栃木山 守也(とちぎやま もりや)

本名横田→中田 守也生年月日明治25年 2月 5日
出身地栃木県栃木市(旧 栃木県下都賀郡)初土俵明治44年 2月
所属出羽ノ海(出羽海)[ 4- 6]新十枚目大正 3年 1月
 新入幕大正 4年 1月
最高位横綱最終大正14年 5月
幕内略歴 栃木山 守也(とちぎやま もりや)
大正 4年 1月 東前16  8勝2敗
大正 4年 6月 東前 2  5勝4敗1分 ()
大正 5年 1月 東前 1  7勝3敗   ()
大正 5年 5月 東小結  6勝3敗1休
大正 6年 1月 西関脇  6勝3敗1休
大正 6年 5月 西大関  9勝1預
大正 7年 1月 東大関 10勝
大正 7年 5月 東張横  9勝1敗
大正 8年 1月 東横綱  9勝1休   (朝潮の休場)
大正 8年 5月 東横綱 10勝
大正 9年 1月 東横綱  8勝2敗
大正 9年 5月 西張横  8勝1分1預
大正10年 1月 西張横  9勝1預
大正10年 5月 東張横  9勝1敗
大正11年 1月 東張横  8勝1敗1預
大正11年 5月 西横綱  7勝1敗1分1休(杉の休場)
大正12年 1月 東張横  8勝1敗1分
大正12年 5月 西横綱  1勝1分9休  (感冒・右肩関節負傷)
大正13年 1月 西横綱  9勝1分
大正13年 5月 東張横 10勝1敗
大正14年 1月 東張横 10勝1分
大正14年 5月 西張横 11休     (引退)


通算 22場所 166勝23敗7分4預24休 金2
得意手筈押し身長 体重172cm 104kg
年寄名春日野[ 8]没年月日昭和34年10月 3日(67歳)
備考行司 木村 宗四郎[ 2]の養子、栃錦の夫婦養父(没後)。
実家は農家で、子供の時から家業を手伝い漢学塾に通いながら、宮相撲で活躍した。生家の近くの星宮神社境内に置かれた手洗石(30貫以上)を抱えて両手で差し上げたのが力士を志す動機だったと伝わる。小常陸に手紙を出したのが元で入門を許されたが、父に猛反対されたので無断で上京した。
新弟子の時に宇都宮に伴われて汽車で巡業地へ行った時に、品川の辺りを通ると海を見て「でっかい川だなぁ」と目を見張ったと伝わる。初めて海を見たからだったのだが、宇都宮は当時の話を後々も笑い話の種にした。
昇進が速かった。
怪力を生かして右から絞りながら左を浅く覗かせて返し、腰を割って見事な摺り足で押す理詰めの堅実な取り口で、残されれば掬い投げや突き落としも見せた。廻しは取りもしないが取らせもせず、取られれば必ず怪力で切ってから攻めた。生来は左利きだったが、「得意の左を利かせる為には右を強くしろ」と若者頭 雷ヶ浦に指導を受け、それを忠実に守って右の強化に努めたので更に強味を増した。
大正 5年 5月 8日目に 4年間も無敗の太刀山に勝った時には、国技館は大鉄傘を揺るがす大騒ぎで、花道を下がる時には背中に100円札 2枚が張り附けられた。支度部屋へ贔屓が大挙して集まったので外に出られず窓から脱出したと伝わる。当夜に築地の待合きさくで客から500円、桔梗屋で駿河台の田村から1000円、木挽町の山口で東京倶楽部の連中から1000円、築地の東屋で500円、赤坂の永楽で井口から約2000円を貰って結局12000円に達したが、場所後に仲間を引き連れて 3日で使い果たした。
大正 7年 2月に吉田司家から横綱免許が授与された。歴代の横綱で最も軽量。
目立った衰えを見せないまま 3場所連続で最優秀成績を挙げた後の大正14年 5月の初日直前に引退を表明した。協会は慰留したが「力が衰えてから辞めるのは本意ではない。今が華だと思うから」と語って受け入れなかった。引退の理由について多くを語らなかったので、自分の頭に対する野次を気にしたとか、最優秀成績を挙げ続けながら張出横綱に据えられたのを不満にした、と様々な憶測が流れた。
引退後は欧米旅行に出かけ、パリでは藤田 嗣治の絵のモデルとなったり競馬を楽しみ、ニューヨークではボクサーやレスラーとも会い、太平洋沿岸では在住の邦人に相撲を指導した。
昭和 6年 6月の第 1回 大日本力士選士権大会に年寄として出場し、並み居る現役の猛者連を破って優勝した。
或る雨の日に巡業地の駅の端に三角の山にして積んであった米俵(16貫)を、左手で傘を持って高下駄を履いたまま右手で縄を掴み、真ん中の俵を引き抜いたまま肘も曲げずに差し上げて再び元に差し込んだ。
戦後の或る日に無礼講の酒の席で山科に絡まれ、最初は酒の席だからと取り合わずに笑っていたが余りにしつこいので、「何ぃ!鐘!」と言うや、 3本指で襟の合わせ目を掴んで10mほど引き擦って行き、120kg以上もある山科を表に放り出した。
昭和27年 5月に蔵前仮設國技館で行われた児童福祉基金募集大相撲で赤い綱を締めて還暦土俵入り(露払い藤嶋・太刀持ち羽黒山)を行った。
昭和30年代の或る日に、栃光と附け人が動かそうとして難儀していた大火鉢を 1人で運んでしまった。
温厚で、信頼が厚く人望も集めた。
後に取締を務めた。
相撲界で初の叙勲として勲四等瑞宝章が追贈された。

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