| 本名 | 花田 勝治 | 生年月日 | 昭和 3年 3月16日 |
| 出身地 | 北海道室蘭市→青森県弘前市(旧 青森県中津軽郡、出生地) | 初土俵 | 昭和21年11月 |
| 所属 | 二所ノ関[ 7- 8]→芝田山[ 8]→花籠[11] | 新十枚目 | 昭和24年 5月 |
| 改名歴 | 若ノ花→若乃花 | 新入幕 | 昭和25年 1月 |
| 最高位 | 横綱 | 最終 | 昭和37年 5月 |
| 幕内略歴 |
若ノ花 勝治(わかのはな かつじ) 昭和25年 1月 西前18 11勝 4敗 次敢 昭和25年 5月 東前 9 10勝 5敗 昭和25年 9月 東前 4 4勝11敗 昭和26年 1月 東前 7 11勝 4敗 敢 昭和26年 5月 東前 1 8勝 7敗 金(羽黒山) 昭和26年 9月 東小結 7勝 8敗 昭和27年 1月 西張小 5勝10敗 昭和27年 5月 西前 4 5勝10敗 昭和27年 9月 西前 9 10勝 5敗 昭和28年 1月 西前 3 8勝 7敗 金(羽黒山・東富士・千代ノ山) 昭和28年 3月 東前 1 8勝 7敗 金(千代ノ山) 昭和28年 5月 東前 1 8勝 7敗 金(東富士) 昭和28年 9月 西小結 8勝 7敗 昭和29年 1月 西関脇 8勝 7敗 殊 昭和29年 3月 東関脇 9勝 6敗 昭和29年 5月 東関脇 9勝 6敗 昭和29年 9月 西関脇 11勝 4敗 殊 昭和30年 1月 東関脇 7勝 7敗1分 昭和30年 3月 西関脇 10勝 4敗1分 昭和30年 5月 西関脇 8勝 7敗 昭和30年 9月 西関脇 10勝 4敗1分 技 昭和31年 1月 東張大 13勝 2敗 次 昭和31年 3月 東大関 12勝 3敗 同 昭和31年 5月 東大関 12勝 3敗 優 昭和31年 9月 東大関 12勝 2敗1休(扁桃腺炎) 次 昭和32年 1月 東大関 11勝 4敗 昭和32年 3月 東大関 10勝 5敗 昭和32年 5月 東大関 11勝 4敗 若乃花 勝治(わかのはな かつじ) 昭和32年 9月 東大関 11勝 4敗 昭和32年11月 東大関 12勝 3敗 次 昭和33年 1月 東大関 13勝 2敗 優 昭和33年 3月 東張横 12勝 3敗 次 若乃花 幹士(わかのはな かんじ) 昭和33年 5月 西横綱 11勝 4敗 昭和33年 7月 東張横 13勝 2敗 優 昭和33年 9月 東横綱 14勝 1敗 優 昭和33年11月 東横綱 12勝 2敗1分 次 昭和34年 1月 東横綱 14勝 1敗 優 昭和34年 3月 東横綱 12勝 3敗 昭和34年 5月 東張横 14勝 1敗 優 昭和34年 7月 西横大 11勝 4敗 昭和34年 9月 西横大 14勝 1敗 優 昭和34年11月 東横綱 11勝 4敗 昭和35年 1月 西横綱 3敗12休 (気管支肺臓炎・蓄膿症) 昭和35年 3月 東張横 15勝 優 昭和35年 5月 東横綱 13勝 2敗 次 昭和35年 7月 東横綱 13勝 2敗 優 昭和35年 9月 東横綱 13勝 2敗 優 昭和35年11月 東横綱 5勝 4敗6休(腰椎捻挫) 昭和36年 1月 西横綱 12勝 3敗 次 昭和36年 3月 東横綱 15休 (気管支炎) 昭和36年 5月 西横綱 10勝 5敗 昭和36年 7月 東横綱 3勝 4敗8休(左肩胛関節炎) 昭和36年 9月 西横綱 10勝 5敗 昭和36年11月 東横綱 11勝 4敗 昭和37年 1月 東横 2 11勝 4敗 昭和37年 3月 西横綱 2敗13休 (急性肝臓炎・気管支炎・腰椎炎) 昭和37年 5月 東張横 引退 通算 57場所 546勝235敗4分55休 優10同1次8殊2敢2技1金6 | ||
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| 得意手 | 左四つ、上手投げ、右四つ、呼び戻し | 身長 体重 | 179cm 105kg |
| 年寄名 | 二子山[10]→藤島[13](平成 5年 3月 停年退職) | ||
