小錦 八十吉(こにしき やそきち)

本名岩井 八十吉生年月日慶應 2年10月15日
出身地千葉県山武郡(旧 上総国武射郡)初土俵明治16年 5月 序ノ口
所属高砂[ 1- 2]新十枚目明治21年 1月
 新入幕明治21年 5月
最高位横綱最終明治34年 1月
幕内略歴 小錦 八十吉(こにしき やそきち)
明治21年 5月 西前 9  8勝1預1休
明治22年 1月 西前 1  7勝1分1預1休
明治22年 5月 西小結  7勝1分1預1休
明治23年 1月 西小結  8勝2休
明治23年 5月 東大関  1勝9休
明治24年 1月 東大関  8勝1分1休
明治24年 5月 東大関 10休
小錦 弥曽吉(こにしき やそきち)
明治25年 1月 東大関  1勝1敗8休
明治25年 6月 東大関  8勝1預1休
明治26年 1月 東大関  7勝2敗1休
明治26年 5月 東大関  7勝3休
明治27年 1月 東大関  5勝2敗3休
小錦 八十吉(こにしき やそきち)
明治27年 5月 東大関 10休
明治28年 1月 東大関  8勝1敗1休
明治28年 6月 東大関 10休
明治29年 1月 東大関  7勝1敗2休
明治29年 5月 東大横  8勝1敗1休
明治30年 1月 東大横  5勝3敗1預1休
明治30年 5月 東大横  6勝2敗1分1休
明治31年 1月 東大横  3勝3敗3分1休
明治31年 5月 東横綱  3勝1敗2預4休
明治32年 1月 東横綱  6勝2敗1分1休
明治32年 5月 東横綱  1勝2敗7休
明治33年 1月 東横綱  5勝3敗1分1休
明治33年 5月 東横綱 10休
明治34年 1月 東横綱 10休


通算 26場所 119勝24敗9分7預101休
得意手突っ張り、押し身長 体重167cm 120kg
年寄名二十山[ 6]没年月日大正 3年10月22日(48歳)
備考実家は料理屋「岩城屋」で貸席業も営んだ。父は岩城川と名乗った土地相撲の大関で息子を力士にしようと考えており、明治13年に佐倉へ巡業に来ていた同郷で土地相撲の仲間だった高見山に頼んで入門させた。稽古の厳しさに何度か逃げ戻ったが、父の励ましで 2年後の 3月に決意をして自ら再入門し、稽古に励んで順調に昇進した。
明治16年の夏に奥州の巡業に参加して目的地の栃木県大田原まで歩いた(当時に関取は人力車や馬で先に行けたが若い者は歩かねばならなかった)。太っているので股擦れがして、痛くて堪らず ゆっくり歩いていると仲間達に置いて行かれてしまった。腹が減ってきたが、 5〜 6銭の小遣いは朝に餅を買うのに使ってしまい、一文無し。ふと路傍の地蔵堂を見ると地蔵の前に文久銭(四文銭とも言い、当時は 1枚が 2厘で通用した) 2枚が上がっていたので、「昇進の暁には10倍にも100倍にもして御返ししますから拝借を願います」と手を合わせておいて、それを掴んで飛び出し、近くの駄菓子屋で煎餅 3〜 4枚を買い、桶の水を浴びる程に飲んで取り敢えず空腹を凌ぎ、畑に入って生の玉蜀黍を囓ったり小川の水を飲み、途中の茶店の老人から麦飯を馳走されて、夜に入って宿に辿り着いた。数年後に昇進して 3人引きの人力車に乗って来ると約束通り路傍の地蔵堂に当時出たばかりの真新しい 5銭白銅貨を 1掴み献じたが、茶店は既に無く老人の消息も掴めなかったと伝わる。
幕下の時に羽黒山の麓を歩いている(関取は船で行った)途中で脚気に罹って歩けなくなり、仲間を先に行かせて休んでいたが一向に回復せず、日も暮れて来て身の危険を感じていると、少し遅れて歩いていた幕下の谷の川が唸り声を聞いて見つけ、肩を貸して山を下り、近くの茶店に辿り着いた。重くて それ以上は歩けなかったので、谷の川は茶店の者に訳を話して半円の青札 1枚(50銭)を置いて看病を頼み、高砂の元へ知らせに行った。翌日に迎えが来て小錦は無事に庄内へ運ばれた。数年後に谷の川は年寄 桐山を襲名していたが、博打で散財していたので、大関に昇進していた小錦は50円を桐山に届けてやった。桐山は改めて金を都合して礼に行くと「あの時の御返しのつもりです。御返却には及びませんよ」と受け取らなかった。桐山は すっかり忘れてしまっていたのだった。「さすがは大関に成った人だ。小錦は偉いよ」と桐山は会う人毎に触れ回った。
色白の肥躯に童顔は相撲人形の様で、絵は飛ぶ様に売れた。
立ち合いに行司が「発気」と声を掛けて「よーい」と言い終わらない内に勝負を決めた程に出足が鋭く、猛突っ張りを繰り出して相手が突き返すと変幻自在に動き回る俊敏な取り口。闘志に溢れたが技巧派の取り口を苦手とした。
序二段から幕下の時に地方巡業で初っ切りを行った。
入幕から 3年以上も無敗だった。
明治29年 3月に吉田司家から横綱免許が授与された。江戸時代生まれで最後の横綱。20歳台の横綱は史上初で、30歳台半ば以降の昇進が常識だった当時は騒がれたが、それだけに横綱昇進が実力本位に変わった事を示しているとも言える。五条家からも授与された。
小心で初日の負けが多く、横綱に昇進してから 3場所連続で初日に負けたので、西方力士は初日に小錦との割が組まれるのを念願する様に成った。 取組が近づくと落ち着かず、頻りに煙草を吸っていたと伝わる。
東京では、彼に肖って小錦織と命名された織物が大好評を博し、郷里の人達も東京見物の土産とした。
引退後も約 7年間は髷を切らなかった。
温厚で義理堅く謙譲・無欲・真面目で親孝行者だったので人望を集めた。後に取締を務めたが、少しも驕らず平年寄と変わらぬ働き振りで尊敬された。

年号・西暦対応表

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