玉錦 三右エ門(たまにしき さんえもん)

本名西ノ内 彌寿喜生年月日明治36年12月15日(戸籍上は11月15日)
出身地高知県高知市初土俵大正 8年 1月
所属二所ノ関[ 5]→粂川[ 7]→二所ノ関[ 6]新十枚目大正14年 1月
 新入幕大正15年 1月
最高位横綱最終昭和13年 5月
幕内略歴 玉錦 三右エ門(たまにしき さんえもん)
大正15年 1月 西前13  8勝3敗
大正15年 5月 東前 6  5勝6敗
昭和 2年 1月 西前 3  6勝5敗
昭和 2年 3月 西前 3  6勝4敗1休(太刀光の休場) (宮城山)
昭和 2年 5月 西前 1  6勝4敗1休(星甲の休場)
昭和 2年10月 東前 1  6勝4敗1分
昭和 3年 1月 東張小  8勝3敗
昭和 3年 3月 西張小  6勝4敗1分
昭和 3年 5月 西関脇  9勝2敗
昭和 3年10月 西関脇  6勝5敗
昭和 4年 1月 東関脇 10勝1敗
昭和 4年 3月 東関脇  9勝2敗
昭和 4年 5月 東関脇  9勝2敗
昭和 4年 9月 東関脇  7勝4敗
昭和 5年 1月 東関脇  9勝2敗
昭和 5年 3月 東関脇  8勝3敗
昭和 5年 5月 西張大  9勝2敗
昭和 5年10月 西張大  9勝2敗
昭和 6年 1月 東大関  9勝2敗
昭和 6年 3月 東大関 10勝1敗
昭和 6年 5月 西大関  8勝3敗
昭和 6年10月 西大関  9勝2敗
昭和 7年 2月 東大関  7勝1敗
昭和 7年 3月 東大関  8勝2敗
昭和 7年 5月 東大関 10勝1敗
昭和 7年10月 東大関  7勝4敗
昭和 8年 1月 東横綱  9勝1敗1分
昭和 8年 5月 東横綱 10勝1敗
昭和 9年 1月 東横綱 11休   (左手親指突指)
昭和 9年 5月 東横綱  9勝2敗
昭和10年 1月 東横綱 10勝1敗
昭和10年 5月 東横綱 10勝1敗
昭和11年 1月 東横綱 11勝
昭和11年 5月 東横綱 10勝1敗
昭和12年 1月 東横綱  6勝1敗4休(左上膊骨骨折)
昭和12年 5月 東横綱  9勝4敗  (発熱)
昭和13年 1月 東横綱 10勝3敗
昭和13年 5月 西横綱 10勝3敗


通算 38場所 308勝92敗3分17休 金1
得意手右四つ、寄り、吊り身長 体重173cm 139kg
年寄名二所ノ関[ 6]没年月日昭和13年12月 4日(現役中、34歳)
備考農家の長男で子供の時から勝ち気が強く相撲と喧嘩が好きだった。小学校を卒業して郷里の有名な土佐玉の本家「井上」に奉公したが、大正 5年に太刀山の一行が高知へ巡業に来た時に同郷の土州山を見て憧れ、力士を志して大反対する父を店の主人に説得してもらって同郷の二所ノ関に入門した。しかし165cm 67kgで体格規定に達せず初土俵が遅れた。
大正 6年に稽古場で太刀山が「儂を背負って土俵を 1回りしたら米 1俵を遣る」と言ったのを聞いて挑戦し、 1回目は失敗したが 2回目で成功して驚かせた。
玉錦の名は、二所ノ関の妻の おたま と、入門した頃に横綱昇進を果たした大錦と、丸々と太っていた体格に因んだと伝わる。
短躯を特急列車「つばめ」に喩えられる程の速攻で補い、腹を生かしての吊りも見せた。八百長が嫌いで勝負本位の相撲を取ったので大衆的人気には乏しかった。
桁外れの稽古熱心で、夜中の 3時から稽古を始める程だった。小部屋だったので最初は回向院の共同稽古場で相手構わず稽古し、出羽ノ海部屋に預けられると栃木山に稽古を附けられ、反対陣営へ回された後は立浪部屋へ出稽古に行って(目と鼻の先なのにタクシーで乗り附けた)双葉山に稽古を付けた。立浪部屋への出稽古では最初は誰も起きていなかったので門を叩いて部屋の者を叩き起こしたと伝わる。稽古方法も荒っぽく、生傷が絶えなかった。こうした猛稽古は後に部屋の伝統とされた。
若い頃は両国界隈のやくざ達と喧嘩や博打に明け暮れたりする悪い素行から、好成績を挙げながらも大関や横綱に昇進できず、出羽海の所為だと腹を立て、日本刀を持って大暴れした。しかし地位が上昇するに伴い人格が陶冶されて相撲界の人傑に数えられた。
昭和 7年11月に吉田司家から横綱免許が授与された。昭和時代で最初の横綱。華麗な土俵入りは動く錦絵と絶賛された。
昭和11年 5月に双葉山が全勝で初優勝を遂げた時には立浪部屋に駆け附けて祝福する貫禄を見せた。部屋こそ違えど自分が稽古を付けて来た愛弟子だったからでもあった。
親分肌の侠気を具え、稽古場も無かった小部屋を一代で大きくして多くの俊英力士を輩出し、二所ノ関一門の繁栄の礎を築いた。弟子思いで面倒見が良く、稽古熱心な力士には部屋に関係無く稽古を付け、支度部屋でも親しまれた。
朝が来ると神棚に灯明を上げたが、灯が途中で消えると再び廻しを附けて稽古を始め、再び灯明を上げたと伝わる。
妻に相撲茶屋「河平」(現在の國技館サービス株式会社16号)を経営させた。
宮崎から大阪へ向かう途中の船内で虫垂炎を起こしたが、船員側が気を利かせて途中の今治で医師を待機させても「冷え腹に違いない」と上陸せず、附け人達に蒸しタオルで力一杯揉ませて凌いだ。到着地の天保山には 2時間も早く着いたので無電で連絡した寝台自動車は来ておらず、待つようから勧められたが断って歩いて下船し、宿へ行った。阪大の岩永 博士が駆け附けて診察すると、一刻を争う容態だったのに驚き、間も無く日赤病院へ運ばせた。既に虫垂炎から腹膜炎を併発していて少し風邪にも罹っていた。大人しく指示に従っていれば助かったかもしれないが、水を飲ませてもらえないと氷嚢を破って氷を噛み砕くわ、浴衣を掛けても撥ね除けるわで、附き添った 7人の看護婦達が近づくのを恐れる程で、これでは治る病気も治らず、生来の勝ち気が仇と成って没してしまった。二所ノ関を襲名してから初めての勧進元を務める大阪興行の初日の翌日だった。最後の声は附け人達への「おい、相撲だ。廻しはどうした」だったと伝わる。現役力士としては史上初の協会葬で手厚く送られた。

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