力道山 光浩(りきどうざん みつひろ)

本名金 信洛→金村→百田 光浩生年月日大正13年11月14日
出身地長崎県大村市(旧 長崎県東彼杵郡、出生地は朝鮮民主主義人民共和国咸鏡南道(旧 朝鮮咸鏡南道))初土俵昭和15年 5月
所属二所ノ関[ 7]新十枚目昭和19年11月
 新入幕昭和21年11月
最高位関脇最終昭和25年 9月
幕内略歴 力道山 光浩(りきどうざん みつひろ)
昭和21年11月 西前17  9勝 4敗
昭和22年 6月 東前 8  9勝 1敗 
昭和22年11月 東前 3  6勝 5敗
昭和23年 5月 東前 2  8勝 3敗 殊金(照國)
昭和23年10月 東小結  6勝 5敗
昭和24年 1月 西小結  8勝 5敗
昭和24年 5月 西関脇  3勝12敗
昭和24年10月 西前 2  8勝 7敗 (東冨士)
昭和25年 1月 西小結 10勝 5敗
昭和25年 5月 西関脇  8勝 7敗
昭和25年 9月 西関脇 15休(廃業)


通算 11場所 75勝54敗15休 同1殊1金2
得意手突っ張り、右四つ、吊り、上手投げ身長 体重176cm 116kg
 没年月日昭和38年12月15日(39歳)
備考子供の時から体格が逞しくて力も強いので評判に上り、玉ノ海の父から近所で世話してもらっていた縁で勧誘され、上京して入門した。
力道山の名は二所ノ関部屋に飾られた近衛 文麿の揮毫「力心一道」に因んだ。
玉ノ海に「お前の気性から言っても力から言っても突っ張りが向いている」と勧められて突き押し一本槍で取り始め、顎を目掛けての張り手を交えた猛突っ張りから怪力を生かした強引な吊りや上手投げを始めとする荒削りだが闘志に溢れる取り口で人気が有った。
前田山に対して 3場所連続で不戦勝を挙げた。
昭和25年 9月の番附発表日に突然として髷を切って25歳の若さで廃業した。部屋経営について二所ノ関と意見が合わなかったのが原因とも伝わる。後に現役復帰の話が持ち上がったが実現せず、東冨士の後援者が経営する新田建設に資財部長として勤務した後で、26年の秋に日系プロレスラーのハロルド坂田に勧誘されてプロレスラーに転向した。レスラーとしては空手チョップを武器に外国レスラーを倒して国民を熱狂させ、プロモータとしても日本プロレスの設立を始めとして活躍し、プロレス界のスターとして不動の地位を築いた。
昭和28年 9月に優勝した東富士の優勝行進で東富士が乗るオープンカーを運転した。個人優勝者がオープンカーで優勝行進を行った走りである。
「力道山自伝 空手チョップ世界を行く」を著した。
赤坂のキャバレーで暴力団員に腹部を刺された傷が元で没した。

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