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Scene-1. 視線
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可憐な氷の桜が揺らぎ、風が接近する者の気配をそっと少女に伝える。
氷の妖気で水晶と化した花を摘み取っていた白い手を止めて、彼女は躊躇った。
・・・また・・・こっちを見てる・・・・
月明かりに照らされた夜闇の森は里から訪れる少女の楽しみの一時
いつからだろう
その視線を感じるようになったのは・・・・
無意識に自分の身体を抱く
ねっとりとした妄執めいた熱い視線
眼に見えない何かが身体を嘗め回してる
恐い・・・どこかに移動しよ・・・・
しかし無意味だった。
脅える少女を気遣うようにザワザワと葉擦れの音が警告する。
人間よりも恐ろしい者がいる、早く里へ戻りなさいと・・・・・・
だけどそれに従うことはできなかった。
ここ数日、森の空気がおかしい。
何と表現するべきだろう
自然が発する不快な緊張に反応して神経を尖らせる鳥や獣
これから何かが起こるのか、それとも何かが起きた後なのか・・・
原因を掴めぬまま帰るわけにはいかない。
場所を移動すると視線がそれに続く
指の動き、揺れる髪、全てを記憶するような視線が絶える事はなかった。
・・・・・いつまで、続くの?・・・・・・
過ぎる疑問
・・・私が何をしたというんだろう・・・・
沸沸と沸き上がる不安
指先が震える
気付いてはならない事に気がついて
少女は、まだ未熟だった
冬という季節以外は自在に妖気を操れない。
里から近いからと油断してた。
今の彼女は人間の子供と同じなのである。
迷いは一瞬。
薫は花を抱いたまま走り出した。
軽やかな足取りとは裏腹にその速さは狼以上。
人間はもちろんのこと、雪豹さえも適わない速さ。
妖気を操る事ができなくても驚異的な運動能力は発揮できる。
逃げよう、早く逃げよう!
しかし追う側はそれ以上の脚力を有していた。
軽やかに走る少女に艶めかしい視線を送りクスクスと狂気に歪んだ微笑みを浮かべて
追いかける。
恐い・・・本能が叫ぶ。
里に居る姉に助けを請いながら疾駆する。
捕らわれるか、逃げ切れるか・・・・
「 あっ! 」
大木の根に足を取られて大小の石が転がる地面に激突する。
その拍子に水晶の花が宙に舞い、夜の湖面に散らばる。
ズキズキと痛む身体を抱いてうずくまる。
追う者が止まった。
逃げ切れないと理解したからだ。
歪んだ笑みを込めて吐息が漏れる。
振り返る事ができない、カタカタと小刻みに震える。
「い・・・・いや・・・・・・・」
茂みをかきわけて近寄る気配。
痺れる手足を動かして湖面へと逃げる。
・・・ドウシテ 逃ゲル?
コンナニ 息ヲ乱スマデ・・・・
首筋に息がかかる。
狂気で染められた熱い吐息。
くすくす・・・・・くすくすくす・・・・・
声を殺した笑い声が響く
「いや・・・・いやぁ・・・・」
・・・・・君ハ 俺ノモノダヨ ・・・・・・・
恐い!恐い!恐い!恐い!
