| 本名 | 原野→近久 峰松 | 生年月日 | 文政 8年 3月 |
| 出身地 | 熊本県菊池郡(旧 肥後国合志郡) | 初土俵 | 嘉永 3年11月 二段目 |
| 所属 | 湊(大坂)[10-11]、境川[ 3- 6] | ||
| 改名歴 | 殿→不知火 | 新入幕 | 安政 3年11月 |
| 最高位 | 大関(横綱免許) | 最終 | 明治 2年11月 |
| 幕内略歴 |
殿 勝五郎(しんがり かつごろう) 安政 3年11月 西前 7 5勝1預4休 不知火 光右エ門(しらぬい こうえもん) 安政 4年正月 西前 6 2勝2敗2分2預 安政 4年11月 西前 4 4勝2敗1分2預1休 安政 5年正月 西前 3 5勝2敗1分2休 安政 5年11月 西前 1 江戸で大火事が発生した為に中止 安政 6年正月 西関脇 4勝2敗2分1預1休 安政 6年11月 西小結 6勝1敗1分2休 萬延元年 3月 西小結 8勝1分1休 萬延元年10月 西関脇 3勝3敗1休 萬延 2年 2月 西関脇 4勝2敗4休 文久元年10月 西関脇 6勝1敗1預2休 文久 2年 3月 西大関 4勝1敗1分4休(小柳の事件で出場辞退) 文久 2年11月 西大関 5勝3敗1分1休 文久 3年 8月 西大関 4勝2敗1預3休 文久 3年11月 西大関 10休 元治元年 5月 西大関 7勝1敗2休 元治元年10月 西大関 7勝1分1預1休 元治 2年 2月 西大関 1勝1分8休 慶應元年11月 西大関 6勝1敗2分1休 慶應 2年 3月 西大関 6勝2敗2休 慶應 2年11月 東大関 6勝1敗3休 慶應 3年 4月 東大関 7勝1敗2休 慶應 3年11月 東大関 2勝2敗1分5休 慶應 4年 7月 東大関 6勝1敗3休 明治元年11月 東大関 5勝3敗2休 明治 2年 4月 東大関 6勝2敗2休 明治 2年11月 東大関 10休 通算 27場所 119勝35敗15分9預77休 | ||
|---|---|---|---|
| 得意手 | 右四つ、寄り | 身長 体重 | 177cm 120kg |
| 年寄名 | 不知火(大阪)[ 2] | 没年月日 | 明治12年 2月24日(53歳) |
| 備考 | 熊本藩の抱え。 二段目 甲の婿。 農家の二男で、祖父の儀右衛門は土地相撲の大関を務め、彼も16歳で同じく務めていた。 文久 3年10月に吉田司家から横綱免許を授与された。土俵入りは「白鶴の翼を張れる如し」と形容される程に見事だったと伝わる。 離れても組んでも取れる名人型の取り口で、特に右を差すと鋭い出足を生かして強味を発揮し、俊敏さを生かした変化技も繰り出した。慶應 3年 4月 4日目に足取り名人の両國の足を取って勝ったが、これは花柳界で「足を取る相撲上手の両國関も足を取られてすってんころりん」と唄われた。 色白の美男、柔軟性が有り均整の取れた体格で、華麗さを具えたので大変に人気が有り、彼の錦絵は婦女子に飛ぶ様に売れた。 常に髷を櫓落としに結って貫禄を示していた。 引退後に大阪へ戻って明治 3年 3月〜 6年 7月は横綱土俵入りのみを勤務した。 書を能くし、弓術や槍術にも秀でていた。 妻は貞女の誉れ高く、本場所が始まると本所の自宅から浅草蔵前不動尊へ日参して夫の勝利を祈願した。弟子の面倒見も良かった。 | ||
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