桜の下で
ようやく長い冬も終わりを告げ、春の日差しが心地よい4月。風は暖かく、そんな風に桜の花びらがそよそよと吹かれて舞っている。そんな中を着流しに身を包んだ一人の男が寺の方へと向かって歩いていた。自分の身に降ってくる桜の花びらには目もとめず、黙々と歩きつづけている。
「春か…。もう、これほどまでに季節は巡ってしまったのか…。」
そう呟くと男はただ一人寺の中へと入っていった…。
「ねぇ、爺や、蒼紫様は」
「蒼紫なら、例の寺へ禅を組みに行くとか言って出かけたが。」
「ええ〜っ。出掛けちゃったの、まだ、朝早いのに…。」
三つ編みおさげの少女はそういうとプッと頬を膨らませた。そうして、すたすたと自分の部屋へと引き上げていった。
「ああ、つまんないな。蒼紫様がいないんじゃ…。」
そういうとごろんと横になって天井を眺めた。
ここは、京都にある料亭兼旅館の葵屋、というのは表の姿でかつては隠密御庭番衆京都探索方の拠点であった場所である。さきほど、少女と話していた老人こそ京都探索方の主柏崎念次こと通称翁、そして少女は巻町操、かつて翁が仕えていた先代隠密御庭番衆御頭の孫娘であり、翁が孫娘も同然に育てた娘だった。
そして、操と翁の会話にでてきた蒼紫とは四乃森蒼紫、すなわちかつて隠密御庭番衆御頭であり、天才とまで称された男である。現在はここ、葵屋に留まり、連日寺に出掛けては禅に興じているのである。
しばらく天井を見つめていた操は、ふとなにかを思い立ったように、がばっとおきあがった。そして、台所のほうへとばたばたと駆け出していった。そして台所に着くなり、
「ねぇ、お弁当作ってもらえない。うん、重箱のやつ。蒼紫様迎えに行った帰りに一緒にお花見してくるから。」
と言った。そして、そのまま、また部屋のほうへと戻っていった。
しばらくして、弁当ができあがると、操はそれを手して蒼紫いつも通っている禅寺のほうへと走っていった。その顔は期待に胸をふくらませているかのように、にこやかだった。
「蒼紫様、待っててね。せっかくこんなに桜が綺麗なんだから、いっしょに見ようよそうすれば、きっと蒼紫様が悩んでる事だって、少しは和らぐかもしれないし。元気な蒼紫様が私はどうしてもみたいから…。」
心の中でそう呟きながら、操は街の道端に植えられている桜並木の下をいそいそと書けぬけていった。桜の花びらが操にむかって降りかかって来る。それは、まるで、操を祝福しているかのようにさえ見えた。
寺では、蒼紫は禅を組みながら深い瞑想に入っていた。彼の脳裏にはさまざまな思いが渦巻いていた。かって、いっしょに戦い、自分を守って死んだ般若達のこと、修羅になりかけた自分を必死の説得で目覚めさせてくれた、かつて人斬り抜刀斎と呼ばれ、今は殺さずの流浪人となっている緋村剣心の事、そして、今くっきりと頭に浮かぶのは自分を信じ待っていてくれた操の事…。
ふと、蒼紫は目を開けると寺の庭を見やった。そこには、風に吹かれて舞い散る桜の花びらが先ほど寺に入る時と同じように目に入ったそして、拳を握り締めると、蒼紫はポツリと言葉を発した。
「操、俺はお前になにをしてやればいい…。」
蒼紫の心には操の面影が消えた日など1日もなかった。幼い操を葵屋に残して旅立ったのも、過酷な旅に彼女をつき合わせたくなかったから。翁をその手にかけたとき、操に目の前に二度と姿を現すなと言い放ったのも、死を覚悟しても勝利を得る修羅になるのに彼女の面影を消したかったから、いや、彼女に自分の事を捨てさせるため。そして、修羅から目覚めさせてくれたのは、やはり操の面影…。
蒼紫にとって操はもう、すでになくてはならない存在にさえなっていたのだ。操の事がこうして禅を組んでいても思い浮かんでくる。その笑顔、そのしぐさが。
しかし、そうなれば、そうなるほど蒼紫の心には別の思いが沸き起こってくる。それが最近の蒼紫を苦しめる元になっていたのだ。