見えない恐怖に脅えて発狂する。
そんな少女のすぐ背後、青年は立った。
長い黒髪と瞳、一見ただの人間のようだが違う。
髪の色がボンヤリと赤い。
狐の耳と尾を持つ、それは少女と同じ異形。
「いや・・・・こないで・・・・・・・」
伸ばされた細い手が少女の顎を掴む。
舌先がカタカタと震える唇をなぞり、艶めかしい動きを繰り返す。
「お願い・・・やめ・・・て・・・・・」
憎悪とも殺意とも異なる熱意
ただ頬や唇をなぞられてるだけなのに鋭い刃物で抉られている
気がする。
少女は知らない。
自分の仕種が彼の狂気を煽ることに・・・・
華奢な足首が掴まれる。
男のものとしては細い指が強く絡む。
「あっ、いやっ・・・・」
強引に振り向かされて、薫は見た。
形の良い眉が同様で揺れた。姉と良く似た雰囲気の知らない青年を見て。
足首を掴んだ手で彼女を抱き寄せ、青年の赤い唇が細首へ沈む。
大人を知らぬ少女は発狂した。
はだけた未発達の胸に激痛が走る。
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!」
木々が震え 森の生物が異変を叫ぶ
ぐったりと少女は動かなくなった。
青年は笑んだ。満足そうに。
月明かりに浮かぶ女性と見紛う美貌。
気を失った少女の唇に鮮血の唇を重ね、囁く。
誰ニモ 渡サナイ
昏い決意のその言葉は少女に深く関わる者の冷酷な宣誓
彼女の胸元に咲く赤い華
その名を“契約”という・・・・・・・。
青年は少女を撫でた
君ハ 何モ 知ラナイ
これほどまでに執着する理由を
必ズ君ヲ手ニ入レル
花の香りが鼻孔をくすぐる。
優しく温かい手が額に触れて髪を撫でる。
「薫・・・・・薫・・・・・・・・」
細い指先、頬に落ちる熱い滴に重い瞼を震わせて瞳を開く。
そこに見慣れた優しい姉の顔があった。
「 ねえ・・・さん? 」
掠れて囁く声に巴は驚きを隠せない。
薬草の柔らかな香りに次第に意識が回復するのがわかる。
力が入らない腕に無理させて小さく上半身を起こす。
だけど思うように身体が支えることができず、グラリと危うげに倒れかける。
反射的に巴の細い腕が絡み付き薫の身体を支える。
心配かけまいとする配慮が逆に巴の心を乱す結果となってしまった。
「お願い・・・・大人しく寝ていて・・・」
絞り出すような静かな言葉。
逆らう事を許さない、絶対的な優しい囁き。
感じる肌が小刻みに震えてる。
月明かりに照らされた室内を見渡す薫を巴はそっと横たわらせる。
「ねえさん・・・・・ここ・・・・どこ?」
古びた小屋
背に感じる肌触りのよい感触は姉の衣
コトコトと薬草を煮立てる音
反対側に視線を向けると格子から白い月
戸惑う薫に巴は切れ長の目元に滲む涙を拭い、ここは名もない廃屋だと教えた。
それを聞いて何気なく身じろぎする。
だが動きを拒むように身体が悲鳴をあげた。
「 痛ぅ!」
ピクンと跳ねる薫を巴が制する。
「ほら・・・大人しくしないから・・・・」
からかうような、けれどホッとした優しい響き。
我が身に何が起きたか理解しないまま不貞腐れたように姉を見返す。
「こんなの・・・別に痛くないもん」
嘘である。
だけどあえて何も言わない。
張りのある紅葉に薄い翠色の薬を乗せてうっすらと赤く腫れた個所に塗る。
心地よい感触に委ねながら考える。
確か、里から夜の散歩に出てそれから・・・・
私、どうしてここにいるの?
花を摘んで、何してた?
何かを思い出そうと記憶を手繰るが思い出せない。
現実味のある一つの夢を目覚めた瞬間に忘れてしまうのと同じように
それは綺麗な空洞となって薫を戸惑わせた。
何かがあった気がした。
だけどその具体的な記憶がない。
朧げに浮かぶ映像は一つ。
月を背景に立つほっそりとした一つの人影
途切れた記憶
それが示すその意味
私は何を見たの?
