慈愛 <第2話 失意>
春の風がやけに心地よい。
町全体が眠りから覚め、動き始める時間に、ある男が神谷道場へとやってきた。
相楽左之助である。彼が此処に来た理由は勿論、タダ飯にありつく為である。
何時もは朝から賑やかな神谷道場だが、今日は雰囲気が何処となく違っていた。
「オーイ、飯食いに来たぜー!!」
誰も出てこないので左之助は妙に感じ、思わず声を荒げて叫んだ。
しかし、それでも全く返答はなく、静まり返っている。
「チッ、いってぇ何処に行ってんだよ、こんな朝っぱらから!!」
苛立ちを覚え左之助は足元の石ころを蹴り上げる。
小石と一緒に土も蹴り上げてしまい、辺りを埃が舞った。
埃にまみれ、左之助の苛立ちは極限にまで達していた。と、その時
「…左之助…?」
その声に気が付いて顔を上げてみるとそこには、汗でびっしょりになりながら肩で息をしている弥彦
がいた。
「どうしたんでぇ、なんで皆居ねえんだ?」
「薫が…」
「は?嬢ちゃんがどうしたんでぇ?」
「手紙を残していなくなったんだ」
「なっ…なんだと!?何かあったのか嬢ちゃんに!!」
突然のことに、事体を飲み込めない左之助は、焦りながら弥彦を見た。
そんな左之助を見ながら弥彦は言葉を続けた。
「という事は左之助は薫の居場所を知らないのか…なぁ薫探すの、協力してくれないか?」
弥彦の言葉に左之助は、無言で頷いた。
薫が何故いなくなったかは左之助には分からなかったが、どこか胸騒ぎがした。
(嫌な予感がする…無事でいてくれよ、嬢ちゃん!!)
左之助は、再び走り出した弥彦を目で追いながら、彼も後に続いた。
* *
ハアッ、ハアッ、ハアッ………
額の汗を拭いながら、剣心は走っていた。
着物が肩から落ちそうになっているのを気にも止めず、ただ剣心はひたすらに走っていた。
(薫殿…一体何処に…?)
剣心の脳裏に、昨日のことが蘇る。
自分の肩に触れた薫に声を荒げる自分
自分の態度に体を強張らせた薫
悲しそうな表情(かお)…
(拙者が…あんな態度を示したから…愛していると言ったのに…不安になんかさせないと誓ったのに…)
あれから剣心は考えた。あの夢は、心の片隅にある、自分自身の不安を思う気持ちが抜刀斎となって自
分の前に現れたのだと。
本当に、薫を幸せにすることが出来るのかと。そしてあの手紙が自分に訴えかけるもの…
もう決心はついた。
薫を不幸にしたら。薫を苦しめたら。薫を再び、傷つけるようなことをしたら。
その時は…自分を―――――――――――――――。
ふと剣心の足は、自然と「赤べこ」の方へと向いていた。
あんな手紙を残すぐらいだから、あの場所にいる筈が無いとは思うのだが、何故か薫がいるような気が
してならない。
(薫殿…)
「赤べこ」の前に立つと、剣心は意を決するようにのれんをくぐった。
中は、何時もの賑わいを見せていた。
牛肉の美味しそうなにおいが、その賑わいを更に盛り上げるように漂ってくる。
入り口で佇んでいる剣心を、「赤べこ」で働いている燕が見つけた。
「剣心さん!!」
そう言うと燕は、剣心の傍に走り寄ってきた。
「あの…燕殿…実は聞きたいことがあるんでござる…」
用件を言わないうちに、何故か燕は剣心を奥の部屋へと案内した。
言われるままに燕についていく。ふいに燕が口を開いた。
「剣心さん…薫さんを探しているんですね…」
「えっ…何故それを……?」
自分の心を見透かされた様な気がして、剣心は、はっと燕の顔を見た。その表情に顔を曇らせる。
「燕殿……?」
燕は奇麗な瞳に涙を浮かべながら、ゆっくりと話をはじめた。
「今から剣心さんに、会いに行こうと思ってたんです…つい先程、歩いてた薫さんとあったんですが…」
燕の様子に内心焦っているものの、剣心は静かに聞いていた。
ふと燕がある部屋の前で立ち止まった。
「此処に…薫殿がいるのでござるか…?」
剣心が尋ねてみるものの、燕はその言葉にはふれず続けた。
「入ってみて下さい…」
そう言うと、彼女は目の前の襖を開けた。そこに居たのは…。
「…薫殿?」
剣心には、自分の声が震えているのが分かった。
何時も見る薫とは、何処か雰囲気が違っていた。
目の前の彼女は、正座をしたまま下を向いているが、そこから伺えるものは光の無い瞳だった。
剣心には言葉がみつからず、何も言えなかった。
ふいに薫がゆっくりと顔を上げ、こちらを向いた。
剣心と薫の視線があう…そこで薫が言った言葉は…。
「貴方…誰…ですか…?」
「―――――――!?」
薫の言葉に剣心の表情が凍り付く。そんな剣心に燕は声をかけることが出来なかった…。
(続く)