| 備考 | 幕下 若剛志の父、三段目 若緑・貴ノ花の兄、若乃花・貴乃花の伯父、武ノ里の又従姉の子、大豪の義兄、若乃花の岳父(後に解消)、三段目 峯ノ越の義理の甥。 広大な林檎園の長男だったが昭和 9年の室戸台風で林檎が全滅し、一家は仕事を探して室蘭市へ移った。商船会社に沖仲仕として勤務し、従軍で負った古傷で思う様に働けない父に替わって沖仲仕として働き、一家を支えた。仕事の内容は室蘭港で50貫の荷物を担いで足場の悪い艀を歩いて運ぶもので、大人達の 3倍以上の量を運んだ。他にも室蘭駅で普通は 4人掛かりで行う貨車の切り離しを 1人で行い、こうした労働で足腰と膝の力や均衡感覚が養われた。 昭和21年の夏に佐賀ノ花の一行が室蘭へ巡業に来た時に飛び入りして勝ち、以前から目を掛けられていた土地相撲の男岩に大ノ海を紹介され、勧誘されて入門した。実家では稼ぎ手を失うので猛反対されたが、「逃げ出してでも入門する」と言ったので父も諦め、「 3年で物にならなかったら返す」との条件附きで入門を承諾させた。 足腰が強く、足が俵に掛かると梃子でも動かず踵に目が有ると言われた。膝の弾力と怪力を生かした技は豪快で切れ味が鋭く、軽量ながら大兵にも胸を合わせて真っ向から勝負し、不得手の右四つにも平気で組みに行く大胆不敵な取り口で強味を見せた。 小部屋・小兵の不利を猛稽古で補い、出稽古には行かなかった代わりに部屋の若い者達と相当な番数をこなした。若い時は力道山に可愛がられ、伊勢の巡業での稽古では思わず力道山の足に噛み附き、稽古場から逃げ出して川に飛び込んだ。 昇進が速かった。 十枚目に昇進した時に飲んでいて金が不足し、近くの店に居た東冨士の所へ附け人を遣って借りに行かせたのが問題視されて除名されかけたが、羽黒山の取り成しで免れた。 昭和時代生まれで最初の幕内力士。 昭和28年 1月に史上初めて 1場所で 3個の金星を獲得した。 栃錦と競い合って昭和30年代前半の相撲黄金時代を築いた。 昭和30年 9月後に大関に推挙されたが、推挙されるとは思っておらず旅行に出かけようとしていて、駆け附けた報道陣から聞かされて初めて推挙を知った。成績としては物足りなかったが、11日目に千代の山と合計17分以上も取って引き分けたのを理由に出羽海が推薦し、推挙が決定したと伝わる。 昭和31年 5月に初優勝した時は、歴史が浅い小部屋だったので優勝行進の準備が遅れ、後援会事務局長や若者頭 昭錦がバスやオープンカーを手配し始めたのは千秋楽幕内取組の後半に入ってからで、なかなか予約できず最後は後援会会長に頼み込んで漸く手配したものの、行進の道順も決まっておらず、新序出世力士の手打ち式で胴上げされている花籠と殆ど言葉を交わさずに打ち合わせると言った混乱振りだった。そして行進では初めて賜盃が両国を離れ、青梅街道を通って阿佐ヶ谷の部屋へ着いたが、大変な混雑で装甲車も出動した程だった。日頃胸を借りていた日本大学相撲部員も恩返しに交通整理に当たった。 昭和31年 9月前に長男が部屋の ちゃんこ鍋の熱湯を浴びて大火傷で亡くなる事故に遭い、首に長い数珠を掛けて場所入りした。当場所は何かが取り憑いたかの様に初日から12連勝したが、12日目に扁桃腺炎に罹って高熱を出したので13日目は休場し、熱が下がったので出場しようとしたものの再び高熱を出して千秋楽も休場してしまった。 昭和33年 2月に横綱に推挙された。昭和時代生まれで最初の横綱。横綱が衰えた時は引退の道しか残されていないので、自分が支えている家族の生活を考えると推挙を受けるべきかどうか悩んだと伝わる。 自分の三つ揃いの化粧廻しが完成するまでは先輩横綱から借りて間に合わせるのが通例だが、一門では20年振りの横綱昇進だったので目途が立たず困っていると、時津風が貸してくれたので事無きを得た。 昭和34年 2月に横田基地の司令官に招待されてジェット複座練習機T33に搭乗し、富士山から大島を周回した。相撲関係者では空前絶後の事と思われる。 引退後は 2横綱 2大関を始めとする多くの幕内力士を輩出した。 昭和63年 4月に國技館で赤い綱を締めて還暦土俵入り(露払い鳴戸・太刀持ち間垣)を行った。 後に理事長を務め、立ち合いの正常化等を実施した。 停年退職後は相撲博物館館長を務めた。 「心技体」「心技体入門」「人生一本勝負」「人間、辛抱だ」「相撲」「貴ノ花に賭けた」「厳しく美しい土俵」「大相撲の世界」「大相撲ものしり博士」「人間直言」等を著した。 平成 3年11月に紫綬褒章を受章した。 日本相撲協会の若乃花のページ | ||
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