組木玩具の部品が見つからない
記憶という名の重要な欠片
すると巴が言った。
「少し、眠りなさい・・・・・もうすぐ宗次郎君が迎えにくるわ」
優しい言葉 開かれた瞼に触れる手
誘われるまま瞳を閉じる
眠りの淵に沈むのに時は要しなかった。
「いい子ね・・・・薫・・・・・・」
あどけない寝顔に巴は微笑する。
この世でたった一人の可愛い妹
何よりも大事な愛しい家族
顔にかかる前髪を指先で払い、優しく見つめる眼差しはとても温かい。
人間より“氷姫”と恐れられる魔の娘
幼い頃から妹と二人きり
滅多に感情を露にしないのは大人と対等に渡り合ってきた癖にある。
トントン トントン
どれだけ寝顔を見守っていたことか。閉ざされた扉の向こうより、誰かが叩く。
巴は動じず、入りなさいと短く言った。
古びた扉が開かれ、入ってきたのは小柄な人影。
薫と同じ顔をした一人の愛らしい少年。
宗次郎という名の一族の子供
「薫の具合はどうですか?」
眠る幼なじみの側に来て覗き込むと、ほんのりと紅のかかった寝顔が見えた。
「打ち身が酷かったけど・・・・・・大丈夫、今さっき眠りについたわ・・・・」
眠りは治癒を促進させる。
疲れを癒し、体力を少しずつ回復させる。
きっとこの子は元に戻る。
いずれ忌わしい記憶が消えるから、恐怖を感じる前の優しい思い出の中に戻るのだ。
薫の額に触れようと宗次郎がその手を伸ばした瞬間、空気が震えた。
正確には耳障りの悪い言霊の振動。
宗次郎はもちろん巴もまた彼らを招いた覚えはない。
一瞬驚いた巴だがその冷静な思考回路はある結論を想定していた。
あの男、明らかに薫の行動を読んでいたあの忌わしい妖狐。
弱った薫を奪い返すためか、それとも薫を狙う連中をそそのかしたのか、それはわからない。
巴にわかるのは、妖狐がこの小屋を選ぶことを知っていたということである。
薫を無事に里に連れ戻すための選択は一つ。
忌わしいあの狐の思い通りになるのは癪に触るが、巴はそれを選ぶことにした。
「巴さん・・・薫の涙を狙う連中でしょうか・・・・・・」
不機嫌そうに扉を睨む宗次郎に応えないで、眠る妹の頬に接吻を落とす。
氷姫と呼ばれる娘の口付けはあらゆる災難を弾き返す効力が存在する。
「宗次郎君、少しだけ薫を頼むわね・・・」
従順な宗次郎は素直に返事をしてその後ろ姿を見送る。
これから始まる展開に予兆を感じながら・・・。
小屋を囲む人影の数は三つ
山伏の装束に身を包んだ、品性のない男達
その手に握られているのは金の数珠
高僧並の霊力を持った人間達である。
今彼らが唱えているのはいわゆる呪文
神仏という姿なき“奇跡”を崇拝し側にある動植物の声を聞かない愚者
いつだったか、薫は人を哀れだと言っていた。
天人天女の姿で舞う春の蝶
涼やかな眼差しで天を支配する幻想的な鳥
生きる為に知恵を働かせる獣
いつの頃からか彼らの姿を忘れてしまった人間へ
愛しい妹は可哀相だと寂しそうに嘆いた。
薫・・・人間に情など必要ないのよ・・・
巴は扉の前に立って意識を集中させる。
瞼を閉ざし、闇の中に感じる三つの気配。
一人は茂みの裏側
一人は小屋の影
そして残る一人は扉の向こう
巴は唇に片手を寄せて小さく笑った。
都の美姫が意中の貴人を惑わすよりも妖艶な仕種。
彼女に仲間を殺されて憎悪を抱く者達でさえ、その動作に魂を奪われてしまうだろう。
「私の手を煩わせるには、力量不足ね」
冷たい冷たい微笑みを浮かべる全身から氷の妖気が殺意となって脈々と溢れ出る。
さあ・・・・どうやって殺してあげようかしら?・・・・・・。
よほどの事がない限り、人間に自分達の姿を見せるのは氷霧の誇りが許さない。
薫を狙う連中は狩猟の快楽と同じ人種。
その中でも最も悪質極まりない愚者の群れ。
彼らは地元の猟師達とは違う。
