| 本名 | 福薗 好昭 | 生年月日 | 昭和36年 6月18日 |
| 出身地 | 鹿児島県姶良郡(出生地は東京都墨田区) | 初土俵 | 昭和53年 1月 |
| 所属 | 井筒[13] | 新十枚目 | 昭和56年 7月 |
| 改名歴 | 福薗→逆鉾 | 新入幕 | 昭和57年11月 |
| 最高位 | 関脇 | 最終 | 平成 4年 9月 |
| 幕内略歴 |
逆鉾 昭廣(さかほこ あきひろ) 昭和57年11月 西前12 4勝10敗1休(左膝内側側副靱帯損傷) 昭和58年 3月 西前13 8勝 7敗 昭和58年 5月 西前 5 7勝 8敗 昭和58年 7月 西前 6 7勝 8敗 昭和58年 9月 西前 8 7勝 8敗 昭和58年11月 東前 9 9勝 6敗 昭和59年 1月 東前 3 4勝11敗 金(隆の里) 昭和59年 3月 西前10 9勝 6敗 技 昭和59年 5月 東前 3 8勝 7敗 殊金(隆の里) 昭和59年 7月 西関脇 8勝 7敗 技 昭和59年 9月 東関脇 5勝10敗 昭和59年11月 東前 4 6勝 9敗 金(隆の里) 昭和60年 1月 東前 8 8勝 7敗 昭和60年 3月 西前 4 8勝 7敗 昭和60年 5月 東前 1 6勝 9敗 昭和60年 7月 東前 3 6勝 9敗 昭和60年 9月 西前 6 8勝 7敗 昭和60年11月 東前 1 6勝 9敗 昭和61年 1月 東前 4 8勝 7敗 昭和61年 3月 東前 1 6勝 9敗 昭和61年 5月 東前 3 5勝10敗 昭和61年 7月 西前 7 10勝 5敗 昭和61年 9月 西小結 8勝 7敗 技 昭和61年11月 東小結 5勝10敗 昭和62年 1月 西前 2 6勝 9敗 金(千代の富士) 昭和62年 3月 西前 5 9勝 6敗 昭和62年 5月 東前 1 6勝 9敗 昭和62年 7月 東前 3 7勝 8敗 金(双羽黒) 昭和62年 9月 西前 4 8勝 7敗 殊金(千代の富士・双羽黒) 昭和62年11月 西関脇 8勝 7敗 殊 昭和63年 1月 東関脇 9勝 6敗 殊 昭和63年 3月 東関脇 8勝 7敗 昭和63年 5月 東関脇 8勝 7敗 昭和63年 7月 東関脇 8勝 7敗 殊 昭和63年 9月 東関脇 9勝 6敗 昭和63年11月 東関脇 9勝 6敗 平成元年 1月 東関脇 9勝 6敗 技 平成元年 3月 東関脇 7勝 8敗 平成元年 5月 東小結 8勝 7敗 平成元年 7月 西関脇 2勝13敗 逆鉾 信繁(さかほこ のぶしげ) 平成元年 9月 東前 7 6勝 9敗 逆鉾 伸重(さかほこ のぶしげ) 平成元年11月 東前12 10勝 5敗 平成 2年 1月 西前 2 4勝11敗 平成 2年 3月 西前10 9勝 6敗 平成 2年 5月 西前 2 5勝10敗 平成 2年 7月 西前 9 8勝 7敗 平成 2年 9月 西前 5 8勝 7敗 平成 2年11月 西小結 5勝10敗 平成 3年 1月 東前 4 6勝 9敗 平成 3年 3月 西前 9 8勝 7敗 平成 3年 5月 西前 5 6勝 9敗 平成 3年 7月 西前 8 10勝 5敗 平成 3年 9月 西前 1 5勝10敗 (右大腿屈頭筋挫傷・右膝内側側副靱帯損傷) 平成 3年11月 西前 7 15休 (公傷) 平成 4年 1月 西前 7 6勝 9敗 平成 4年 3月 東前10 5勝10敗 平成 4年 5月 西前15 4勝11敗 通算 57場所 392勝447敗16休 殊5技4金7 | ||
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| 得意手 | 左四つ、諸差し、寄り、外掛け | 身長 体重 | 182cm 124kg |
| 年寄名 | 春日山[18]→井筒[14] | ||
| 備考 | 幕下 加賀錦の孫、鶴ヶ嶺と西ノ海の養女の養女の二男、鶴嶺山の弟、寺尾の兄、鶴ノ富士の従兄、幕下 薩摩錦の従兄の孫。 二葉小学校では腕白で、 6年生で他校生と喧嘩して警察署へ逃げ込んだ相手を追い掛けて捕まえてから殴って怒られたり、両国中学校でも忘れ物が多く宿題は殆ど出さなかった。中学生の時から部屋の新弟子と遊び半分で相撲を取り始める間に力士を志し始めて 3年生の終わり頃には入門を前提とした稽古をしていた。卒業後に入門しようと思ったが体重が足りないので目黒高校へ進学し、全国に名の轟くラグビー部に所属しようかとも思ったが将来を考えて相撲部に所属し、関東大会の団体戦では負け知らずで活躍したが、体重が増えて基準を超えたので中途退学して入門した。 平成元年 9月後に名前を届け出た時に手違いで信繁を伸重としてしまったが、低い地位にも助けられて好成績を挙げられたので以後も用いた。 立ち合い踏み込んで右肩で当たってから、肩を使った父譲りの巧い諸差しで一気に寄る小気味の良い取り口で人気が有った。勝ち気で土俵度胸も良くて上位に強く、朝潮に強かった。関脇に連続 9場所も在位して大関昇進を期待されたが、斑が多い性格で大事な時に勝負を諦める場合が有り、 1度も 2桁勝利を挙げられなかった。 子供の時から若乃花の大ファンで序ノ口からの全成績を諳んじたり、関連する本を全て持っていた。気分転換も、若乃花が出演した「土俵の鬼」の鑑賞だった。 母の 3回忌に新十枚目昇進を決定附けた。 昭和59年 1月 7日目に隆の里に勝った時にガッツポーズをして物議を醸した。 思い出に残る取組として、昭和62年11月初日の小錦に勝った取組を挙げた。 | ||
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