| 本名 | 下山 勝則 | 生年月日 | 昭和28年 4月 3日 |
| 出身地 | 青森県南津軽郡 | 初土俵 | 昭和43年 7月 |
| 所属 | 二子山[10] | 新十枚目 | 昭和48年 7月 |
| 改名歴 | 下山→朝ノ花→若三杉→若乃花 | 新入幕 | 昭和48年11月 |
| 最高位 | 横綱 | 最終 | 昭和58年 1月 |
| 幕内略歴 |
若三杉 幹士(わかみすぎ かんじ) 昭和48年11月 東前13 6勝 9敗 昭和49年 3月 東前13 8勝 7敗 昭和49年 5月 東前11 9勝 6敗 若三杉 壽人(わかみすぎ ひさひと) 昭和49年 7月 東前 6 8勝 7敗 昭和49年 9月 東前 3 10勝 5敗 技 昭和49年11月 西小結 11勝 4敗 次技 昭和50年 1月 西関脇 9勝 6敗 技 昭和50年 3月 東関脇 9勝 6敗 昭和50年 5月 東関脇 2勝 8敗5休(急性肝臓炎) 昭和50年 7月 東前 8 9勝 6敗 昭和50年 9月 西前 2 9勝 6敗 金(北の湖) 昭和50年11月 西小結 8勝 7敗 昭和51年 1月 西小結 4勝11敗 昭和51年 3月 西前 4 9勝 6敗 金(北の湖) 昭和51年 5月 東小結 7勝 8敗 昭和51年 7月 東前 1 9勝 6敗 金(北の湖) 昭和51年 9月 西関脇 11勝 4敗 技 昭和51年11月 東関脇 11勝 4敗 殊 昭和52年 1月 東関脇 11勝 4敗 殊 昭和52年 3月 西大関 9勝 6敗 昭和52年 5月 西大関 13勝 2敗 優 昭和52年 7月 東大関 10勝 5敗 昭和52年 9月 東大関 10勝 5敗 昭和52年11月 西大関 10勝 5敗 昭和53年 1月 東大関 13勝 2敗 次 昭和53年 3月 東大関 13勝 2敗 同 昭和53年 5月 東大関 14勝 1敗 同 若乃花 幹士(わかのはな かんじ) 昭和53年 7月 西横綱 11勝 4敗 昭和53年 9月 東張横 12勝 3敗 次 昭和53年11月 西横綱 15勝 優 昭和54年 1月 東横綱 11勝 4敗 昭和54年 3月 西横綱 12勝 3敗 次 昭和54年 5月 西横綱 14勝 1敗 優 昭和54年 7月 東横綱 11勝 4敗 昭和54年 9月 西張横 11勝 4敗 次 昭和54年11月 東張横 12勝 3敗 次 昭和55年 1月 西横大 11勝 4敗 昭和55年 3月 東張横 12勝 3敗 次 昭和55年 5月 西横綱 12勝 3敗 次 昭和55年 7月 西横綱 10勝 5敗 昭和55年 9月 西横綱 14勝 1敗 優 昭和55年11月 東横綱 13勝 2敗 次 昭和56年 1月 西横綱 10勝 5敗 次 昭和56年 3月 東張横 3勝 4敗8休(頸椎捻挫) 昭和56年 5月 西横大 3敗12休 (頸椎捻挫・頸椎及び頸髄損傷) 昭和56年 7月 西横大 15休 (頸椎及び頸髄損傷) 昭和56年 9月 東張横 11勝 4敗 次 昭和56年11月 東横綱 15休 (直腸周囲膿瘍) 昭和57年 1月 東張横 9勝 6敗 昭和57年 3月 東張横 11勝 4敗 次 昭和57年 5月 東張横 12勝 3敗 次 昭和57年 7月 西横綱 11勝 4敗 次 昭和57年 9月 西横綱 10勝 5敗 昭和57年11月 西横綱 15休 (痔) 昭和58年 1月 東張横 2勝 4敗 (引退) 通算 55場所 512勝234敗70休 優4同2次14殊2技4金3 | ||
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| 得意手 | 左四つ、上手投げ、外掛け | 身長 体重 | 186cm 129kg |
| 年寄名 | 若乃花→間垣[18] | ||
| 備考 | 若乃花の婿(後に解消)、三段目 若緑・貴ノ花の義理の甥(後に解消)、若乃花・貴乃花の義理の従兄(後に解消)、大豪の義理の甥(後に解消)。 実家は米穀商で、小学生の時からスキーと相撲が好きで、相撲では 3年生の大鰐地区大会で優勝してから各地区の相撲大会で活躍し、 6年生の冬休みに父に連れられて蔵前國技館で本場所を観戦したのを機に力士を志し始めた。大鰐中学校相撲部では主将として 2年生の時に県下中体連相撲大会で団体優勝を果たす活躍をし、 3年生の 6月に中学校の先輩で花籠部屋の幕下 荒 から評判を聞いて訪ねて来た二子山から勧誘され、間も無く入門した。同じ日に高谷も入門し、一緒に上京した。色白の美男で人気が有った。 非力だが懐が深く柔軟な体格で足腰が粘り強く、立ち合いに左前褌を取って寄るか、左四つで左から捻りながら右から鋭い上手投げを打つ颯爽たる取り口で外掛けも鋭く、相撲勘も良かった。立ち合いの厳しさが不足して守勢に回り勝ちで、脇も甘いので押し相撲の力士に苦戦した。 幕下の時は無理な体勢で残る場合が多く、 3回も骨折と捻挫を負った。 昭和53年 5月に横綱に推挙されたが肝臓病と痔疾に苦しみ、土俵外の話題も多くて相撲に集中できず、一時代を築けなかった。 横綱推挙伝達式での口上は「心技体の充実に務め立派な横綱になるよう精進します」。 思い出に残る取組として、昭和49年11月初日の輪島に勝った取組を挙げた。 後に理事を務めた。 「土俵−わが青春」を著した。 「泣きぼくろ」「ひとつの傘」のレコードを出した。 日本相撲協会の若乃花のページ | ||
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