| 本名 | 保志 信芳 | 生年月日 | 昭和38年 6月22日 |
| 出身地 | 北海道広尾郡 | 初土俵 | 昭和54年 3月 |
| 所属 | 九重[12-13] | 新十枚目 | 昭和58年 3月 |
| 改名歴 | 保志→富士若→保志→北勝海 | 新入幕 | 昭和58年 9月 |
| 最高位 | 横綱 | 最終 | 平成 4年 5月 |
| 幕内略歴 |
保志 信芳(ほし のぶよし) 昭和58年 9月 西前13 8勝 7敗 昭和58年11月 東前 7 9勝 6敗 敢 昭和59年 1月 東小結 9勝 6敗 敢 昭和59年 3月 西関脇 6勝 9敗 昭和59年 5月 東前 1 6勝 9敗 昭和59年 7月 西前 3 9勝 6敗 昭和59年 9月 東小結 7勝 8敗 昭和59年11月 東前 1 9勝 6敗 技金(北の湖) 昭和60年 1月 西関脇 10勝 5敗 殊 昭和60年 3月 東関脇 8勝 7敗 昭和60年 5月 東張関 7勝 8敗 昭和60年 7月 西小結 10勝 5敗 技 昭和60年 9月 東小結 8勝 7敗 保志 延芳(ほし のぶよし) 昭和60年11月 西関脇 9勝 6敗 技 昭和61年 1月 東関脇 8勝 7敗 技 昭和61年 3月 西関脇 13勝 2敗 優殊技 昭和61年 5月 東関脇 11勝 4敗 敢 昭和61年 7月 東関脇 12勝 3敗 次殊 北勝海 信芳(ほくとうみ のぶよし) 昭和61年 9月 東大関 12勝 3敗 次 昭和61年11月 東大関 8勝 7敗 昭和62年 1月 東張大 11勝 4敗 次 昭和62年 3月 西大関 12勝 3敗 優 昭和62年 5月 東大関 13勝 2敗 次 昭和62年 7月 東張横 11勝 4敗 昭和62年 9月 西横綱 14勝 1敗 優 昭和62年11月 東横綱 13勝 2敗 次 昭和63年 1月 西横綱 11勝 4敗 昭和63年 3月 西横綱 13勝 2敗 同 昭和63年 5月 東横綱 11勝 4敗 (腰部椎間板損傷・左股関節挫傷) 昭和63年 7月 西横綱 15休 (同上) 昭和63年 9月 東張横 15休 (腰部椎間板損傷) 昭和63年11月 東張横 15休 (腰部椎間板ヘルニア・強直性脊椎炎疑) 平成元年 1月 東張横 14勝 1敗 優 平成元年 3月 東横綱 11勝 4敗 平成元年 5月 東張横 13勝 2敗 優 平成元年 7月 東横綱 12勝 3敗 同 平成元年 9月 東横綱 11勝 4敗 次 平成元年11月 西横綱 11勝 4敗 平成 2年 1月 西横綱 11勝 4敗 次 平成 2年 3月 西横綱 13勝 2敗 優 平成 2年 5月 東横綱 10勝 5敗 平成 2年 7月 西横綱 10勝 5敗 平成 2年 9月 東張横 14勝 1敗 優 平成 2年11月 東横綱 9勝 6敗 平成 3年 1月 西張横 12勝 3敗 次 平成 3年 3月 東横綱 13勝 2敗 優 平成 3年 5月 東横綱 15休 (左膝内側側副靱帯損傷) 平成 3年 7月 西横綱 9勝 6敗 平成 3年 9月 東横綱 15休 (頸部外傷性頸椎頸髄症・左肩関節挫傷・左肘関節挫傷・右足首距腿関節骨片) 平成 3年11月 西横綱 4勝 4敗7休(左膝内側側副靱帯損傷・変形性膝関節症) 平成 4年 1月 東横綱 15休 (左膝内障) 平成 4年 3月 東横綱 3敗12休 (左肩関節及び左肘関節挫傷後遺症) 平成 4年 5月 東横綱 引退 通算 53場所 465勝206敗109休 優8同2次8殊3敢3技5金1 | ||
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| 得意手 | 左四つ、押し、寄り、上手出し投げ | 身長 体重 | 181cm 151kg |
| 年寄名 | 北勝海→八角[ 8] | ||
