多賀竜 昇司(たがりゅう しょうじ)

本名黒谷 昇生年月日昭和33年 2月15日
出身地茨城県日立市(出生地は茨城県北茨城市)初土俵昭和49年 3月
所属鏡山[ 7]新十枚目昭和56年 1月
改名歴黒谷→多賀竜新入幕昭和57年 5月
最高位関脇最終平成 3年 5月
幕内略歴 多賀竜 昇司(たがりゅう しょうじ)
昭和57年 5月 東前13  8勝 7敗
昭和57年 7月 東前 9  8勝 7敗
昭和57年 9月 東前 6  7勝 8敗
昭和57年11月 東前 7  6勝 9敗
昭和58年 1月 西前 9  9勝 6敗
昭和58年 3月 西前 2  3勝12敗  (左足関節捻挫)
昭和58年 5月 西前 8  6勝 9敗
昭和58年 7月 西前10  9勝 6敗
昭和58年 9月 西前 4  9勝 6敗
昭和58年11月 西関脇  5勝10敗
昭和59年 1月 西前 3  4勝11敗
昭和59年 3月 東前11  9勝 6敗
昭和59年 5月 東前 4  6勝 9敗
昭和59年 7月 西前 8  6勝 9敗
昭和59年 9月 西前12 13勝 2敗 優敢技
昭和59年11月 西小結  6勝 9敗
昭和60年 1月 東前 1  5勝10敗 (北の湖)
昭和60年 3月 東前 6  8勝 7敗
昭和60年 5月 西前 2  3勝12敗
昭和60年 7月 東前12  8勝 7敗
昭和60年 9月 西前 8  7勝 8敗
昭和60年11月 東前11  8勝 7敗
昭和61年 1月 西前 5  5勝10敗
昭和61年 3月 西前10  8勝 7敗
昭和61年 5月 東前 6  6勝 9敗
昭和61年 7月 西前 9  8勝 7敗
昭和61年 9月 西前 2  5勝10敗
昭和61年11月 西前 6  6勝 9敗
昭和62年 1月 西前11  9勝 6敗
昭和62年 3月 東前 5  6勝 9敗
昭和62年 5月 東前 9  8勝 7敗
昭和62年 7月 西前 2  5勝10敗
昭和62年 9月 西前 6  6勝 9敗
昭和62年11月 東前10  8勝 7敗
昭和63年 1月 西前 3  4勝11敗
昭和63年 3月 西前 8  6勝 9敗
昭和63年 5月 西前12  5勝10敗

昭和63年 9月 西前10  8勝 7敗
昭和63年11月 西前 7  8勝 7敗
平成元年 1月 西前 2  1勝11敗3休(右肘関節捻挫)
平成元年 3月 西前11  8勝 7敗
平成元年 5月 東前 6  4勝11敗
平成元年 7月 東前13  6勝 5敗4休(左 I趾末節骨骨折・左母趾挫減創裂創)

平成 2年 1月 東前12  8勝 7敗
平成 2年 3月 西前 9  6勝 9敗
平成 2年 5月 東前12  9勝 6敗
平成 2年 7月 東前 6  5勝10敗
平成 2年 9月 西前12  5勝10敗

平成 3年 1月 東前14  5勝10敗


通算 49場所 321勝407敗7休 優1敢1技1金1
得意手右四つ、上手出し投げ、寄り身長 体重178cm 142kg
年寄名勝ノ浦[ 9]→鏡山[ 8] 
備考竜聖の父。
成沢小学校では元気が有り過ぎ、 5年生ではサッカーのゴールポストで逆上がりをしたらポスト諸共に倒れて眉間から右瞼に掛け17針を縫う大きな傷を負った。多賀中学校では野球部で捕手を務め、 2年生からレギュラー、 3年生から主将を務めたが、練習を続けながらも家計を助ける為に新聞配達のアルバイトをした。新聞販売店の主人は後に、十枚目に昇進して後援会を発足させる時に中心的役割を果たした。卒業後は東洋大学附属牛久高校から勧誘されて入学試験にも合格したが、授業料が高いのと家から遠く寮生活を余儀無くされるので断念し、日立製作所の職業訓練所の溶接科へ入所したが、卒業も近附いて日立機材への入社も決まった時に近所の建設業者が体格を見出して現役中の大ファンだった鏡山に連絡し、訪ねて来た鏡山から勧誘されて入門した。
多賀竜の名は母校である多賀中学校に因んだ。
丸々とした重心が低い体格で、最初は当たって相手の差し手を押っ附ける取り口で自分の型を作る前に動き回られたり上手を取る前に投げられると脆かったが、強烈な右押っ附けや左絞りから右四つ上手出し投げで崩して寄る玄人受けのする巧い取り口に変わり、廻しを切るのも巧かった。勝ち味が速い力士や腰の重い力士に苦戦し、大寿山には横綱・大関でもないのに19回も対戦して 1回しか勝てなかった。
昭和59年 5月に母が交通事故で亡くなってから「良い相撲を取る事が一番の供養」と土俵に専念し、蔵前國技館最後の場所の 9月は場所前に全身痙攣が起きて余り稽古はできず万全の調子ではなかったが見事に幕内優勝を遂げた。千秋楽は 1敗で迎えたが、本割の相手の朝潮には勝てそうにないし、決定戦では 2横綱 1大関を薙ぎ倒した勢いに乗って 2敗で追う小錦には不利だと思っていたが、便所で小錦の相手の琴風に会ったので、「大関、頑張って下さい」と言うと「任せておきなさい」と言われ、言葉通り琴風小錦に勝って自分の優勝が決定した。
持病の痛風に苦しんだ。

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