隆の里 俊英(たかのさと としひで)

本名高谷 俊英生年月日昭和27年 9月29日
出身地青森県青森市(旧 青森県南津軽郡)初土俵昭和43年 7月
所属二子山[10]新十枚目昭和49年11月
改名歴高谷→隆ノ里→隆の里新入幕昭和50年 5月
最高位横綱最終昭和61年 1月
幕内略歴 隆ノ里 俊英(たかのさと としひで)
昭和50年 5月 西前13  7勝 8敗
昭和50年 7月 西前14  6勝 9敗

昭和51年 7月 西前12  4勝 6敗 5休(右肩関節挫傷)

昭和51年11月 西前12 10勝 5敗
昭和52年 1月 西前 4  8勝 7敗
昭和52年 3月 西小結  4勝11敗
昭和52年 5月 西前 7  7勝 8敗
昭和52年 7月 東前 8  8勝 7敗
昭和52年 9月 東前 6  5勝10敗
昭和52年11月 西前11 11勝 4敗 
昭和53年 1月 東前 4  4勝11敗
昭和53年 3月 東前10  9勝 6敗
昭和53年 5月 西前 4  8勝 7敗
昭和53年 7月 東前 1  4勝11敗
昭和53年 9月 東前 8  9勝 6敗
昭和53年11月 西前 3  2勝13敗
昭和54年 1月 西前12  5勝10敗

昭和54年 5月 東前11 10勝 5敗
隆の里 俊英(たかのさと としひで)
昭和54年 7月 西前 2  8勝 7敗
昭和54年 9月 西関脇  8勝 7敗
昭和54年11月 東関脇  6勝 9敗
昭和55年 1月 西前 1  4勝11敗
昭和55年 3月 西前 7  7勝 8敗
昭和55年 5月 東前 9  6勝 9敗
昭和55年 7月 東前12 12勝 3敗 次敢
昭和55年 9月 西前 1 13勝 2敗 次殊敢金(輪島北の湖)
昭和55年11月 西関脇 11勝 4敗 
昭和56年 1月 西関脇  9勝 6敗
昭和56年 3月 東関脇 10勝 5敗
昭和56年 5月 東関脇  6勝 9敗
昭和56年 7月 西前 1  9勝 6敗
昭和56年 9月 西張小 10勝 5敗
昭和56年11月 東関脇 11勝 4敗 次敢
昭和57年 1月 東関脇 12勝 3敗 次敢
昭和57年 3月 西大関 11勝 4敗 
昭和57年 5月 東大関 11勝 4敗
昭和57年 7月 東大関  9勝 6敗
昭和57年 9月 西大関 15勝   
昭和57年11月 東大関 10勝 5敗
昭和58年 1月 東大関 11勝 4敗
昭和58年 3月 西大関 12勝 3敗 
昭和58年 5月 東大関 13勝 2敗 
昭和58年 7月 東大関 14勝 1敗 
昭和58年 9月 西横綱 15勝   
昭和58年11月 東横綱 13勝 2敗 
昭和59年 1月 西横綱 13勝 2敗 
昭和59年 3月 東横綱 11勝 4敗
昭和59年 5月 東横綱 11勝 4敗 
昭和59年 7月 西横綱 10勝 5敗
昭和59年 9月 西横綱 10勝 5敗
昭和59年11月 東横綱  3敗12休  (左肘関節炎)
昭和60年 1月 東張横  1勝 3敗11休(両変形性肘関節症・右頸肩腕症候群)
昭和60年 3月 西横綱 15休    (同上)
昭和60年 5月 西横綱 15休    (同上)
昭和60年 7月 西横綱 10勝 5敗
昭和60年 9月 西横綱  3敗12休  (右膝関節内障に伴う水腫)
昭和60年11月 西横綱  1勝 4敗10休(右変形性膝関節症に伴う水腫)
昭和61年 1月 西横綱  2敗    (引退)


通算 58場所 464勝313敗80休 優4次9殊2敢5金2
得意手右四つ、上手投げ、吊り、寄り身長 体重182cm 159kg
年寄名鳴戸[13] 
備考林檎園の二男で、浪岡高校までは野球・柔道・相撲・砲丸投げで活躍したが、 1年生で突然として二子山から二子山の知人の小料理屋へ両親と共に呼ばれて勧誘され、高校へ進学したばかりでアキレス腱を断裂していたので 1度は断ったが、見物だけでもと言われて迷った挙げ句に同行し、同じ日に入門していた下山とも一緒に上京した。部屋で約 1週間を過ごしていると高校の英語の先生から来た手紙で休学届が出された事に驚き、次いで同級生達から寄せ書きを贈られたり、同封された東奥日報の切り抜きに自分達の入門の記事を見るに及んで観念して入門した。
幕下に居た昭和47年の秋に協会の定期検診で糖尿病を告知された。気が向くとウィスキーボトルを平気で 3本も飲む大酒と大食が原因で、酷い疲労感で力が入らず、半年後に漸く師匠に打ち明けて48年の夏に入院加療した。以後は、酒を断つ、栄養学を学んで毎日カロリー計算をした食事を摂る、糖尿病に効くと聞いた民間療法や漢方薬を片っ端から試す、と言った節制に努めながら本場所に出場し続けたが、克服するまでの間は節制の効果に従って番附も上昇下降を繰り返した。57年 7月初日は低血糖状態で力が入らず富士櫻と立ち合い当たった瞬間に尻餅を搗いて負けたので、以後は携帯用血糖測定器を購入し、取組前に測定して血糖値の調整に努めた。約10年も掛けて漸く克服し、56年 7月には「糖尿病に勝った!」を著した。
下半身は固かったが怪力で、最初は立ち合いからがっぷり右四つに組んで天井を向いて吊る強引な取り口で、天井を向いて吊る陸奥嵐に「あいつは天井向いて吊るから駄目だよ」と言われた時は大いに気を腐らせた。しかも陸奥嵐の様な思い切った技が無く勝ち味が遅かったが、昭和55年の後半から力強さが目立ち始め、低い姿勢で鋭く踏み込んで両廻しを引き附けて吊り寄りで出る勝ち味が速い取り口に変わった。肘を張り腰を振って廻しを切るのが巧く、特に勝ち味が遅い力士に強かった。
少し気が弱かった。
千代の富士に 1勝すれば 2勝や 3勝もの価値が有る」と、VTRを始めとする様々な手段を使って千代の富士の取り口を研究した。VTRのヘッドが壊れたり、訪ねて来た友達が全く構ってもらえないので呆れて帰ってしまう程の熱心さで、研究の甲斐が有って千代の富士に速攻を許さず組み止めてから胸を合わせて攻めて昭和56年 7月〜57年 9月に 8連勝した。千代の富士は「何をやろうとしても読まれていて全て裏目に出た」と語った。
昭和58年 7月に横綱に推挙され、史上初めて新横綱で15戦全勝を達成したが、当場所を頂点に成績は下降し、横綱勝率は 1回も上昇しなかった。
横綱推挙伝達式での口上は「節制に努めて努力、精進致します」。
負傷した右膝関節は昭和60年11月後に回復していたが、 1月場所前に蜂窩織炎を患った左足首を庇っている内に再び右膝関節を悪化させて引退に追い込まれた。
思い出に残る取組として、昭和56年11月千秋楽の巨砲に勝った取組(巨砲が右瞼を切って流血した)や58年 7月千秋楽の千代の富士に勝って優勝と横綱昇進を決定した取組を挙げた。
日本相撲協会の隆の里のページ

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