ちません 〜

 きめら英嗣という名前の由来ですが,最初に考えたのは苗字の「きめら」です。その後,これでは性別がはっきりしないなあ(笑)と考え下の名前も付けることにしました。以下に苗字と名前を分けて由来を説明します。また,苗字の方は別ページ(所長の日々雑言)でも述べており,このページと一部重複しています。由来の紹介という趣旨を考えるとここでまとめて書いてしまった方が良いと思うので,敢えてそのままとしています。

<きめら>
 キメラ(Chimera)とはキマイラとも言い,ギリシヤ神話に出てくる幻獣の名である。ホメロスの「イリアス」に依ると頭は獅子,胴は雄山羊,大蛇の尾を持ち,火焔を放つという。この伝承の元はリュキアのキマイラ火山のことだとも云われている。この山麓には大蛇が棲息し,山腹には草原があって山羊がおり,噴火する山頂の方には獅子の群れが棲んでいたのだそうだ。また別の解釈ではキマイラは獅子,山羊,蛇の姿を船に飾った海賊だとも云われている。
 さて,現代の生物学でキメラといえば,遺伝的に異なる二種以上の細胞が混合した生物の事を指す。植物の「接ぎ木」が代表的だが、細胞工学の進歩で動物でも実現させた。黒毛と白毛の鼠の受精卵を融合させた、黒白ブチのキメラマウスや、中国系と欧州系の豚を組み合わせたリ,前半分は山羊で後半分は羊といった、異種間のキメラも生まれ始めている。もっとも高等生物になるほど,異種間キメラを作ることは困難であり,H・G・ウェルズの小説「モロー博士の島」のように成るのは遠い将来の話だ。
 そして僕は「キメラ」という言葉に更に新しい解釈を加えたいと企んでいる。それは従来の宗教観と科学観を掛け合わせた新しい自然観を生み出すことである。現代は余りにも自然科学的な認識に支配され過ぎていると想う。それが心の貧困に繋がって来ると睨む。本来なら科学の進歩に依り生活が豊かになり,心に余裕が生まれる筈であった。所が蓋を開けて見れば科学は心を置き去りにしてしまった。進歩の速度が余りにも急激だった所為である。科学も相対論までは光速度を不変とした古典物理学の延長ともいえ,従来の認識論でも対応出来た。しかし量子論に至っては対象が曖昧模糊としており,従来の自然認識論では成立し得なく成って来ている。科学は絶えず進歩を続ける。今求められているのは人間の態度(認識)の方である。決定権は人間に在るのだ。科学に躍らされては成らない。自分自身を見失っては成らないのだ。過去に於いては,宗教に依り救済されたのだが,もはや現代では組織体としての宗教の弊害が目立ち始めている。然らば,もう一度原点に立ち返ってはどうだろうか。何故,科学は生まれたのか?何故,宗教が生まれたのか?これは全体の問題であると同時に個人の問題でもある。そして新しい認識哲学を揺籃する土壌でも在るのだ。科学を否定しては成らない。同程度に宗教も否定しては成らない。どちらにも同程度の距離を保ちつつ俯瞰する哲学が必要なのだ。なんとも遠大な話では在るが当研究所でも追い駆けてみようと想う。
<英嗣>
 英嗣は「えいじ」と読む。エイジ(age)という音だけを考えると或る外国語では「一生」「生涯の一時期(年齢)」や「時代」を示す言葉である。つまり悠久の歴史からある区間を切り取った一定期間を示す言葉である。接尾語(-age)として使用すると「行為」「状態・地位」「集合」「場」という意味が付属する。
 先に述べたように,僕は次の時代には新しい自然観(認識哲学)が必要になって来ると考えている。人為的な自然観の誕生は確かに困難な事かも知れない。大正5年に一般相対論が発表されてから未だ100年に満たない。まして量子論は戦後に開花した代物である。自然科学としても発展途上の段階なのだ。とても17世紀に生まれたニュートン力学のように認識として社会に浸透したとは言い切れない。しかし応用技術は已に家電品の中に浸透している。18世紀,紡績機械の改良に端を発した産業革命以来,思想的にも技術的にも周囲は人工物に満ち溢れるようになった。これを第二の自然と呼ぶ人も居る。誰かが考え,誰かが応用し製品化する。それは貨幣経済の中で供給される。第一の自然では弱肉強食と呼ばれた現象は需要と供給という名で呼ばれるようになった。需要者は供給者の持っていた全知識を必要としない。必要なのは供給されたモノの使用法である。しかしそれで良いのだろうか。17世紀,ニュートンが記した自然の摂理を説明したプリンキピアという書は当時ベストセラーとなり,誰もが読んでいた。メアリ・シェリーは当時の科学的啓蒙の雰囲気に感じて「フランケンシュタイン」を著したのである。正にそれは産業革命黎明期とも言える時代であったのだ。
 そして現代,情報というモノが重視されて来ている。情報経路であるネットワーク基盤が整備されてきたからに他ならない。貨幣経済に次いで情報経済の時代になると言う人も居る。情報革命だとする人も居る。そして情報化社会を第三の自然と定義する人も居る。僕は情報という目にみえないモノを見つめる事によって心というモノの付加価値を再認識できれば良いと考えて居る。この胎動が18世紀の産業革命のように技術的のみならず,思想的,社会的に衝撃を与えるものになるのかも知れない。その為には知を集合させ更なる展開を求める場を個々の心に建設する必要がある。これが知的探究心だと想う。定型化された日常の中で幾ばくかの素朴な疑問を忘れなければ僕は可能な事だと考える。
 「英」という字は「はな」とも読み過去には桜の花を指した。桜には過去を偲び尊ぶ意味もある。積み上げてきた人々の歴史や財産の重さを振り返る。転じて「英」には知の集大成として賢者の意が加わった。「嗣」は「つ・ぐ」とも読む。昔,紙が発明される以前,文字(情報)は竹製の短冊(竹簡・木製のものは木簡)に綴って運用していたそうだ。情報量が多くなると,これら冊を多くつなぎ合わせ巻物としてまとめていた。この冊をつなぐものを「嗣」と呼び,後世には「つなぐ」から転じて後継者の意味になった。先程の情報革命が本物だとするならば,誰かが第二の「フランケンシュタイン」を書き上げ,その後誰かが第二の「紡績機械の改良」を試みるだろう。その為には根源として第二の「プリンキピア」の存在が必要だろう。その書物はアインシュタインが記した「相対性理論」なのか,ハイデガーの「存在と時間」なのか。否,莫大な情報流通を具現化させるネットワーク自体だと想う。誰もが情報を発信しあらゆる情報を受信できる情報流通機構体系は,既知の垣根(思想・概念・認識)を超えて行くと考える。莫大な情報渦中にあって,僕は賢者の知識・経験を学びそれらをつなぎ,掛け合わせて新しい自然観に行きつきたいと願う。自由な発想で物事を捉え直していきたい。そんな意味も込めて,自身を姓は「きめら」名は「英嗣」と称する事にしたのである。




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