| 本名 | 納谷→住吉→納谷 幸喜 | 生年月日 | 昭和15年 5月29日 |
| 出身地 | 北海道川上郡(出生地は南樺太(旧 樺太敷香郡)) | 初土俵 | 昭和31年 9月 |
| 所属 | 二所ノ関[ 8] | 新十枚目 | 昭和34年 5月 |
| 改名歴 | 納谷→大鵬 | 新入幕 | 昭和35年 1月 |
| 最高位 | 横綱 | 最終 | 昭和46年 5月 |
| 幕内略歴 |
大鵬 幸喜(たいほう こうき) 昭和35年 1月 西前13 12勝3敗 次敢 昭和35年 3月 東前 4 7勝8敗 昭和35年 5月 東前 6 11勝4敗 敢金(朝汐) 昭和35年 7月 西小結 11勝4敗 昭和35年 9月 西関脇 12勝3敗 次技 昭和35年11月 東関脇 13勝2敗 優 昭和36年 1月 東張大 10勝5敗 昭和36年 3月 西張大 12勝3敗 次 昭和36年 5月 西大関 11勝4敗 次 昭和36年 7月 東大関 13勝2敗 優 昭和36年 9月 東大関 12勝3敗 優 昭和36年11月 西横綱 13勝2敗 優 昭和37年 1月 東横綱 13勝2敗 優 昭和37年 3月 東横綱 13勝2敗 同 昭和37年 5月 東横綱 11勝4敗 昭和37年 7月 東横綱 14勝1敗 優 昭和37年 9月 東横綱 13勝2敗 優 昭和37年11月 東横綱 13勝2敗 優 昭和38年 1月 東横綱 14勝1敗 優 昭和38年 3月 東横綱 14勝1敗 優 昭和38年 5月 東横綱 15勝 優 昭和38年 7月 東横綱 12勝3敗 次 昭和38年 9月 東横綱 14勝1敗 次 昭和38年11月 西横綱 12勝3敗 次 昭和39年 1月 東横綱 15勝 優 昭和39年 3月 東横綱 15勝 優 昭和39年 5月 東横綱 10勝5敗 昭和39年 7月 東張横 1勝4敗10休(本態性高血圧) 昭和39年 9月 西横綱 14勝1敗 優 昭和39年11月 東横綱 14勝1敗 優 昭和40年 1月 東横綱 11勝4敗 昭和40年 3月 東横綱 14勝1敗 優 昭和40年 5月 東横綱 9勝6敗 (左足首関節内骨折) 昭和40年 7月 西横綱 13勝2敗 優 昭和40年 9月 東横綱 11勝4敗 次 昭和40年11月 東張横 13勝2敗 優 昭和41年 1月 東横綱 15休 (右膝関節内障・左肘関節挫傷) 昭和41年 3月 東張横 13勝2敗 優 昭和41年 5月 東横綱 14勝1敗 優 昭和41年 7月 東横綱 14勝1敗 優 昭和41年 9月 東横綱 13勝2敗 優 昭和41年11月 東横綱 15勝 優 昭和42年 1月 東横綱 15勝 優 昭和42年 3月 東横綱 13勝2敗 次 昭和42年 5月 東横綱 14勝1敗 優 昭和42年 7月 東横綱 2勝1敗12休(左肘関節挫傷・左上腕筋肘頭附着部離断) 昭和42年 9月 東張横 15勝 優 昭和42年11月 東横綱 11勝2敗 2休(左肘関節剥離骨折) 次 昭和43年 1月 西横綱 1勝3敗11休(インフルエンザ性気管支炎・本態性高血圧) 昭和43年 3月 東張横 15休 (左膝外側側副靱帯及び左膝前十字靱帯損傷) 昭和43年 5月 西横綱 15休 (同上) 昭和43年 7月 西横綱 15休 (同上) 昭和43年 9月 西横綱 14勝1敗 優 昭和43年11月 東横綱 15勝 優 昭和44年 1月 東横綱 15勝 優 昭和44年 3月 東横綱 3勝2敗10休(急性気管支炎・扁桃腺炎) 昭和44年 5月 西横綱 13勝2敗 優 昭和44年 7月 東横綱 11勝4敗 次 昭和44年 9月 東横綱 11勝4敗 昭和44年11月 東横綱 6勝4敗 5休(左膝側副靱帯損傷) 