北の富士 勝昭(きたのふじ かつあき)

本名竹沢 勝昭生年月日昭和17年 3月28日
出身地北海道旭川市(出生地は北海道網走郡)初土俵昭和32年 1月
所属出羽海[ 7- 8]→九重[11]新十枚目昭和38年 3月
改名歴竹沢→竹美山→北の冨士→北の富士新入幕昭和39年 1月
最高位横綱最終昭和49年 7月
幕内略歴 北の冨士 勝明(きたのふじ かつあき)
昭和39年 1月 東前10 13勝 2敗 
昭和39年 3月 東小結  4勝11敗
昭和39年 5月 東前 5  9勝 6敗 
昭和39年 7月 西関脇  9勝 6敗
昭和39年 9月 東関脇  6勝 9敗
昭和39年11月 東前 1 10勝 5敗 
昭和40年 1月 西関脇  8勝 7敗
昭和40年 3月 西関脇  5勝10敗
昭和40年 5月 東前 3  8勝 7敗 (大鵬)
昭和40年 7月 東前 2  8勝 7敗
昭和40年 9月 東小結 10勝 5敗
昭和40年11月 東関脇  9勝 6敗
昭和41年 1月 東関脇 10勝 5敗 
昭和41年 3月 東関脇  8勝 7敗 
昭和41年 5月 東関脇 10勝 5敗 
昭和41年 7月 東関脇 10勝 5敗
昭和41年 9月 西大関 10勝 5敗
昭和41年11月 東大関 10勝 5敗
昭和42年 1月 東大関 10勝 5敗
昭和42年 3月 東大関 14勝 1敗 
昭和42年 5月 東大関  5勝10敗
昭和42年 7月 西大関  7勝 8敗
北の富士 勝明(きたのふじ かつあき)
昭和42年 9月 西張大 10勝 5敗
昭和42年11月 東大関  8勝 7敗
昭和43年 1月 東張大 10勝 5敗
北の富士 洋行(きたのふじ ひろゆき)
昭和43年 3月 西大関  9勝 6敗
北の富士 勝昭(きたのふじ かつあき)
昭和43年 5月 西張大 10勝 5敗 
昭和43年 7月 東張大 10勝 5敗
昭和43年 9月 東張大  8勝 7敗
昭和43年11月 西大関 11勝 4敗
昭和44年 1月 西大関 11勝 4敗
昭和44年 3月 西大関  9勝 6敗
昭和44年 5月 東張大  9勝 6敗
昭和44年 7月 西大関  9勝 6敗
昭和44年 9月 東張大 12勝 3敗 
昭和44年11月 西大関 13勝 2敗 
昭和45年 1月 東大関 13勝 2敗 
昭和45年 3月 東横綱 13勝 2敗 
昭和45年 5月 西横綱 14勝 1敗 
昭和45年 7月 東横綱 13勝 2敗 
昭和45年 9月 東横綱 11勝 4敗
昭和45年11月 東張横 11勝 4敗
昭和46年 1月 東張横 11勝 4敗
北の富士 勝晃(きたのふじ かつあき)
昭和46年 3月 東張横 11勝 4敗
昭和46年 5月 東張横 15勝   
昭和46年 7月 東横綱  8勝 7敗
昭和46年 9月 西横綱 15勝   
昭和46年11月 東横綱 13勝 2敗 
昭和47年 1月 東横綱  7勝 7敗1休(神経性胃炎・高血圧・慢性腸炎)
昭和47年 3月 東横綱  9勝 6敗
昭和47年 5月 東横綱  3勝 6敗6休(不眠症)
北の富士 勝昭(きたのふじ かつあき)
昭和47年 7月 東横綱 15休    (右手中指第 2関節脱臼及び捻挫)
昭和47年 9月 東横綱 15勝   
昭和47年11月 東横綱 10勝 5敗
昭和48年 1月 東横綱 10勝 5敗
昭和48年 3月 西横綱 14勝 1敗 
昭和48年 5月 東横綱  9勝 6敗
昭和48年 7月 東張横 14勝 1敗 
昭和48年 9月 西横綱  8勝 3敗4休(左第11肋骨骨折)
昭和48年11月 東張横 10勝 5敗
昭和49年 1月 東張横  3勝 6敗6休(高血圧)
昭和49年 3月 東張横 15休    (右膝関節捻挫)
昭和49年 5月 東張横 15休    (同上)
昭和49年 7月 東張横  3敗    (引退)


