若乃花 勝(わかのはな まさる)

本名花田 勝生年月日昭和46年 1月20日
出身地東京都中野区(出生地は東京都杉並区)初土俵昭和63年 3月
所属藤島[12]→二子山[11]新十枚目平成 2年 3月
改名歴若花田→若ノ花→若乃花新入幕平成 2年 9月
最高位横綱最終平成12年 3月
幕内略歴 若花田 勝(わかはなだ まさる)
平成 2年 9月 西前10  8勝 7敗
平成 2年11月 西前 5  6勝 9敗
平成 3年 1月 東前10  7勝 8敗
平成 3年 3月 東前12  9勝 6敗
平成 3年 5月 東前 7  8勝 7敗
平成 3年 7月 西前 2  7勝 8敗
平成 3年 9月 西前 3 11勝 4敗 殊技金(旭富士)
平成 3年11月 東張小  7勝 8敗
平成 4年 1月 西前 1 10勝 5敗 技金(旭富士)
平成 4年 3月 西小結 10敗 5休  (左肩関節捻挫)
平成 4年 5月 西前 7 11勝 4敗 次技
平成 4年 7月 東前 1  4勝 9敗 2休(右母趾裂創及び関節捻挫)
平成 4年 9月 東前 9  8勝 7敗
平成 4年11月 西前 4  9勝 6敗
平成 5年 1月 東前 3 10勝 5敗 
平成 5年 3月 東小結 14勝 1敗 優殊技
若ノ花 勝(わかのはな まさる)
平成 5年 5月 西関脇 10勝 5敗 
平成 5年 7月 東関脇 13勝 2敗 
平成 5年 9月 西大関  9勝 6敗
平成 5年11月 西大関 12勝 3敗 
平成 6年 1月 東大関 11勝 4敗
平成 6年 3月 西大関  3勝 4敗 8休(左足首三角靱帯及び左足首けっ舟靱帯損傷)
平成 6年 5月 西張大 15休    (公傷)
平成 6年 7月 西大 2 14勝 1敗 
平成 6年 9月 西大関 12勝 3敗
若乃花 勝(わかのはな まさる)
平成 6年11月 西大関  8勝 7敗
平成 7年 1月 東大 2 12勝 3敗 
平成 7年 3月 西大関 12勝 3敗
平成 7年 5月 西大関  9勝 6敗
平成 7年 7月 西大関 11勝 4敗
平成 7年 9月 西大関 10勝 5敗
平成 7年11月 西大関 12勝 3敗 
平成 8年 1月 東大関  4敗11休  (急性肝機能障害)
平成 8年 3月 東大 2 12勝 3敗 
平成 8年 5月 東大関 12勝 3敗 
平成 8年 7月 東大関 10勝 5敗
平成 8年 9月 西大関 11勝 4敗 
平成 8年11月 東大関 11勝 4敗 
平成 9年 1月 東大関 14勝 1敗 
平成 9年 3月 東大関  3勝 1敗11休(右大腿二頭筋断裂)
平成 9年 5月 東大 2 15休    (公傷)
平成 9年 7月 東大 2  8勝 7敗
平成 9年 9月 東大 2 12勝 3敗 
平成 9年11月 東大 2 10勝 5敗
平成10年 1月 東大 2 10勝 5敗
平成10年 3月 東大 2 14勝 1敗 
平成10年 5月 東大関 12勝 3敗 
平成10年 7月 東横 2 10勝 5敗
平成10年 9月 東横 2 12勝 3敗 
平成10年11月 西横綱  9勝 6敗
平成11年 1月 西横綱 13勝 2敗 
平成11年 3月 東横綱  5勝 5敗 5休(左大腿二頭筋不全断裂)
平成11年 5月 西横綱  3勝 5敗 7休(左足関節外側靱帯損傷・腓腹神経損傷・肝機能障害)
平成11年 7月 東横 2 15休    (左足関節外側靱帯損傷)
平成11年 9月 西横 2  7勝 8敗
平成11年11月 西横綱 15休    (左大腿二頭筋不全断裂)
平成12年 1月 東横 2 15休    (陳旧性右大腿二頭筋挫傷)
平成12年 3月 西横 2  2勝 4敗  (引退)


通算 58場所 487勝250敗124休 優5同3次9殊3技6金2
得意手押し、左四つ、寄り、上手投げ身長 体重180cm 134kg
年寄名藤島[16](平成12年12月 退職) 
備考貴ノ花の長男、貴乃花の兄、若乃花・三段目 若緑の甥、大豪の義理の甥、若乃花の義理の従弟(後に解消)。
車が好きで、子供の時は暴走族やレーサーを志した。
小学校 5年生の時に相撲を取り始め、明治大学附属中野中学校へ入学して本格的に始めて活躍を続けながら同じ附属高校へ進学し、将来はアメリカンフットボール選手を志していたが、 2年生での入門の決意を聞くと自分も入門を決意し、中途退学して入門した。
軽量だが相手の呼吸を測って巧く立ち、強い足腰で相手の攻めを堪えながら土俵一杯に動き回り、抜群の相撲勘で多彩な技を繰り出す取り口。特に左右から強く押っ附けての押しは絶賛されたが、相手の力を真っ向から受けて根刮ぎ持って行かれる場合も有り、避けようとして時に立ち合いに変化して非難を浴びた。
弟の貴乃花と共に巻き起こした「若貴ブーム」は若い女性にも相撲に興味を持たせ、相撲とは無縁だったワイドショーまでが彼等を取り上げる程の社会現象にも成り、延いて相撲界全体の人気も興隆させた。一方で、自分達は何時でも何処でもマスコミに追いかけ回され、稽古に支障を来す程だったが堪えて稽古に励み、見事に大成した。
同じ兄弟でも相撲は異なり、相撲は求道の手段とも考えていた弟とは対極的に、相撲は職業として割り切る言動が見られた。
平成 5年 7月に大関に推挙されて貴乃花と史上初の兄弟同時大関を、平成 7年11月に史上初の兄弟幕内優勝決定戦を、平成10年 5月に横綱に推挙されて史上初の兄弟横綱を実現した。
人気は抜群で、横綱なのに勝って座布団が飛んだり、仕切りの時から手拍子と四股名の連呼が起こったりした。
大関推挙伝達式での口上は「今後も一意専心の気持ちを忘れず相撲道に精進致します」。
横綱推挙伝達式での口上は「横綱として堅忍不抜(誤って『けんしんふばつ』と言った)の精神で精進していきます」。
腰や足の負傷に苦しんだ。
思い出に残る取組として、平成 5年 3月12日目の曙に勝った取組を挙げた。
「独白」を著した。
退職後はタレントに転向したが、NFL(アメリカンフットボールリーグ)選手を目指してアメリカへ渡った。肉体改造や練習に取り組んで試験を受けたが不合格だったので、日本のアメリカンフットボール部「オンワード・スカイラークス」にラインバッカーとして入り、再びNFLを目指して経験を積んでいた。しかし経験不足は如何ともし難く、AFL(アリーナフットボールリーグ)のアリゾナ・ラトラーズ入団を目指したが、防御だけで攻撃が出来ず、就労ビザに関する必要書類の入手も困難な状況だったので断念した。六本木で相撲料理店「Chanko Dining 若」を経営した。
公式webサイト:花田 勝

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