「雨景色」


―雨、雨、雨、突然降り出した雨―
 
傘を持たぬ俺達は、一時の安息を求め、雨宿り出来そうな大木の下に駆け込んだ。走って家に戻るのに彼女とでは、少し遠すぎる…
「すぐ、止むといいな」
 俺は、肩などに残る雨粒を払い、彼女の方を窺った。
「ええ…」
と相槌を打つと、袂から手拭いを取り出し、俺の濡れた髪や顔を丁寧に拭い始めた。慣れない触れ合いに気恥ずかしさを感じつつ、大人しくされるがままになる。その感触はとても心地良く、何処か懐かしささえ感じられ、君の温みが全身に染み渡ってゆくようで、暖かい…
「…何か…」
 はた、と気が付くと、雨滴を拭う手が止まっていた。
「…付いていますか?」
傍らで細やかに動く彼女の姿を、無意識の内に瞳で追っていたらしい。これには、我ながら苦笑してしまう。いつの間にやら…
「いや…」
 苦笑いを隠し切れぬまま、彼女を見た。二人の双眸が、出逢う。
途端、闇。瞳に飛び込む闇の色。闇は瞳の黒。その瞳の黒に吸い込まれるような錯覚。すべての物質の存在が、曖昧になりそうな暗闇の中へ…
「…あの…?」
 少し戸惑い気味の声がして、現実に引き戻された。体が汗ばんでいる。
「…あぁ…もう、いいよ。ありがとう」
彼女の手から手拭いを取り、今度は逆に拭ってやる。自分自身とは、勝手が違う。壊れ物に触れるかの如く、心掛けて優しい手付きで拭う。
……その瞳は何を映しているのだろうか。黒漆の中に映る影は……
 彼女の伏し目がちな瞳に、無言で問い掛ける。
 一通り拭き終え、すっかり湿ってしまった手拭いを綺麗に畳み、自分の袂に仕舞った。
「寒くない?」
「ええ、ありがとうございます…」
 彼女は瞳を伏せたまま、一言、そう言った。
……こんなに近くにいるのに、君の存在は、何故か遠い気がする……
 
 
―雨、雨、雨、二人を隔てる雨の音―
 
「こんな日に誘って、悪かったかな…」
 止みそうにない雨脚を眺めながら、ぽつりと呟いた。
「そんな事は…」
近頃の彼女は、塞いでいる風に感じられた。理由は、わからない。実際にそうなのかも定かではない。只、偶然に見てしまった哀しげな瞳が、とても気になった。何故、そんな瞳をするのか…
……この天気では、気晴らしにもならないか……
君は、一歩、歩み出て、天の下に手を差し延べた。掌に雫が溜まり、流れ落ちる。じっと、それを見つめたまま…そのままで…
「濡れるよ…」
 と、手を取ろうとした。が、空を掴む。
「雨は、好きですから…」
俺の手から、するりと逃れた彼女は、降雨の中へ舞う。初秋の雨に打たれた君は、濡れる着物も気にせずに、暗雲に覆われた空を見上げる。瞳を瞑り、全身に受ける雨の雫は、君を優しく包んでいるようだった。
……君は、好きだと言う雨の中で、何を思っているのか……
 彼女に引き寄せられているのだろうか、足が雨空の下へと向かう。
「…いいのですか?」
 決して多くを語らない漆黒の瞳が、俺に疑問を投げかけている。
「いいんだ」
「風邪を、ひきますよ…」
気を遣う君に俺はひとつ頷いて、瞳を閉じる。初秋とは言え、降り続く秋の雨は、やはり冷たい。頭を冷やすには丁度良いが…何故か彼女のことばかり考えてしまう…
「この雨の中で、君は何を思って…」
何も聞くまいと思っていたが、堪えきれず、口をついて出てしまった。この問いに彼女は答えてくれるだろうか…
俺の問いを聞いたであろう君は、一度、固く瞳を閉じ、そして、ゆっくりと瞼を開いていった。少しの間、薄っすらと開けた瞳で灰色に染まった空を見つめ続ける…
やがて、空を仰いでいた視線が落ち、力無く俯いた。瞳に暗い影を落としている睫に降り積んだ雨の雫を払うように、二三度瞬きをした。頬を伝ってゆくそれは、宛ら彼女が流す涙にも見えた。
口を開きかけては止め、また、開きかけては、止め…彼女は悩んでいる。何かに悩んでいる様子は、手に取るように伝わってくる。
……君の心に去来するものは、何……
 