「操、俺はお前を遠ざけようとした。そればかりか、お前にとっては親同然の翁をこの手で殺めようとした。そして、御庭番衆の仲間たちさえ見捨ててしまおうとした。ただ、最強の華を般若達にそえてやりたいという、口実のもとに志々雄に加担しようとした。そんな俺をお前は今も変わらず、慕ってくれるのか…。俺は、お前に返せるものなど、なにもないというのに…。」
そう呟くと、蒼紫はすくっと立ちあがり、寺の庭へと降り立った。桜の花を見上げた。そして、なにを思ったのかその枝を折ると花を散らさないように優しく袂に入れてあった布にくるんで、懐へと忍ばせた。
それから、蒼紫は寺を後にしようと、門の前へと歩んでいった。その時、
「蒼紫様〜っ。」
と自分を呼ぶ声が門の外から響いてきた。
「操…。なぜ、ここに・・。」
声の主はまごうことなく、先ほど自分が考えていた当の人物、巻町操であった。見れば操の手には大きな包みが携えられていた。
「操、それはなんだ。」
不思議に思った蒼紫が尋ねると、操はにこやかな笑顔をかえしながら
「爺やたちに、お弁当作ってもらったの。せっかく、桜の花がこんなにきれいなんだから、お花見に行こうよ。蒼紫様。」
操に連れられるがままに、蒼紫は人のあまり来なさそうにない、小高い丘の上へとやってきた。そこは、桜の木が周りを囲むように植えられており、桜の花が一面に咲いている綺麗なところだった。また、地面には、散った桜の花が幾重にも重なり、まるで桃色の絨毯でもしいているかのようであった。
操は、大きな包みを広げると、重箱のお弁当と竹の水筒、畳まれてあった大きな古びた布をとりだし、布を地面に敷いた。おそらく、茣蓙では大きすぎるし、重いだろうと翁が気をきかせていれてくれたのだろう、二人が座ってちょうどいいくらいだった
「さぁ、蒼紫様お弁当食べましょう。せっかく温ったかいうちにと思って、急いで持ってきたんだから。」
「ああ、そうだな…。」
操に言われるがままに、蒼紫は操の敷いた布の上に座った。すぐに操も蒼紫のとなりに座ると、お弁当のふたを開けた。
そこには、筍の煮物やら、出汁巻き卵やら、人参の花びらの形に切ったのやら、おにぎりやら、おいしそうなおかずがところせましと並べられていた。みるからに、食欲をそそられそうな物ばかりである。
「うわ〜、おいしそうなものばっかり。」
操は声をあげた。慌てて持ってきたので、なにが入っているのかも確認してはいなかったのだ。そこが操らしいと言えば、操らしいのだが、自分が作ったわけではないので当然といえば当然かもしれないが…。
「さぁ、蒼紫様。食べましょう。じゃ、いただきま〜す。」
そういうと、操はさっさとおにぎりを片手に持ち、もう一方の手で箸を操りながらお弁当に手をつけ始めた。
「うわ〜、おいしい。蒼紫様もはやく、はやく。」
「あ、ああ。」
操に急かされて、蒼紫も箸をとると、おかずを口にした。確かに、操の言うとおり、なかなかいい味である。さすがに、料亭を名乗っているのはだてではないなと思わされるようなものばかりだ。
「ねぇ、おいしいでしょ。やっぱり、葵屋の料理は京都一よね。」
操は誇らしげに言った。それは、彼女らしい表現でもあった。
ふいに、蒼紫が口を開いた。
「この弁当は、操も手伝ったのか。」
蒼紫にしてみれば、何気ない一言であった。
「ううん、爺やや、白尉やお近が作ってくれたんだ。」
操の表情がくもったのを、蒼紫は見逃さなかった。
「どうしたんだ、操。」
声をかけたときには、操の目には涙が溜まっていた…。
「どうした、操。」
今にも溢れんばかりに、涙を溜めた目をした操をみて、蒼紫は何事かを悟ったようであった。そして、蒼紫が何か言おうとした時、操が口を開いた。
