| 本名 | 杉野森 正也 | 生年月日 | 昭和35年 7月 6日 |
| 出身地 | 青森県つがる市(旧 青森県西津軽郡) | 初土俵 | 昭和56年 1月 |
| 所属 | 大島[ 2] | 新十枚目 | 昭和57年 3月 |
| 改名歴 | 杉野 →旭富士 | 新入幕 | 昭和58年 3月 |
| 最高位 | 横綱 | 最終 | 平成 4年 1月 |
| 幕内略歴 |
旭富士 正也(あさひふじ せいや) 昭和58年 3月 西前10 8勝 7敗 昭和58年 5月 東前 4 4勝11敗 昭和58年 7月 東前11 9勝 6敗 昭和58年 9月 西前 5 8勝 7敗 昭和58年11月 西小結 6勝 9敗 昭和59年 1月 東前 4 1勝 3敗11休(右足首関節捻挫) 昭和59年 3月 東前14 9勝 6敗 昭和59年 5月 東前 6 8勝 7敗 昭和59年 7月 西前 2 8勝 7敗 金(北の湖) 昭和59年 9月 西小結 5勝10敗 昭和59年11月 東前 5 11勝 4敗 次敢 昭和60年 1月 東小結 7勝 8敗 昭和60年 3月 東前 1 9勝 6敗 技 昭和60年 5月 東小結 8勝 7敗 昭和60年 7月 東小結 5勝10敗 昭和60年 9月 東前 2 10勝 5敗 技 昭和60年11月 東小結 8勝 7敗 昭和61年 1月 西関脇 11勝 4敗 殊 昭和61年 3月 東関脇 7勝 8敗 昭和61年 5月 西小結 10勝 5敗 殊 昭和61年 7月 西関脇 4勝11敗 昭和61年 9月 東前 2 8勝 7敗 金(双羽黒) 昭和61年11月 西小結 7勝 8敗 昭和62年 1月 東前 1 8勝 7敗 昭和62年 3月 西関脇 10勝 5敗 昭和62年 5月 西関脇 10勝 5敗 技 昭和62年 7月 東関脇 11勝 4敗 技 昭和62年 9月 東関脇 12勝 3敗 敢技 昭和62年11月 西大関 11勝 4敗 昭和63年 1月 東大関 14勝 1敗 優 昭和63年 3月 東大関 12勝 3敗 次 昭和63年 5月 東大関 12勝 3敗 次 昭和63年 7月 東大関 11勝 4敗 昭和63年 9月 東大関 12勝 3敗 次 昭和63年11月 東大関 12勝 3敗 次 平成元年 1月 東大関 14勝 1敗 同 平成元年 3月 東大関 13勝 2敗 次 平成元年 5月 東大関 13勝 2敗 同 平成元年 7月 東大関 8勝 7敗 平成元年 9月 西大関 9勝 6敗 平成元年11月 西大関 8勝 7敗 平成 2年 1月 西大関 9勝 6敗 平成 2年 3月 西張大 8勝 7敗 平成 2年 5月 西張大 14勝 1敗 優 平成 2年 7月 東大関 14勝 1敗 優 平成 2年 9月 西横綱 13勝 2敗 次 平成 2年11月 西横綱 12勝 3敗 次 平成 3年 1月 西横綱 11勝 4敗 平成 3年 3月 西横綱 11勝 4敗 平成 3年 5月 東張横 14勝 1敗 優 平成 3年 7月 東横綱 8勝 7敗 平成 3年 9月 西横綱 2勝 4敗 9休(慢性膵臓炎・脊椎分離症) 平成 3年11月 東横綱 15休 (同上) 平成 4年 1月 西横綱 4敗 (引退) 通算 54場所 487勝277敗35休 優4同2次8殊2敢2技5金2 | ||
|---|---|---|---|
| 得意手 | 右四つ、寄り、上手出し投げ | 身長 体重 | 189cm 143kg |
| 年寄名 | 旭富士→安治川[ 4]→伊勢ヶ濱[ 9] | ||
