| 本名 | 善竹→谷口→竹内→谷口 正夫 | 生年月日 | 昭和19年 2月 5日 |
| 出身地 | 愛知県蒲郡市(旧 愛知県宝飯郡、出生地は大阪府大阪市) | 初土俵 | 昭和34年 3月 |
| 所属 | 二所ノ関[ 8]→片男波[12] | 新十枚目 | 昭和38年 9月 |
| 改名歴 | 玉乃島→玉の海 | 新入幕 | 昭和39年 3月 |
| 最高位 | 横綱 | 最終 | 昭和46年 9月 |
| 幕内略歴 |
玉乃嶋 正夫(たまのしま まさお) 昭和39年 3月 東前15 9勝 6敗 玉乃島 正夫(たまのしま まさお) 昭和39年 5月 西前 9 8勝 7敗 昭和39年 7月 西前 6 8勝 7敗 昭和39年 9月 西前 4 8勝 7敗 昭和39年11月 西前 1 9勝 6敗 昭和40年 1月 東小結 5勝10敗 昭和40年 3月 東前 3 9勝 6敗 殊金(栃ノ海・佐田の山) 昭和40年 5月 西小結 8勝 7敗 殊 昭和40年 7月 西関脇 6勝 9敗 昭和40年 9月 西前 1 7勝 8敗 金(栃ノ海) 昭和40年11月 西前 2 4勝11敗 昭和41年 1月 西前 8 13勝 2敗 次敢 昭和41年 3月 東前 1 9勝 6敗 金(佐田の山) 昭和41年 5月 西関脇 10勝 5敗 敢 昭和41年 7月 西関脇 9勝 6敗 殊 昭和41年 9月 東関脇 11勝 4敗 殊 昭和41年11月 西大関 9勝 6敗 昭和42年 1月 西大関 9勝 6敗 昭和42年 3月 西大関 7勝 8敗 昭和42年 5月 西大関 8勝 7敗 昭和42年 7月 東大関 9勝 6敗 昭和42年 9月 西大関 9勝 6敗 昭和42年11月 西大関 11勝 4敗 昭和43年 1月 東大関 12勝 3敗 次 昭和43年 3月 東大関 12勝 3敗 次 昭和43年 5月 東大関 13勝 2敗 優 昭和43年 7月 東大関 10勝 5敗 昭和43年 9月 西大関 10勝 5敗 昭和43年11月 東大関 12勝 3敗 次 昭和44年 1月 東大関 12勝 3敗 次 昭和44年 3月 東大関 10勝 5敗 昭和44年 5月 西大関 8勝 7敗 昭和44年 7月 西張大 9勝 6敗 昭和44年 9月 西張大 13勝 2敗 優 昭和44年11月 東大関 10勝 5敗 昭和45年 1月 西大関 13勝 2敗 同 玉の海 正洋(たまのうみ まさひろ) 昭和45年 3月 西横綱 13勝 2敗 次 昭和45年 5月 東張横 12勝 3敗 次 昭和45年 7月 東張横 9勝 6敗 昭和45年 9月 西横綱 14勝 1敗 優 昭和45年11月 東横綱 14勝 1敗 優 昭和46年 1月 東横綱 14勝 1敗 同 昭和46年 3月 東横綱 14勝 1敗 優 昭和46年 5月 東横綱 13勝 2敗 次 昭和46年 7月 西横綱 15勝 優 昭和46年 9月 東横綱 12勝 3敗 次 通算 46場所 469勝221敗 優6同2次9殊4敢2金4 | ||
|---|---|---|---|
| 得意手 | 突っ張り、右四つ、上手投げ、吊り、寄り | 身長 体重 | 177cm 134kg |
| 没年月日 | 昭和46年10月11日(現役中、27歳) | ||
| 備考 | 小学生で 2週間も高熱を出したが、以後は丈夫に育ち、蒲郡中学校(和晃の 1年後輩)柔道部では熱心に稽古に励み、 1年生の秋には部で敵う者が居なくなり、中学生ながら実力を認められて特例として段位認定試験を受けさせてもらい、初段を与えられた。 3年生で 2段に昇段し、東海高校から特待生として勧誘されて警察官を志したが、評判を聞いた玉乃海に校長の世話で勧誘され、母には猛反対されたが、母孝行をするべく入門した。 玉乃島の名は玉乃海と入門の世話もしてくれた養父が土地相撲で名乗った糸嶋に因んだ。 肩幅が広く胴長の体格で、運動神経が良く足腰も強かった。片男波が独立する時は幕下だったが、二所ノ関が「玉乃島だけは残して欲しい」と言った程の有望力士だった。 最初は柔道の癖で投げに拘ったので押されると弱く幕下上位で低迷したが、突っ張りと右四つの吊り寄りや豪快な上手投げを覚えて勝ち味も速くなって地力を増した。大関昇進当初は非力で体格の割に相撲が大き過ぎると評されたが、毎日1000回もの鉄砲を始めとする鍛錬を片男波に命じられて続け、体格の不利を不断の猛稽古で補って体格の特性を生かした堂々たる四つ相撲を会得し、完成寸前だった。 明朗快活な性格と笑顔で親しまれた。 大関の頃は素行が乱れ始め、或る時に門限を破って帰って片男波に殴られた。片男波は後援者に諫められたが「横綱に成れる人間だから此処で緩める事はできない」と納得してもらった。以後は門限を守り、横綱昇進後も「あの時のあれが良かったんだ」と述懐した。 親友でもあった北の富士と競い合って昭和45年 1月後に揃って横綱に推挙され、相撲黄金時代を築きかけたが、虫垂炎の手術後の退院前日に発生した右肺動脈幹血栓症で急逝して潰えた。責任感の強さから注射で抑えて土俵を勤めた無理が祟った形だったが、右四つの型が完成寸前で本格派横綱としての活躍が期待され、27歳の若さだっただけに今でも非常に惜しまれている。没は突然だったので部屋には手形が 1枚も無く、片男波は後援者に贈った10枚の中から 1枚を頼んで返してもらった。 ボウリングが好きで、或る女子プロボウラーと婚約寸前だったと伝わる。 勲四等瑞宝章が追贈された。 日本相撲協会の玉の海のページ | ||
まで