| 本名 | 輪島 博 | 生年月日 | 昭和23年 1月11日 |
| 出身地 | 石川県七尾市 | 初土俵 | 昭和45年 1月 幕下 |
| 所属 | 花籠[11] | 新十枚目 | 昭和45年 5月 |
| 新入幕 | 昭和46年 1月 | ||
| 最高位 | 横綱 | 最終 | 昭和56年 3月 |
| 幕内略歴 |
輪島 博(わじま ひろし) 昭和46年 1月 西前11 9勝 6敗 昭和46年 3月 西前 5 5勝10敗 昭和46年 5月 東前12 11勝 4敗 敢 昭和46年 7月 西前 2 6勝 9敗 昭和46年 9月 東前 6 10勝 5敗 昭和46年11月 東前 1 11勝 4敗 次敢 昭和47年 1月 東小結 10勝 5敗 次殊 昭和47年 3月 西関脇 9勝 6敗 昭和47年 5月 西関脇 12勝 3敗 優殊 昭和47年 7月 東関脇 8勝 7敗 昭和47年 9月 東張関 13勝 2敗 次殊 輪島 大士(わじま ひろし) 昭和47年11月 東大関 11勝 4敗 次 昭和48年 1月 西大関 11勝 4敗 次 昭和48年 3月 東大関 13勝 2敗 次 昭和48年 5月 東大関 15勝 優 昭和48年 7月 東横綱 11勝 4敗 昭和48年 9月 東張横 15勝 優 昭和48年11月 東横綱 12勝 2敗 1休(右手人差指中指間裂傷) 優 昭和49年 1月 東横綱 12勝 3敗 次 昭和49年 3月 東横綱 12勝 3敗 優 昭和49年 5月 東横綱 10勝 5敗 昭和49年 7月 東横綱 13勝 2敗 優 昭和49年 9月 東横綱 14勝 1敗 優 昭和49年11月 東横綱 9勝 6敗 昭和50年 1月 西横大 10勝 5敗 昭和50年 3月 西横綱 4敗11休 (腰椎及び左膝関節及び左足首関節捻挫・左坐骨神経痛) 昭和50年 5月 西横綱 3敗12休 (筋膜性腰痛症) 昭和50年 7月 西横綱 15休 (同上) 昭和50年 9月 西横綱 10勝 5敗 昭和50年11月 西横綱 11勝 4敗 昭和51年 1月 西横綱 12勝 3敗 次 昭和51年 3月 西横綱 13勝 2敗 優 昭和51年 5月 東横綱 13勝 2敗 同 昭和51年 7月 東横綱 14勝 1敗 優 昭和51年 9月 東横綱 12勝 3敗 次 昭和51年11月 東横綱 13勝 2敗 次 昭和52年 1月 西横綱 13勝 2敗 優 昭和52年 3月 東横綱 12勝 3敗 昭和52年 5月 西横綱 11勝 4敗 昭和52年 7月 西横綱 15勝 優 昭和52年 9月 東横綱 10勝 5敗 昭和52年11月 西横綱 14勝 1敗 優 昭和53年 1月 東横綱 10勝 5敗 昭和53年 3月 西横綱 1勝 1敗13休(右膝関節捻挫・右膝内側側副靱帯損傷) 昭和53年 5月 西横綱 9勝 6敗 昭和53年 7月 東張横 14勝 1敗 次 昭和53年 9月 西横綱 1勝 3敗11休(急性大腸炎) 昭和53年11月 東張横 13勝 2敗 次 昭和54年 1月 西横綱 10勝 5敗 昭和54年 3月 東張横 12勝 3敗 次 昭和54年 5月 東張横 12勝 3敗 昭和54年 7月 東張横 14勝 1敗 優 昭和54年 9月 東横綱 10勝 5敗 昭和54年11月 西張横 10勝 5敗 昭和55年 1月 西張横 3敗12休 (腰痛・左手首関節捻挫後遺症) 昭和55年 3月 西張横 11勝 4敗 昭和55年 5月 東張横 11勝 4敗 昭和55年 7月 東張横 1勝 4敗10休(頸椎捻挫) 昭和55年 9月 西張横 11勝 4敗 昭和55年11月 東張横 14勝 1敗 優 昭和56年 1月 東横綱 10勝 5敗 次 昭和56年 3月 西横綱 1勝 2敗 (引退) 通算 62場所 620勝213敗85休 優14同1次14殊3敢2 | ||