昭和45年 1月 東横綱 15休 (左膝側副靱帯損傷・左肩鎖関節挫傷) 昭和45年 3月 東張横 14勝1敗 優 昭和45年 5月 東横綱 12勝3敗 次 昭和45年 7月 西横綱 2勝2敗11休(右足首関節捻挫) 昭和45年 9月 東張横 12勝3敗 昭和45年11月 西横綱 14勝1敗 同 昭和46年 1月 西横綱 14勝1敗 優 昭和46年 3月 西横綱 12勝3敗 次 昭和46年 5月 西横綱 3勝3敗 (引退) 通算 69場所 746勝144敗136休 優32同2次13敢2技1金1 | ||
|---|---|---|---|
| 得意手 | 左四つ、掬い投げ、上手投げ、寄り | 身長 体重 | 187cm 153kg |
| 年寄名 | 大鵬(平成17年 5月 停年退職) | ||
| 備考 | ロシア革命後に樺太へ亡命した白系ロシア人のコサック騎兵隊将校の三男、貴闘力の岳父、天津灘の義弟(後に解消)。 終戦で母や兄弟と共に樺太からの最後の引き揚げ船に乗船を許され、母の故郷である北海道に辿り着いた。弟子屈高校の定時制に通いながら弟子屈営林署で働いていたが、昭和31年 7月に二所ノ関の一行が訓子府へ巡業に来た時に元 二所ノ関部屋の紅葉山に紹介され、中途退学して入門した。 大鵬の名は漢書が好きな二所ノ関が「荘子 逍遥遊」の『鯤之大不知其千里也、化而為鳥、其名為大鵬』の一節に因んで命名した。以前から、最も有望な力士に与えようと暖めていた名だったと伝わる。郷里では摩周山の名を用意していた。 色白の長躯で均整の取れた柔軟な体格の美男。子供にも人気が有り、当時の子供が好きなものを並べた「巨人、大鵬、卵焼き」の言葉が生まれた。 前捌きが巧くて差し身が良く、諸差しか左四つでの掬い投げが多かった。相手に応じた万能で堅実な取り口は「自然体」とも「型が無い」とも評された(二所ノ関は「型が無いのが大鵬の型」と言って批判を躱した)。しかし、反り腰が無いので常に腰を引かざるを得なかった。力が附くと共に上手投げが増え、晩年は体力に自信が無くなって引きや叩きが多くなった。無類の巧さから「天才」と賞されたが、嫌って常に「儂は天才ではなく努力家」と言った。 新入幕の昭和35年 1月は初日から11連勝して注目を集め、後に共に時代を画す柏戸に連勝を止められた。当年は入幕した年ながら年間最多勝を挙げ、11月に幕内優勝を遂げた後は幕内に在った間に毎年優勝する、と何れも史上唯一の記録を残した。昇進も速く入幕して僅か 1年で大関に昇進した。 全てが好対照の柏戸と競い合って昭和30年代後半から40年代前半の相撲黄金時代を築き、昭和36年10月に揃って横綱に推挙された。 横綱推挙伝達式での口上は「横綱の地位を汚さないよう、今後も精進します」。 昭和42年頃から慈善活動を熱心に行い、自分の名を染め抜いた浴衣や手拭いの売り上げ収益と自分の寄付で、最初は老人ホームへテレビ、後には日本赤十字社へ血液運搬車「大鵬号」を全国各地に贈った。 昭和44年 5月に30回目の幕内優勝をし、業績を讃えて44年 9月初日に協会から一代年寄(停年まで有効)が贈られた。 昭和46年 5月に引退を決意し、引退届を出してから最後の一番を取ろうと思っていたが、公に知られてしまったので許されなかった。 後に理事を務めた。 停年退職後は相撲博物館館長を務めた。 「大鵬自伝」「巨人、大鵬、卵焼き」を著した。 昭和52年に脳梗塞で倒れたが必死の努力で復帰し、平成12年 5月には國技館で赤い綱を締めて還暦土俵入り(露払い九重・太刀持ち北の湖)を行った。 日本相撲協会の大鵬のページ | ||
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