| 本名 | 池田 潤之輔 | 生年月日 | 大正 9年 4月 3日 |
| 出身地 | 北海道石狩市(旧 北海道厚田郡) | 初土俵 | 昭和13年 5月 |
| 所属 | 高嶌(高嶋)[ 8- 9] | 新十枚目 | 昭和18年 1月 |
| 改名歴 | 北糖山→吉葉山 | 新入幕 | 昭和22年11月 |
| 最高位 | 横綱 | 最終 | 昭和33年 1月 |
| 幕内略歴 |
吉葉山 潤之輔(よしばやま じゅんのすけ) 昭和22年11月 東前13 8勝 3敗 昭和23年 5月 東前 7 8勝 3敗 昭和23年10月 東前 2 5勝 6敗 金(照國) 昭和24年 1月 東前 3 7勝 6敗 昭和24年 5月 東前 3 2勝13敗 昭和24年10月 東前10 10勝 5敗 昭和25年 1月 東前 3 10勝 5敗 殊金(照國) 昭和25年 5月 東前 1 10勝 5敗 殊 昭和25年 9月 東張関 13勝 2敗 同殊 昭和26年 1月 東関脇 13勝 2敗 次 昭和26年 5月 西大関 10勝 5敗 昭和26年 9月 東大関 9勝 5敗 1分 昭和27年 1月 西大関 12勝 3敗 昭和27年 5月 東大関 10勝 5敗 昭和27年 9月 西大関 12勝 3敗 次 昭和28年 1月 西大関 6勝 3敗 6休(右足首関節捻挫) 昭和28年 3月 西大関 10勝 5敗 昭和28年 5月 西大関 14勝 1敗 次 昭和28年 9月 東大関 11勝 4敗 昭和29年 1月 東大関 15勝 優 昭和29年 3月 西横綱 15休 (急性腎臓炎・糖尿病) 昭和29年 5月 西張横 1敗14休 (左足首関節捻挫) 昭和29年 9月 西張横 11勝 4敗 昭和30年 1月 西横 2 5勝 2敗 8休(右足首関節捻挫) 昭和30年 3月 東張横 3勝 2敗10休(左人差指中基部裂傷) 昭和30年 5月 西張横 2敗13休 (左足首関節捻挫) 昭和30年 9月 西張横 9勝 6敗 昭和31年 1月 東張横 9勝 6敗 昭和31年 3月 西横綱 11勝 4敗 次 昭和31年 5月 東横綱 8勝 7敗 昭和31年 9月 東張横 12勝 3敗 次 昭和32年 1月 西横綱 10勝 5敗 昭和32年 3月 東張横 3勝 3敗 9休(左足リスフラン関節捻挫) 昭和32年 5月 西張横 5勝 6敗 4休(左足首関節捻挫・左膝関節打撲) 昭和32年 9月 東張横 9勝 6敗 昭和32年11月 西横綱 11勝 4敗 昭和33年 1月 西横綱 3勝 6敗 6休(引退) 通算 37場所 304勝151敗1分85休 優1同1次5殊3金2 | ||
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| 得意手 | 突っ張り、喉輪押し、左四つ、寄り、上手捻り、投げ | 身長 体重 | 179cm 143kg |
| 年寄名 | 吉葉山→宮城野[ 8] | 没年月日 | 昭和52年11月26日(57歳) |
| 備考 | 鰊漁の網元の三男、陸奥嵐の妻の養父(後に離縁)。 大きな体で腕力が強かった家族の中でも特に大きかった。幼い時は裕福だったが不漁が 3年続いて家業が倒産し、高等小学校を卒業して帯広の北海道製糖に勤務したが、学歴が無いので技術を会得するべく単身で上京した。上野駅に着くと 2人の力士が待っていて、何故か彼らに高嶌部屋へ連れ込まれた。彼らは青森から来る予定の新弟子(上京を中止していた)を待っていたのだが、大きな体の池田少年を見て新弟子と間違えたのだった。 北糖山の名は北海道製糖に因んだ。 色白で均整の取れた体格と市川 右太衛門に似た美貌に加えて明るく磊落な性格で人気を集めた。 怪力と巨躯を生かして猛突っ張りと喉輪押しから相手を組み止めて鋭く捻伏せる豪快な取り口だが、腰高で蹴手繰りも見せた。 昭和13年の暮れに悪性虫垂炎に罹ったが、吉葉 庄作 博士の治療で無事に回復し、恩に報いるべく吉葉山と改名した。 十枚目に昇進する直前で応召し、 4年間も各地を転戦させられる間に貫通銃創を負って一時は戦死も伝えられ、部屋の人別からも外された。昭和21年 6月に帰還したが酷く痩せており、部屋の玄関に着いた時には幽霊と間違えられたと伝わる。以後は食べまくって稽古に励み、復調への道を歩んだ。 史上初の殊勲賞連続受賞力士。 小部屋で番附運が無く対戦も不利だった上に銃創の後遺症に悩まされて悲運の力士として同情と声援を集めたが、昭和29年 1月に全勝優勝して横綱昇進を決定附け、大雪の中での優勝行進は「雪の全勝行進」と言われた。従軍経験が有ったので元軍人達の人気が高かったが、当時は絶頂を極め、祝宴続きで体調を崩して新横綱の場所を全休してしまった。以後も優勝はできず、贔屓の引き倒しを食った格好だった。 後進の指導に熱心で、現役中に総檜造りの「吉葉山道場」を設立した。 在職中の昭和34年 5月から銀座で相撲料理店「吉葉」を経営した。 東北訛に加えて扁桃腺増殖性肥大症を患ったので声の聞き難さでは有名で、昭和43年に審判長が物言い協議の説明を行うと決められた時には心配されたが、良い機会だと思って手術を受け、事無きを得た。 後に理事を務めた。 従五位勲四等旭日小綬章が追贈された。 日本相撲協会の吉葉山のページ | ||
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