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| 得意手 | 左四つ、下手投げ、寄り | 身長 体重 | 186cm 132kg |
| 年寄名 | 花籠[12](昭和60年12月 廃業) | ||
| 備考 | 大ノ海の婿(後に解消)。 理髪店の長男で、出生時は体重が4.5kgに達した。生まれながらに大物の性格を有していたのか、子供の時から「有名人に成った時の為に」と自分のサインを書く練習をしていたと伝わる。石崎小学校 3年生で近所の洋服屋の子に指導を受けて相撲を取り始めた。最初は負傷を心配する祖母から反対されたが、香取中学校 1年生で内緒のまま出場した中学校相撲の能登大会で優勝して多くの賞品を持ち帰ってからは許された。数々の大会で優勝して金沢高校から勧誘され、 1年生の時に第38回 国民体育大会(山口)で優勝して評判が高まり、各部屋から勧誘されて 2年生では大鵬が家を訪ねて来て勧誘された。しかし先生から「プロには何時でも入れる。大学へ入って自分の力を試してみろ」と言われて日本大学へ進学し、全国学生相撲選手権大会で昭和43〜44年と連続優勝して、鳴り物入りで入門した。入門したのは花籠部屋だったが、日本大学相撲部と隣接していて花籠が師範代を務めていたのが物を言った。祖母と母の猛反対を押し切っての入門だった。 肩幅が広い筋肉質の体格で運動神経が良く、低い重心と体格を生かして右で強烈に押っ附けるか絞りながら腰を入れて左下手投げを打つ取り口。組んでも離れても良く相撲勘の良さは天才的と言われ、特に小兵には強かった。土俵度胸が良く大事な一番に強い勝負強さも見せた。 初めて本場所で相撲を取った日は自分の誕生日だった。 初土俵から僅か 2場所で十枚目に昇進し、伸び切らない髪に暫くパーマネントを施したが、以後も昇進は速かった。 入門後は虐めを受けないようにと破格の特別待遇を受け、食事は花籠の家で摂り、寝室は日本大学の合宿所(後に四谷のアパート)で、部屋で稽古を終えた後は廻しを締めたまま隣の日本大学相撲部合宿所に行って身支度をする生活が許された。 史上初の本名の大関。日本大学総長の発案で下の名を「大士」に改めた。 北の湖と競い合って相撲黄金時代を築き、昭和48年 6月に横綱に推挙された。史上初の本名・学士の横綱。 横綱推挙伝達式での口上は「今後は一生懸命努力します」。 稽古量は少なかったが(本人は「一番稽古したのは高校の時」と語った)、四股の代わりにランニングを取り入れたり、如何なる時も生水を避けるのを始めとする徹底的な健康管理をした。 余り周囲の評判を気にしない派手な性格で、交友関係も各界の一流人物ばかり、生活も派手で80万円の大島紬や100万円以上の翡翠の紐飾りやスイス製腕時計を着け、700万円のリンカーン コンチネンタルで場所入りして話題に上った。 引退後は金銭問題が多く、水産会社から納入代金400万円の支払いを求めて訴えられたり、年寄名跡を担保に充てて年寄への降格処分と無期限謹慎処分を受け、昭和60年12月に廃業した(妻も自殺未遂を図った)。廃業後はプロレスラーに転向し、以後は学生援護会アメリカンフットボール部「ロックブル」の監督を務め、日本社会人アメリカンフットボール協会理事も務めた。 日本相撲協会の輪島のページ | ||
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