通算 64場所 592勝294敗62休 優10同1次3殊2敢1技3金1
得意手左四つ、外掛け、上手投げ、突っ張り身長 体重185cm 135kg
年寄名井筒[12]→九重[12]→陣幕[18](平成10年 1月 退職) 
備考父は大工で、留萌市立留萌小学校に通い、昭和28年まで全道でも屈指の強豪だった軟式野球チーム「萌友会」に所属した。留萌市立港南中学校では野球部に所属して熱中し、剛速球投手と四番打者として活躍した。旭川市立光陽中学校を卒業する頃には、増毛高校・北海高校・旭川南高校・留萌高校野球部・天塩高校レスリング部から熱心に勧誘されていて、高校へ進学してプロ野球選手を志していたが、 3年生の秋に練習のし過ぎで肩を負傷して夢を断たれた時に千代の山の旭川後援会会長や地方世話人に見出されて勧誘され、高校進学は諦めたが家業の大工は性に合わないから好きな自動車の修理工にでも就こうかと考えていたので、約 3ヶ月間を会長の家で過ごした後に上京して入門した。
新弟子検査では、青函連絡船に乗った時の船酔いで体調を崩して体重が減ってしまい、体重が不足して不合格で、自費養成力士として初土俵を踏んだ。
竹美山の名は本名の姓である竹沢と郷里の美幌町に因んだ。昭和43年 1月に姓名判断をしてもらうと「勝明」は交通事故に遭う名と言われ、「せめて外国にでも行きたいなぁ」と思って洋行に改めた。
若い時は腰高で体重も増えず前に出るだけの取り口で昇進が遅かったので、一時期は半分やる気を失い、或る時は二日酔いで稽古場に行って兄弟子達に痛め附けられた。昇進に伴って立ち合いに左で搗ち上げてから左四つで一気に寄る颯爽とした速攻の取り口に変わり、上手投げ・外掛け・肩透かしも見せたがバタ足と無用に叩く癖が有り、守勢に回ると安定性が不足して崩れ易かった。しかし華麗な取り口は美貌と相俟って人気が有った。
物事に拘らない開放的な性格と気分相撲で好不調の波が大きく、昇進も十枚目までは遅かったが、大関までは速く、横綱までは遅かった。
大関推挙伝達式での口上は「大関の名を辱めないよう頑張ります」。
昭和42年 1月後に九重出羽海部屋からの独立を申し出て一門から破門された時は悩んだ挙げ句に九重に附いて行き、直後の 3月に幕内初優勝を果たして独立に花を添えた。
遊び好きが祟って大関在位が長かったが、清國の新大関優勝に奮起して本気で稽古に励み始めた。
親友でもあった玉の海と競い合って昭和45年 1月後に揃って横綱に推挙され、相撲黄金時代を築きかけたが玉の海の急逝で潰えた。急逝の報に接した時は人目を憚らず泣いた。
土俵入りは雲龍型だったが、昭和46年 8月に秋田の巡業で、虫垂炎に罹った玉の海の代わりに不知火型の横綱土俵入りを行った。
社交性に富み、札幌や名古屋で相撲料理店「ちゃんこ北の富士」を、名古屋では栃王山と共同で開業したキャバレー「月世界」を経営したり、レコードも出して「ネオン無情」は50万枚も売れ、引退相撲では断髪後に白のタキシードを着て土俵上で歌を披露した。従来の横綱に対する印象を一変させた話題の多い横綱だった。
「爆笑大相撲」「土俵で燃えろ」「速攻管理学」を著した。
後に理事を務めたが、平成10年の理事選挙で高砂一門の候補から外されて退職した。退職後はNHK専属の相撲放送解説者を務めて切れ味鋭い解説で好評を博し、日本新相撲連盟常任理事も務めた。
日本相撲協会の北の富士のページ

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