| 備考 | 安壮富士・安美錦の父の従弟、大昇の義理の甥。 電機工事業の長男で、父は入門も考えた程の土地相撲の強豪で後に青森県相撲連盟副会長を務めた。向陽小学校 5年生で庭に土俵を作ってもらって父に相撲の特訓を受け、廻しの切り方や出し投げの打ち方等の細かい技術指導も受けた。四股 1回で10円を貰えたが 1日3000円に達する日も有って、雨の日は風呂場で四股を踏むので損傷が激しく修理代も嵩んだと伝わる。木造町の道場で柔道も習っていたが、木造中学校では柔道を止めて相撲部に所属したが、 2年生で指導する教師が居なくなって部が消滅してしまい大会に出場できなくなったので、普段は大人しいにも関わらず校長に直談判して「顧問でも先生が居れば良いから」との了解を取り、自分の好きな先生を顧問に据えて相撲部を再興し、以後も青森県大会などで活躍した。卒業後は、母は自分が勤務する五所川原高校から大学へ進学して教師に就く事を望み、自分は相撲が強い木造高校を志したが、青森県立五所川原農林高校から勧誘され、次に相撲好きの五所川原商業高校の校長から勧誘されたので、余り気が進まなかったが周囲の勧めで後者へ進学した。相撲は好きだったが、子供の時から甘えん坊だったので上級生が居る団体生活に耐えられず、 1年生の時は良く稽古を怠け、秋の県大会終了後は姿を見せなくなった。 2年生で丁度良く先生に声を掛けられて再び相撲に打ち込み、 3年生で国民体育大会(長野)に出場して少年の部の団体優勝に貢献して個人でも 3位に入賞する活躍で各大学から勧誘され、特に近畿大学と日本大学から熱心に勧誘されたが、高校の卒業生が多く進学した近畿大学に周囲の勧めで進学した。早々に西日本新人戦で優勝したが、 1人で ちゃんこ番を任されたりする相撲部の合宿所生活に馴染めずに 2年生で中途退学(後に通信課程で卒業)して帰郷した。以後は漁業に従事したが、母校の五所川原商業高校で稽古をしていた時に学校の事務職員に見出され、電話で連絡を受けた大島から電話で部屋見学から誘われたので行くと、小部屋で難しい人間関係が無さそうなので入門した。上京した日の稽古では既に部屋頭の幕下より強かった。 旭富士の名は旭國と入門当時に頭角を現し始めた千代の富士に因んで女将と行司 木村 城之介が命名した。 色白で足腰が強く懐が深い柔軟な体格。柔軟性から「津軽海鼠」の渾名が有ったが、本人は嫌がった。 相撲勘の良さを生かした勝ち味が速い取り口で前捌きが巧く、速攻の力士や大兵に苦戦したが小兵には特に強かった。当初は体格を生かさず頭を附ける少し小さな取り口だったが、横綱に昇進する頃から積極的な攻めで圧倒する取り口に変わった。 昭和59年の秋頃からトレーニングセンターに通い始め、11月には10万円のバーベルセットを買って筋力を鍛えた。 昭和61年 7月に大島の現役中と同じ膵臓炎に罹って稽古が不足し、最後まで苦しめられて実力を発揮し切れずに終わった。 大関推挙伝達式での口上は「これからはより一層努力精進し、大関の名に恥じぬよう頑張ります」。 昭和63〜平成元年に好成績を続けたが連続優勝は成らなかったのと、体調が悪い時でも此見よがしを嫌ったので十分な稽古を見せられず稽古嫌いの影響を与えたり、取組での印象の悪さも災いしてか横綱昇進を見送られ、平成 2年 7月に漸く横綱に推挙された。平成時代で最初の横綱。 横綱推挙伝達式での口上は「横綱の名を辱めぬよう全力を尽くして努力精進し、健康に注意しながら心技体の充実に努めます」。 思い出に残る取組として、平成 2年 7月千秋楽の千代の富士に勝って横綱昇進を決定的にした取組を挙げた。 日本相撲協会の旭富士のページ | ||
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