酔っ払いのいうことが本音なのだろうか
酔っ払うと本音が出るというけれど、それは何かの間違いである。酔っ払うと多分の脳のどこかがアルコールによって麻痺する。自制の効いていたものが取り払われると考えて、奥の本音のようなものが表れるというイメージなのかもしれないが、実際はただ、麻痺して一時的に機能しなくなったんだから、本当のことで無いことを口走っているのだろう。ちゃんと機能していれば、そういうことは考えない。
そうだとすると、飲んで相談したり、約束事を取り交わすのはかなり危険なことのように思える。しかしながら、一献交えて話をすると、なんとなく分かり合えるような気がするから不思議ではある。どちらかに悪意があってそういう手法を選んでいるなら、単に騙されているだけである。僕は酒を飲む時は、ひたすら酔いに向かって突き進んでいくので、注意が必要だ。考えてみると、飲んで何かを約束させられたこともあるような気もする。飲んだ席では警戒して人とは話さないような、配慮をすべきかもしれない。
しらふで議論を交わすと、なんとなくわだかまりが残るような不安がある。そういうことならなんとなくわかる気がする。あの時は実はこういうことも言いたかった。飲んだ席でそういうことを言われることがある。年配の人にそういう傾向がある。議論はするが、気持ちとして理解できるのではないか。そういう期待があるのだろう。僕としては、そういう感じが実は好きではない。議論をしたからといって、相手の人格がおかしいなどとははなから考えていない。偏屈な人だなあとか、うるさい奴だとか一時的に考えるが、だからなんだという気もする。僕に嫌われたくらいいいじゃないか。それより早く話は済ませて飲みに行こう。僕の本音はそんな程度なのだ。
僕は当然のことながら、しらふの方が相手の理解ができると自信がある。しかしながら、いつも相手のことばかり考えているわけではないから、実はそれも怪しいかもしれない。何かを決めなければという当事者意識のあるときは、それなりに緊張感もあるけれど、できれば本でも読んでいたいなあという逃げの意識の方がむしろ強い。サル山のサルなら見ていて飽きないが、人間の動きは乏しく、特に会議の席上などは最悪である。何か言い間違いでもしてくれない限り、そうそう楽しいことも無い。よくもまあ何にも面白くないことをいつもやっているものだと、自分に呆れている。
しかしながら、会合の後で酒を飲むのは悪くない。本当は早く帰りたい気持ちも無いではないが、どうせ帰るのなら飲まなくてはならない。大変につらい思いを共有したねぎらいが必要なのである。飲んで分かり合えるとは、幻想ではあるが、多分長時間一緒にいるから親密になるということだろう。こちらが適当に飲んでいれば、相手のいやなところもなんとなく気にならなくなる。そういう効用はあるかもしれない。面白いことを言ってくれないかなとも思うが、面白くなくてもまあいいや。とりあえずは僕の話を聞いてくれ。そうやって脳の機能を麻痺させて喜んでいるのである。(0110)
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