心根の優しい薫の性格を利用して近隣の村から浮浪者の子供やはぐれた猪の子や熊の子を
殺さないようにじわじわと傷つけ、痛ましく泣く声でおびき寄せる。
巴とて人間に激しい反感は抱いていても、幼い子供まで殺そうとはしない。
そんな腐った連中に相応しい屈辱の死。
ふと、ある一つの手段を決めてクスクスと笑った。
豊かな黒髪が妖しく舞い踊り、冷酷非情な惨劇の門を押し開く。
オイデ・・・・コノ声ヲ手繰リ来イ
どこかで空間が歪んでいく。
蜃気楼のようにユラユラと・・・・・・・・・・
一個所に現れたそれは音もなく円を描く
男達は気付かない
小屋にいる世にも美しい異形が自分達の逃げ場を閉ざそうとしてるのに・・・・
「ん・・・・・・」
薫が小さく寝返りをうつ。
それに気がついて宗次郎は眠りから醒めないようにと桜の唇に赤い唇を重ねて眠りの
淵へ落した。
・・・・まだ起きたらダメだよ、巴さんは君に見せたくないはずだから・
・・
聴覚に響く微かな物音がする。
それは人間によって絶滅した生命が訪れた音。
「さあ、どんな声が聞けるのかしら?」
妖しい声色で恐怖の絶叫を待ちわびているとも知らず、男達は周辺に近寄る気配を知る。
真っ赤な瞳、翠の鱗の大蜥蜴
土人形のような顔のない犬
首から螺旋の角を生やした黒い鹿
その異形の姿ゆえ、無害にも関わらず人間に滅ぼされた生命に彼らは立ち竦む。
足を這う小さな蟲達が口や耳、鼻孔から侵入する。
例えようもない不快感に発狂の絶叫が森の中に木魂していく。
体外ではなく体内を選んだ虫達は臓物を食い生々しく蠢いて増殖する感触。
生きながら食い荒らされる感覚に魔性でも耐えられる者はいない。
無意味に我が身をかきむしり、流れる傷口から新たに侵入する小さな蟲。
耳を覆いたくなる絶叫は宗次郎の耳にも心地よい。
「 ・・・馬鹿な人間達・・・・・ 」
ふと、妹を奪おうとした青年が思い浮かぶ
異変を察して駆けつけた時、それを目撃して一瞬で殺意を抱いた。
一目でわかった。
絶大な妖気を持つ証拠に青年は巴と同じような美貌を有していた。
何の為に薫に近づいたのか知らない。
小さな身体を抱え込み、こちらに気付いて自分に見せた、あの見下したような微笑。
憤怒の極限状態の中、理性を繋ぎながら巴は妖狐に命じた。
“ソノ子ヲ離シテ・・・・・”
妖狐は巴の心理を理解しながら、居丈高に否定した。
“ゴメンダネ”
微動だにしない二人の間に空気が流れた。
静と動の相反する殺気に彼の腕に気絶する妹は知らない。
湖に浮かぶ水晶の花が気に耐え切れず散った。
“彼女ハ、イズレモラウ・・・・・”
優しく温和な妹の唇に接吻し、妖狐はそう言い残してそこから消えた。
「・・・・・許さない・・・・・」
この子を奪う?
忌わしい人間達を利用して、この私からそれをすると・・・・・・?
いつもの巴ならば、そのような流浪の者の戯れ言など相手にはしないはずだった。
だが例えようのない不安が胸に広がり、苛立ちが募る。
・・・・・させない・・・・そのようなこと、私は絶対に許さない・・・。
巴の漆黒の双眸に宿る殺気が増す。
彼女の背後に控える宗次郎さえ圧倒される壮絶な憎悪。
「・・・・さよなら」
その一言を合図に人間達の気配が途切れた。
「どうやら済んだようですね」
いつのまにか薫を横抱きにして宗次郎が笑った。
一族の中で最も姉妹と親しい少年は必要以上に深入りはしない。
時が至れば必ず自分に事情を語るのだと理解してるからだ。
「行きましょう、皆が待ってますよ」
「・・・・そうね」
扉を開けて夜の世界へ二人は出る。
その気配に地面を覆い蠢く虫が道を拓いて再び覆っていく。
遠い日に絶滅してしまった獣達に別れを告げ、巴が退路を塞ぐ歪みを消す。
残された三つの死体は五日後、白骨化して麓の猟師に発見される事となる・・・・・・・。