| 本名 | 大塚 範 | 生年月日 | 昭和12年11月30日 |
| 出身地 | 大分県中津市(出生地は朝鮮民主主義人民共和国平安北道(旧 朝鮮平安北道)) | 初土俵 | 昭和35年 5月 幕下 |
| 所属 | 時津風[12] | 新十枚目 | 昭和36年 1月 |
| 改名歴 | 大塚→豊國 | 新入幕 | 昭和36年11月 |
| 最高位 | 小結 | 最終 | 昭和43年 1月 |
| 幕内略歴 |
豊國 範(とよくに すすむ) 昭和36年11月 西前 9 8勝 7敗 昭和37年 1月 西前 7 11勝 4敗 昭和37年 3月 西前 2 9勝 6敗 敢 昭和37年 5月 東張小 4勝11敗 昭和37年 7月 西前 6 9勝 6敗 昭和37年 9月 東前 2 5勝10敗 昭和37年11月 東前 7 4勝11敗 昭和38年 1月 東前13 7勝 8敗 昭和38年 3月 西前13 8勝 7敗 昭和38年 5月 西前10 6勝 6敗3休(左足首関節挫傷) 昭和38年 7月 東前14 7勝 8敗 昭和38年 9月 東前15 11勝 4敗 昭和38年11月 東前 4 7勝 8敗 金(大鵬) 昭和39年 1月 東前 5 6勝 9敗 昭和39年 3月 東前 8 8勝 7敗 昭和39年 5月 西前 4 4勝11敗 昭和39年 7月 東前11 11勝 4敗 昭和39年 9月 東前 2 4勝11敗 金(柏戸・大鵬) 昭和39年11月 西前 9 6勝 9敗 昭和40年 1月 東前12 8勝 7敗 昭和40年 3月 西前 8 10勝 5敗 昭和40年 5月 西前 2 3勝12敗 金(大鵬) 昭和40年 7月 西前 8 9勝 6敗 昭和40年 9月 西前 4 9勝 6敗 昭和40年11月 西前 1 6勝 9敗 昭和41年 1月 東前 4 8勝 7敗 昭和41年 3月 東前 3 4勝11敗 金(佐田の山) 昭和41年 5月 西前 5 10勝 5敗 昭和41年 7月 西前 1 5敗10休 (右足首関節挫傷・右脛骨末端骨折) 昭和41年 9月 西前 9 10勝 5敗 昭和41年11月 西前 1 5勝10敗 金(栃ノ海) 昭和42年 1月 東前 4 9勝 6敗 技 昭和42年 3月 東前 1 3勝12敗 昭和42年 5月 東前 9 10勝 5敗 昭和42年 7月 東前 2 5勝10敗 金(佐田の山) 昭和42年 9月 東前 7 3勝12敗 昭和42年11月 東前12 2勝13敗 通算 37場所 249勝293敗13休 敢1技1金7 | ||
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| 得意手 | 上突っ張り、押し、左四つ、寄り、引き、内掛け | 身長 体重 | 176cm 131kg |
| 備考 | 体格が大きかったので大分県立中津南高校では相撲部に所属し、主将を務めて昭和30年の国民体育大会(神奈川)などで活躍した後で母の反対を押し切って中央大学へ進学し、相撲部ではアルバイトをしながら稽古に励み、人望も篤く 3年生で主将に選ばれた。 1年生の時から井筒部屋へ稽古に行って関取達と交流を深める間に力士を志し始め、同郷の時津風に入門したいと考えた。どちらも相撲部の監督や先輩達から反対されたが押し切って 3年生の 5月に入門し、大学の卒業式には髷姿で出席した。 稽古場では目立たなかったが本場所では気力十分で力を発揮し、立ち合いに頭で当たって強烈な上突っ張りや押しで休まず攻め、思い切った引きや内掛けも見せる巧い取り口だが、四つでは力が出ず三段目級とさえ言われた。 初土俵の初日は緊張の余り呼び上げられた後に向正面ではなく正面の青房下で四股を踏み始め、伊勢ノ海 検査役に注意された。 日頃の大酒が祟って肝臓を痛め、急速に衰えた。 廃業後は大分市で相撲料理店「豊國」、民芸茶屋「五人囃子」、パブ「晴れたり曇ったり」、串揚げ料理店「串の豊」を経営した。 | ||
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