太刀山 峯右エ門(たちやま みねえもん)

本名老本 弥次郎生年月日明治10年 8月15日
出身地富山県富山市(旧 石川県婦負郡)初土俵明治33年 5月 幕下
所属友綱[ 6]新十枚目明治35年 1月
 新入幕明治36年 1月
最高位横綱最終大正 7年 1月
幕内略歴 太刀山 峯右エ門(たちやま みねえもん)
明治36年 1月 東前 9            6勝3敗1休
明治36年 5月 東前 2            4勝4敗1分1休
明治37年 1月 東前 2            7勝2敗1休
明治37年 5月 東前 1( 4日目まで西方出場)  8勝1敗1休
明治38年 1月 東前 1            7勝1敗1預1休
明治38年 5月 東関脇            5勝2敗1分2休
明治39年 1月 東関脇            7勝2敗1休
明治39年 5月 東関脇            4勝1敗5休(胃腸病)
明治40年 1月 東関脇            5勝1敗1分3休
明治40年 5月 東関脇            8勝1敗1休
明治41年 1月 東関脇            6勝2敗1預1休
明治41年 5月 東関脇            7勝1敗1分1休
明治42年 1月 西関脇            6勝1敗1分2休
明治42年 6月 西大関            8勝2敗
明治43年 1月 西大関            6勝2分1預1休
明治43年 6月 西大関            9勝1分
明治44年 2月 西大関            8勝1分1預
明治44年 6月 西横綱           10勝
明治45年 1月 東横綱            8勝1敗1分
明治45年 5月 西横綱           10勝
大正 2年 1月 西横綱           10休   (感冒)
大正 2年 5月 東横綱           10勝
大正 3年 1月 東横綱           10勝
大正 3年 5月 西横綱            8勝1預1休(小常陸の休場)
大正 4年 1月 西横綱           10休   (右手親指負傷)
大正 4年 6月 西横綱           10勝
大正 5年 1月 西横綱           10休   (右足部疾患)
大正 5年 5月 西横綱            9勝1敗
大正 6年 1月 東横綱            9勝1敗
大正 6年 5月 東横綱           10休   (右足部関節炎・左足リューマチ及び脚気)
大正 7年 1月 西横綱           10休   (右足部捻挫)


通算 31場所 195勝27敗10分5預73休
得意手突っ張り、呼び戻し、小手投げ身長 体重185cm 139kg
年寄名東関[ 7](大正 8年 5月 廃業)没年月日昭和16年 4月 3日(63歳)
備考製茶業を営む農家の次男。
生来の怪力を以て茶を揉むので優れた茶が作られ、老本家の茶は品評会で常に一等だった。
徴兵検査での体格と怪力が地元新聞に紹介され、評判を聞いた友綱が入門を勧めたが、自分は相撲に興味が無く、実家も長男を早く失っているので猛反対された。諦め切れない友綱は後援者の板垣 退助に頼み、内務大臣 西郷 従道・県知事・郡長・警察署長を動員して強引に入門させた。
太刀山の名は板垣 退助が「常陸山に迫れ」との願いを込め、郷里の名峰である立山に因んで命名した。
明治44年 2月に吉田司家から横綱免許が授与された。明治時代で最後の横綱。現在「不知火型」と呼ばれる横綱土俵入りの型を完成させた。
堂々たる筋肉質の体格と怪力で明治末期から大正前期に無敵を誇り、諸手突きからの突っ張りは「四十五日(←一月半←一突き半)」と、捕まえて相手を仰向けに引っ繰り返す派手で強烈な呼び戻しは「仏壇返し(菊人形の仕掛け)」との異名で恐れられたが、相手に相撲を取らせない辛辣な取り口として批判もされた。
大正 2年 7月の上海興行の初日前に20余人のインド人が試合を申し込んで来たが、外国で外国人に負傷させては面倒だからと断ったが、強いてと言うので激しい稽古を見せた。太刀山は強さを試してみようとして数人のインド人の腕を掴むと顔を顰めて逃げてしまった。それでもインド人との試合の評判が立ち、上海の邦字新聞は号外を出して、見物客で満員に成ったが、インド人達は 1人も姿を見せなかった。
大正 2年10月に熊本の肥後相撲館が開館した時に同所で東西合併大相撲を行ったが、 8日目に東西協会から500円の懸賞附きで関脇以下10人掛かりを行い、全く問題にせず全員を退けた。
土俵の真ん中に 1m程の丸を書いて「この丸から俺を押し出す奴が居たら10円遣るぜ!」と仁王立ちで辺りを見回し、名だたる幕内連が次々ぶつかったが崩せなかった。
18歳で 1石、20歳で 1石 5斗を持ち運んだ。
400kg砲弾を片手で抱えて振った。
釜山の公園で灯籠の笠石の代わりに、ロシア軍から鹵獲して展示されていた500kg砲弾を置いたが、数年後に再び訪ねて行くと誰も動かせず放置されていた。
大正 8年 5月に行われた勝負検査役の選挙に落選したが、選挙方法に不条理が有ったのと人望の無さを感じて相撲界に嫌気が差し、廃業した。
現役中から富士山の描画に親しみ、日本画家の天真堂 福井江亭に師事した。
昭和12年 2月に上野精養軒で赤い綱を締め、嘗ての弟子を従えて史上初の還暦土俵入り(露払い木村(瀬平)・太刀持ち鳴戸)を行った。

年号・西暦対応表

[相撲人名鑑]


[大相撲 記録の玉手箱]

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