| 備考 | 漁師の二男で、広尾小学校では野球の捕手(補欠)を務めたりスキーで南十勝大会に出場したが、 5年生からは柔道を始め、各大会で優勝して負け知らずだった。当時は野球の練習をしてから水泳の練習をして夜に柔道の練習をしていたが、広尾中学校へ進学してからは柔道に絞り、 2年生では全十勝大会で優勝して北北海道大会へ出場した。 1年生の夏に井筒が自分の相撲料理店で夏合宿を行っている所へ、おじの勤務先の社長と井筒が親しかった縁で おじに連れて行ってもらって ちゃんこを食べさせてもらい、 2年後の 2月に再び九重を襲名して訪ねて来た時に勧誘されて入門し、上京した。まだ 2年生だったので瑞江第二中学校に転校し、部屋では見習いとして四股や鉄砲の基本を習った。心配した両親が 7月に訪ねて来て一晩だけ泊まったが別れを言うのが辛くて本人が学校へ行っている間に菓子を沢山 置いて帰った。 8月の全国中学校相撲選手権大会に出場する弘前第一中学校相撲部の宿舎提供をした時には兄弟子にけしかけられて稽古したが、個人優勝した選手に完敗した。 初土俵から 1年が経った時に部屋の同期生で示し合わせ揃って本名から富士若に改名したが、当場所で負け越したので 1場所で元に戻した。大関昇進時に改名候補として十勝岩・十勝海・北十海が挙がったが、九重が「十では10勝で仕方が無いだろう」と考え、北海道と十勝に因んで北勝海と命名した。 入門前の柔道の癖を見習い期間で完全に消し、立ち合いに当たって突き押しに徹した取り口で、時には左を差しての寄りや右上手出し投げの他に両前褌を取っての拝み寄りの素早い動きを見せ、前捌きや相手の廻しを切るのも巧く、不利な体勢でも勝負を捨てない闘志も有った。 平均よりも小さい体格で余り素質は無かったが無類の稽古熱心で補い、兄弟子の千代の富士に胸を借りての猛稽古は有名だった。 十枚目を狙える東幕下 7枚目に昇進した昭和57年11月に九重から「大関栃光正之一代記」を渡されて読むのを勧められた。昇進してからも容貌や取り口が栃光に似ていると言われた。 昭和61年 3月に史上初めて 1場所で 5大関に勝った。 大関推挙伝達式での口上は「大関の名を汚さぬよう、これからも稽古に精進し、努力します」。 昭和62年 5月に横綱に推挙された。嘗て大関に昇進した時ですら九重が「千代の富士が横綱になった時よりも驚いた」と語っただけに、横綱昇進は努力の賜以外の何物でもない事を示した。 横綱推挙伝達式での口上は「横綱の名を汚さぬよう、これからも一生懸命稽古をし、努力します」。 昭和63年 5月14日目に支度部屋の稽古で腰を負傷して 4場所連続休場に追い込まれたが、-196℃の冷凍室に入る冷凍治療を受けながら回復に努めて休場明けを優勝で飾った。腰痛には最後まで苦しめられ、平成 3年の夏巡業では列車に乗ると間も無く俯せになって腰に負担を掛けないようにする配慮も欠かさなかったが、復活は成らず28歳の若さで引退した。 平成元年 7月に千代の富士と同部屋横綱の優勝決定戦を行った。 平成 3年 3月14日目に 1敗同士の対戦で大乃国を寄り倒した時に土俵の角で左膝関節を強打して内側側副靱帯を損傷してしまった。翌日は 1差で追う大乃国と同じ支度部屋だったので負傷を悟られて勢い附かせない為に、痛みに堪えて土俵入りを終えると大乃国から最も遠い支度部屋の入り口附近に移動して周りを附け人達に囲ませて見えなくし、最も太った附け人を鉄砲柱代わりにして鉄砲を行い、実際よりも力強い音を出して隠し通した。 思い出に残る取組として、 3場所連続で全休した後に平成元年 1月 千秋楽の優勝決定戦で旭富士に勝って優勝を決定した取組を挙げた。 日本相撲協会の北勝海のページ | ||
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