 
―雨、雨、雨、雨に曝すふたりのこころ―
 
「…すべてを…洗い…流して…欲しい…何もかも…真っ白に…」
 一言ずつ、ゆっくりと噛み締めるように答えてくれた君。
「…洗い流す…」
 自分には、彼女が何をしてそう思わせるのか、どれ一つとしてわからない。
「…忘れたいと?」
「いいえ…忘れてはいけない…忘れられるはずも無い…けれど…」
そう言葉少なに語る面持ちから、哀しみが垣間見える。雨粒とも涙粒ともつかぬ雫が、彼女の面を濡らしていた。
「泣いて、いるの?」
「…雨…です…」
こんな彼女を見るのは、初めてのことだった。こういう時に、どのような言葉を掛ければよいのか…気の利いた言葉なんて出てきやしない。只、見守ることしか出来ない。そんな自分が、歯痒くて仕様が無い。もどかしくて堪らない…
……雨…洗い流す……
 彼女を見つめ、降り注ぐ雨の滴を肌に感じながら、ふと、我を顧みる…
 
……人斬りとして血刀を振るう自分、幾重にも重ねてきた罪、
  落ちることのない血塗れの身、そして、正義と云う名のもとにある狂気…
  それらは、決して拭い去られることはない、紛れも無い事実。
  いつか、この事実に正面から相対さねばならない時が来る…
  その時、自分は、どう思うのだろう。後悔するのだろうか?
  彼女と同じく“洗い流して欲しい”と…
  己の信じた道を進むのは、容易いことではない。
  けれど、後悔や責任逃れは、したくない。
  迷うことなくそう思えるようになったのも、彼女が傍に居てくれたから…
  雨に洗われる…か…
  雨は心の中まで洗いはしない。面をなぞって落ちるだけ。雨音は人を閉じ込める。
  耳を塞ぎ、嫌でも自分を見詰めさせる。
  この雨の中、君は独りで立ち尽くす。何かに心を囚われながら。
  幾ら雨に打たれても、君の心のしみが拭われるわけはない……
 
『忘れてはいけない…忘れられるはずも無い…けれど…』
 先程の彼女の言葉が脳裏に突き刺さる…彼女は“忘れてはいけない”ことから、逃げ出したい? 彼女の背負うものは、独りでは支え難いほどに…
……俺は、君を救う雨になりたい……
 
 
―雨、雨、雨、ふたりに束の間の安息を―
 
「君にも何か辛い事が、あるんだね」
「……」
「俺は君を…助けられるだろうか?」
「……」
「君には今まで、助けられてばかりだ。君の言葉は降り注ぐ雨の様に、俺の心のわだかまりを洗い流してくれた。君がいてこそ、俺は俺でいられる……俺は、君の雨にはなれないだろうか?」
 今まで、口にする事を躊躇っていた名で、妻を呼ぶ。
「…巴…」
 そして、今度はしっかりと妻の手を握る。
 此方を向いた巴の瞳には、彼女の言うように、涙の色は見られなかった。
「その言葉で、もう、充分です……あなた…」
 静かにそう言った面輪は、幾分、頬が赤らみながらも、いつものそれに戻っていた。
……彼女は、何を思っているのだろう。憂いの見え隠れする、その漆黒の瞳で。
  君が独りで抱える苦しみは、何かわからない。
  けれど、俺は、君をこの静かな雨音と共に包み込みたい……
 
「私は…」
小さく、とても小さく呟いたその言葉は、夫、緋村剣心には、届かない…雨が掻き消すその言葉…
 
……私は、この人を裏切っている。そして、あの人も裏切っている。
  この人を憎む事は、もう、出来ない。あの人を忘れる事も、出来はしない。
  いつまで、誤魔化し続ければ良いのだろう。自分もこの人もあの人も。
  自分の中に二つの心。どちらも真実…違うのは現実。
  この人は、ここにいる。あの人は、もういない。
  この人は、憎むべき存在なのに何故?
  自らの不実を戒めようとすればするほど、憎むべき相手と思えば思うほど、
  思いとは裏腹に彼の優しさが、身に染みてゆく。
  あの人を斬ったのは、この人。あの人を死地に追い遣ったのは、私。
  私達は、何処か同じなのかもしれない。お互いの傷を舐めあって生きている。
  お互いに縋らなければ、見失ってしまいそうな自身。
  気が付かないうちに、必要とされているだけでなく、必要としていた。
  どちらかを選択する勇気も持てず、理想と現実をすりかえて、
  この暮らしに甘えている。この人の優しさに…
  今は、逃げているだけかもしれない。
  その時が来たら、否が応でも選ばなければいけない。けれど、今は…まだ……
 
「このまま、濡れて帰ろうか」
 剣心は、照れ笑いを浮かべながら、巴に言った。
「…帰ったら、直ぐにお湯を沸かします…」
「…そうだね」
 一度繋がれた夫の左手と妻の右手は、離されることはなく…
 
……あの人は、私を許してくれるかしら…この雨は、あの人の流した涙なの?
  ねぇ、天にいるあなた、私はあなたのもとへいけるのかしら……
 
驟雨は、徐々に終極へと移り変わっていた…


「秋の間」へ戻る

トップページへ