| 本名 | 長岡 末弘 | 生年月日 | 昭和30年12月 9日 |
| 出身地 | 高知県室戸市(旧 高知県安芸郡) | 初土俵 | 昭和53年 3月 幕下 |
| 所属 | 高砂[ 5- 6] | 新十枚目 | 昭和53年 7月 |
| 改名歴 | 長岡→朝汐→朝潮 | 新入幕 | 昭和53年11月 |
| 最高位 | 大関 | 最終 | 平成元年 3月 |
| 幕内略歴 |
長岡 末弘(ながおか すえひろ) 昭和53年11月 西前13 9勝 6敗 昭和54年 1月 東前 6 10勝 5敗 敢 朝汐 太郎(あさしお たろう) 昭和54年 3月 東前 1 5勝10敗 昭和54年 5月 東前 6 6勝 9敗 昭和54年 7月 東前10 6勝 9敗 昭和54年 9月 東前14 10勝 5敗 敢 昭和54年11月 西前 6 7勝 8敗 昭和55年 1月 東前 7 8勝 7敗 昭和55年 3月 西前 2 10勝 5敗 殊金(北の湖) 昭和55年 5月 東小結 10勝 5敗 殊 昭和55年 7月 西関脇 11勝 4敗 殊 昭和55年 9月 東関脇 6勝 9敗 昭和55年11月 西前 2 7勝 8敗 昭和56年 1月 東前 3 8勝 7敗 金(輪島・北の湖) 昭和56年 3月 東前 1 8勝 7敗 昭和56年 5月 西小結 9勝 6敗 殊 昭和56年 7月 東張関 11勝 4敗 殊 昭和56年 9月 西関脇 7勝 8敗 昭和56年11月 西張小 12勝 3敗 同殊 昭和57年 1月 西関脇 6勝 9敗 昭和57年 3月 西前 1 8勝 7敗 金(北の湖) 昭和57年 5月 西小結 13勝 2敗 同殊敢 昭和57年 7月 西関脇 8勝 7敗 殊 昭和57年 9月 西張関 7勝 8敗 朝潮 太郎(あさしお たろう) 昭和57年11月 東前 1 9勝 6敗 金(北の湖) 昭和58年 1月 西関脇 14勝 1敗 同殊技 昭和58年 3月 東関脇 12勝 3敗 次殊 昭和58年 5月 東張大 9勝 6敗 昭和58年 7月 東張大 2 9勝 6敗 昭和58年 9月 西張大 6勝 3敗 6休(右膝内側側副靱帯損傷) 昭和58年11月 西張大 15休 (公傷) 昭和59年 1月 西張大 10勝 5敗 昭和59年 3月 東張大 9勝 6敗 昭和59年 5月 西張大 10勝 5敗 昭和59年 7月 西大関 8勝 7敗 昭和59年 9月 東張大 11勝 4敗 昭和59年11月 西大関 10勝 5敗 昭和60年 1月 西大関 9勝 6敗 昭和60年 3月 東張大 13勝 2敗 優 昭和60年 5月 東大関 11勝 4敗 昭和60年 7月 東大関 9勝 6敗 昭和60年 9月 東張大 9勝 6敗 昭和60年11月 東張大 9勝 6敗 昭和61年 1月 西張大 9勝 6敗 昭和61年 3月 東張大 10勝 5敗 昭和61年 5月 西大関 9勝 6敗 昭和61年 7月 東張大 9勝 6敗 昭和61年 9月 東張大 9勝 6敗 昭和61年11月 西大関 8勝 7敗 昭和62年 1月 西張大 9勝 6敗 昭和62年 3月 西張大 9勝 6敗 昭和62年 5月 東張大 8勝 7敗 昭和62年 7月 東張大 9勝 6敗 昭和62年 9月 東張大 8勝 7敗 昭和62年11月 東張大 8勝 7敗 昭和63年 1月 西張大 9勝 6敗 昭和63年 3月 西張大 8勝 7敗 昭和63年 5月 西張大 1勝 2敗12休(右足根骨靱帯損傷) 昭和63年 7月 西張大 8勝 7敗 昭和63年 9月 西張大 9勝 6敗 昭和63年11月 西大関 4勝11敗 平成元年 1月 西張大 8勝 7敗 平成元年 3月 東張大 5敗 (引退) 通算 63場所 531勝371敗33休 優1同3次1殊10敢3技1金5 | ||
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| 得意手 | 突き、押し、左四つ、寄り | 身長 体重 | 183cm 186kg |
| 年寄名 | 山響[15]→若松[11]→高砂[ 7] | ||
| 備考 | 捕鯨船乗組員の長男で、椎名小学校では理数系は得意だったが体育が苦手で、銀行員か教師を志していた。高知市立愛宕中学校 2年生の夏に相撲部の監督に体格を見出されて高知市の相撲大会に出場して準優勝を果たした。通っていた塾の先生が高校の先生と知り合いだった縁で進学校の高知県立高知小津高校を受験して進学し、高校の先生と近畿大学の先生が親しかった縁で進学した。相撲部では 2年生までは大した活躍は無かったが、 3年生からは全日本相撲選手権大会と全国学生相撲選手権大会の双方で昭和51〜52年と連続優勝する史上初の快挙を成し遂げ、各部屋から勧誘されたが近畿大学相撲部の監督と同郷だった高砂への入門に決まり、鳴り物入りで入門した。 負け越し知らずで入幕したが、朝汐に改名した途端に精神面の弱さを露呈して伸び悩んだ。 立ち合いに頭で当たって突き押しで出るか左四つで鋭く寄る取り口だが、出足を止められたり攻め込まれると脆く、連相撲が多かった。体格が大きくない力士や勝ち味が速くない力士には特に強かった。北の湖に対しての 5連勝を始めとして上位に強かったが下位には取り零しが多く、大事な一番に弱かった。 昭和58年 3月は大関昇進が懸かったが、13日目に支度部屋での準備運動中に左足脹ら脛の肉離れを起こし、急いでテープを巻いて土俵に上がったが善戦しながらも負け、翌日も負けたが、春日野 理事長に「満足に土俵を勤められない様な力士は大関にしたくない」との発言に奮起して千秋楽は見事に勝ち、大関昇進を決定附けた。 大関推挙伝達式の朝は遅くまで寝ていて大物振りを発揮した。口上は「大関の名に恥じぬよう、これからも一生懸命頑張ります」で、千秋楽の夜から「是までの10倍稽古に励み」の文句を入れようと密かに考えていたが、巨躯の故に少し稽古すると息が上がるので稽古量が少なかったのに言うと笑われそうで、不真面目とも受け取られそうなので止めた。 横綱昇進を期待されたが、稽古不足で果たせなかった。 思い出に残る取組として、昭和60年 3月千秋楽に若嶋津に勝って初優勝を果たした取組を挙げた。 明るい性格と愛嬌の有る容貌で人気が有り、「ほたる川」「甘えんぼ」「逢いたかったよ」のレコードも出した。 後に理事を務めた。 日本相撲協会の朝潮のページ | ||
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