| 本名 | 北尾 光司 | 生年月日 | 昭和38年 8月12日 |
| 出身地 | 三重県津市 | 初土俵 | 昭和54年 3月 |
| 所属 | 立浪[ 6] | 新十枚目 | 昭和59年 1月 |
| 改名歴 | 北尾→双羽黒 | 新入幕 | 昭和59年 9月 |
| 最高位 | 横綱 | 最終 | 昭和63年 1月 |
| 幕内略歴 |
北尾 光司(きたお こうじ) 昭和59年 9月 東前 8 8勝7敗 昭和59年11月 西前 3 8勝7敗 殊金(北の湖) 昭和60年 1月 西小結 10勝5敗 技 昭和60年 3月 東小結 10勝5敗 殊 昭和60年 5月 西関脇 6勝6敗3休(左足母趾第 2趾中足趾関節挫傷) 昭和60年 7月 東前 1 12勝3敗 次殊技金(千代の富士・隆の里) 昭和60年 9月 西関脇 11勝4敗 殊 昭和60年11月 東関脇 12勝3敗 次殊 昭和61年 1月 東張大 10勝5敗 昭和61年 3月 西大関 10勝5敗 昭和61年 5月 東大関 12勝3敗 次 昭和61年 7月 東大関 14勝1敗 同 双羽黒 光司(ふたはぐろ こうじ) 昭和61年 9月 西横綱 3勝4敗8休(頸部捻挫及び神経根症) 昭和61年11月 西横綱 12勝3敗 次 昭和62年 1月 西横綱 12勝3敗 同 昭和62年 3月 西横綱 7勝3敗5休(左膝関節挫傷・左膝蓋靱帯及び左膝外側側副靱帯損傷) 昭和62年 5月 西横綱 10勝5敗 昭和62年 7月 西横綱 8勝7敗 昭和62年 9月 東張横 9勝6敗 昭和62年11月 西張横 13勝2敗 次 昭和63年 1月 東張横 廃業 通算 21場所 197勝87敗16休 同2次5殊5技2金3 | ||
|---|---|---|---|
| 得意手 | 右四つ、寄り、掬い投げ | 身長 体重 | 199cm 157kg |
| 備考 | 子供の時から体格が大きく、敬和小学校 5年生で学校に土俵が完成してからは毎日の様に相撲を取る間に相撲が好きになり、商店街の相撲大会で優勝して更に好きになった。立浪部屋後援会会員でアマ相撲三段の腕前を持ち「津相撲クラブ」の責任者を務める人に指導を受け、東橋内中学校へ入学する時には立ち合いの当たりで吹っ飛ばし始めた。指導者の伝で毎年の夏休みに立浪部屋へ泊まり込んで稽古をし、毎朝 6時に起きて 5km走るのも欠かさなかった。中学生では相手が居らず三重高校へ出稽古に行ったが負けず、 3年生の夏休みに相撲教習所で行われた相撲協会指導普及部の進級試験兼各支部対抗試合でも優勝し、中学校に相撲部が無かったので全国的には無名だったが相撲界では評判に上り、身長も195cmに伸びていた。両親は高校卒業を願ったが入門の意志は変わらず、「 5年で関取に成れなかったら帰って来る」との条件附きで卒業と同時に入門した。 双羽黒の名は、部屋が輩出した横綱である双葉山と羽黒山に因んで大きな期待を込めて春日野が命名した。 均整の取れた長躯で柔軟性が有り、懐が深くて足腰も良かった。 立ち合いに長い腕を生かした喉輪押しで相手の出足を止め、左上手を取って右差し手を返し、腰を下ろして寄る取り口で、長躯力士に有り勝ちな脇の甘さや腰高も酷くなく、小兵には特に強かった。 体格に負けず劣らず食べっ振りも凄く、幕下で後援者と食事をした際に大好物のステーキ 3kg・中華丼・天津丼・オムライス・炒飯・チャーシュー麺・冷やし中華・かつ丼を殆ど平らげた。 昭和61年 7月後に横綱推薦問題が起こり、横綱審議委員 9人の内 1人が「体は文句無しだが心の面に問題有り(些細な負傷を理由に休場する様な土俵態度が見られ、「痛い痛い病」「養殖鯉」と揶揄される程だった)」と猛反対したが結局、横綱に推挙された。協会は吉田司家と絶縁したので推挙式は協会単独で行われ、11月場所前の吉田司家での奉納土俵入りも中止された。 幕内では皆勤負け越しが無かった。 横綱推挙伝達式での口上は「心技体の充実に心懸け、横綱の名に恥じぬよう、一層稽古に精進致します」。 入門当初から素晴らしい素質で将来を大いに期待されたが、大事に育てられ過ぎて稽古の他に精神的な成長も不足し、ちょっと厳しい ぶつかり稽古をやらされると口癖の様に「故郷へ帰らせてもらいます」と言っていたが、昭和57年 3月に椎間板ヘルニアで途中休場して入院した時には本当に帰ってしまった。しかし父に追い返されて立浪から罰として 1年間の便所掃除を命じられてしまった。58年 7月は自己最高位の東幕下 3枚目だったが、鞭打ち症で途中休場して伊豆へ温泉治療に行ったが廃業を決意し、友人の家に行ったが立浪に見つかり、懇々と諭されて連れ戻された。62年10月には附け人の山浪を些細な事で殴ったのを機にして、彼の言動に堪えられなくなった附け人 6名が集団脱走した。流石に反省したのか附け人達に謝罪して落着したと思ったのも束の間で、当年の暮れには「幕下の時から相撲道の違いで附いて行けないと感じていた」立浪と衝突し、仲裁しようとした後援者や女将に暴力を振るって失踪した。大晦日に彼の居場所を探し出した武隈達が説得したが、廃業の意志は変わらなかった。24歳の若さで廃業した後はスポーツ冒険家・プロレスラー・格闘団体「武輝道場」師範・実業家と次々に転向した。平成15年 9月からは代替わりした立浪部屋の総合顧問を務めた。 「しゃべるぞ!」「北尾光司の相撲界言い捨て御免」を著した。 日本相撲協会の双羽黒のページ | ||
まで