「ごめんなさい。蒼紫様。わたし、料理なんてなんにもしらないから…。もし、できたら蒼紫様には私の手料理食べて欲しいと思った事もあったんだ。でも、どうしてもできなくて、薫さんみたいに、下手でも緋村に食べさせてあげられる人ってうらやましいなって思っちゃったんだ、今。女の子なのに、駄目だよね。わたしって…。」
操の頬にはすでに、涙が零れていた。そして、その様子は今にも声をだして泣きださんかのばかりだった。
「それに、わたし、なんにも蒼紫様の役に立ててないなって。だって、蒼紫様、こんなに苦しんでるのに、わたし、こんな事しかできなくて。なんだか、蒼紫様あんまり楽しそうじゃないし。そうだよね、なんにも考えてなかったんだ、わたしって。逆に迷惑になるかもしれないとか、そういう気遣いできなかったんだ。」
そこまで言うと、操は俯いて泣き出した。それは、普段の元気な彼女からは想像できない姿だった。まるでそれは、そう、16歳の少女のあまりにも当たり前な姿だった。
「操…。」
蒼紫は、操の肩にそっと手を回し、言葉を続けた。
「操。そんなことはない。俺にとって、お前は必要な者だ。今まで、どうしても答えが出なかったことがあった。それは、自分の生きるための答えだった。それを考える度に、どうしてかお前の顔が心に浮かんだ。そう、そして今その答えがわかったような気がする。俺が修羅になろうとした時も、俺をその淵から救ってくれたのは、お前の姿だった。お前がいてくれたから、俺はこうしてここに戻って来れたんだ。だから、泣くな、操…。」
それは、今まで悩んだ答えであった。そう、操がいてくれたから、俺は、ここにもどってこれた。止まっていた時を取り戻す事ができたのだ。そうだ、俺は操の事を…。
蒼紫は心が軽くなっていくのを感じずにはいられなかった。
「ほんと、蒼紫様。ほんとにそう思ってるの、ほんとに。」
蒼紫を見上げながら、操は何度もその言葉を繰り返した。それは、蒼紫の口から自分の事をどう思っているのか聞けた事と自分のことを蒼紫がそんなにも考えていてくれていたのだという喜びからだった。
「ほんとうだ、操。今、伝えたい事がある。」
「え、なに、蒼紫様。」
蒼紫はすくっと立ちあがった。それから、さっき寺の庭で手折った桜の枝を懐から出すと、それを簪のように操の髪の毛に刺してやった。
そして、蒼紫意を決したかのように丘の向こうに見える町並みを見つめながら、口を開いた。それは…。
「愛している、操。俺のそばでいつも笑っていて欲しい…。」
蒼紫の突然の告白に、最初操はきょとんとしていたが、やがて、たちあがると、涙に濡れた目で、微笑んだ。
「わたしも、ずっと好きだったんだ。でも、怖かった。蒼紫様にそんなこと言って嫌われちゃったら、どうしようかとか思ったりした。それが嫌だった、でも、そばにいたかった…。だから、ずっと蒼紫様がいなくなった後も、蒼紫様のこと探してた。蒼紫様と一緒に入れることを夢見て。それだけは、あきらめられなかった。」
「操…。」
「わたしも、愛してます。蒼紫様…。」
今、やっと二人の心が通じ合えたのだ。そう、それは、冬がすぎれば、やがて春が巡ってくるかのように、蒼紫と操二人の心には今、やっと愛という名の春が巡ってきたのだ。
蒼紫は操をそっと抱き寄せた。自分より、小さな体、抱きしめれば、こわれてしまいそうな彼女のその体を。
「操…。少しの間だけ、目を閉じていろ…。」
「え、あ、はい。」
操が目を閉じるのを確かめると、蒼紫はゆっくりとその唇を操の唇に重ね合わせた。そう、まるで、今伝えた誓いを確かめるかのように。そして、抱き寄せた腕に力をこめた。
「いつまでも、俺のそばにいてほしい。俺が滅びの時を迎えるまで。」
「わたしも、いつまでもいっしょにいたい…。」
そんな二人を祝福するかのように、風にあおられた桜の花がいっせいに舞い散った。それは、二人を覆い隠すほどだった。暖かい風は、二人の髪をなで、未来に幸あれとささやいているかのようだった。
完