船堀の歴史を掲載。昔の船堀を知ってみるもの面白いかもしれませんね。
船堀の歴史年表
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年号 |
西暦 |
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養老5年 |
北小岩六丁目で弥生末期の土器出土 710/「平城京(奈良)に遷都」 721/下総国葛餝郡大嶋郷養老5年に甲和里、仲村里、嶋俣里の記述 大島郷1191人(130戸) 甲和里454(44戸) 仲村里367人(44戸) 嶋俣里370人(42戸) 794/「平安京 (京都)に遷都」 |
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永万元年 |
1165/文献に「皇太神宮御領下総国葛西伝々」とあり。文献上「葛西」の例の最初 1192/源頼朝、征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開く 1334/建武中輿 |
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応永5年 |
1398/葛西御厨注文に区内18の地名 下小岩、長嶋、東一江、西市江、一色、今井、上篠崎、二江 など 1467〜77/応仁、文明の大乱 |
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天文2年 |
1533/宇田川喜兵衛品川に生まれる。 |
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天文7年 |
1538/第3次国分台合戦、北条氏葛西城を取る。(対足利義明、里見氏) |
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弘治元年 |
1555/宇田川喜兵衛小松川(小松)に移住 ただしこの前後、現在の港区芝に移住し、そこの開発したとの説もある。 |
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永禄2年 |
1559/小田原衆諸領役帳に区内16の地名(上記とほぼ同じ) |
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永禄7年 |
1564/第四次国分台合戦、北条氏市川城取る(対里見氏) 1590/豊臣秀吉後北条氏滅ぼす。天下統一。 |
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天正18年 |
1590/徳川家康、江戸城入城。蔵入地を江戸城周辺に配置。 関東郡代支配下に。小名木川開削開始。 |
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慶長元年 |
1596/宇田川喜兵衛の手により宇喜新田(小松川内海表蔵原三千石)を開発 その功により上田一町5段を賜る。 |
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慶長5年 |
1600/関ヶ原の戦い |
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慶長年間 |
法龍寺、京都知恩院末として開山。元禄期に源法寺末となる。 (寛文5年1665、諸宗寺院法度などで寺院規制強化) |
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慶長15年 |
1610/篠原伊予により伊予新田開発 |
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慶長19年 |
1614/宇田川弥次右衛門初代、船堀村開発(船堀村本格開発の始め) 宇田川鐘弥家に石碑に供述あり 地元郷史家中里民平の「松江町誌」によれば、 宇田川、鈴木の両氏が船堀開村時の草分け。 光明寺開山(慶長3年以前の開山の記述もあり) 山王社(現日枝神社)勧請 別当光明寺 1615/大阪夏の陣、大坂方落城 |
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元和2年 |
1616/法然寺開山 |
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元和3年 |
1617/この頃より田島図書により一之江新田開発 |
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寛永5年 |
1628/平井、小松川両村御鷹場に指定(葛西方面に多数回出勤。 吉宗以降の記録に「船堀」方面の記述多数。) |
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寛永6年 |
1629/新田開削(三角以東)。この前後新川西側直線部分も開削? |
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寛永9年 |
1632/行徳船(番船)開始(〜明示12年) |
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寛永15年 |
1638/「毛吹草」に「下総国葛西海苔 これを浅草海苔とも言う」とあり。(改文) 1639/鎖国 |
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寛永18年 |
1641/江戸川通水 |
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正保元年 |
1644/江戸川区石高18460石、船堀新田805石 (武蔵田園簿より。文献に船堀が出た初め。 尚、この前後以降をもち、江戸川区は下総国から武蔵国へ) |
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承応3年 |
1654/利根川東遷事業一応終了。(水運の本格化) |
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万治元年 |
1658/「東海道名所記に(色赤きものは葛西のりなり。今東葛西、船堀、今井、桑川、長島の処にあり その色うす紅粉の如く白く磁器に入るる紅色器につく。昔は浅草川にもいできしなるべし) |
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寛文元年 |
1661/中川番所、小名木川中川口北岸に。 |
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延宝年間 |
1673〜81/正養寺、西船堀に開山。 1688〜1703/元禄時代 |
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元禄3年 |
1690/南船堀(旧西一之江、東小松川飛地)に稲荷社勧請。 |
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元禄4年 |
1691/稲荷社西組の鎮守として勧請。 |
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元禄10年 |
1697/元禄郷帳に「船堀村」と記述(前後より村内は東組、西組に分かれ独立性が強かった。) 1716〜1735/享保時代(将軍徳川吉宗) |
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享保10年 |
1725/中川開削(〜享保14年、河口で2〜3メートルの川幅を40間以上に拡張。 |
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享保19年 |
1734/洪水発生により上の割の村々大被害を受ける。 |
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享保20年 |
1735/「続江戸砂子」巻一に葛西海苔は桑川、舟掘、二之江、今井これらの所にてとり 其所にて製する名産なり、浅草海苔に似て又異なりとある。 |
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元文3年 |
1736/下の割村々に助郷役課される。 |
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宝暦4年 |
1754/古文書に免税船、船堀18、東宇喜田31、長島33、西宇喜田10、桑川12、 一之江13、下今井28の7村の145艘(葛西領の者が駿河まで行って蛤取りをしたとの由来に因る。) 船堀村、東宇喜田の者、佃島の漁夫とのいざこざ。和談で解決。 天明4年1784にも同様の事件 |
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明和2年 |
1765/船堀に湯屋開業 |
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安永2年 |
1773/船堀に乙女湯開業 |
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天明8年 |
船堀に髪結開業 |
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寛政元年 |
1789/「火事場罷出候節村々議定連印帳」に長島村、東宇喜田村、桑川村、 下今井村、二之江村、東船堀村、西船堀村八ヶ村連印 |
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文化元年 |
1804/船堀に居酒屋開業 |
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文政6年 |
1823/三世歌川豊国、船堀に生まれる。 |
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文政7年 |
1824/江戸川区域石高 20879石 舟堀村900石(船堀の増加分は、主に西船堀開発の結果か) 【 江戸時代後半の船堀の字名】 外河原、中割、間沼、袋新田、東袋 長溝、坊主野、錢野 |
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文政12年 |
1829/幕府から「関東筋御取締御改革御箇条」のお触れが出る。 (東船堀村本百姓169名連印帳提出) 江戸川区域人口約4300戸(約21300人) 船堀村兼業農家43戸、専業199戸(漁業従事者を含まず) 「兼業は質屋、湯屋、髪結い、居酒屋、職人など) |
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天保13年 |
1842/日光御社参の勤方に関する文書より 船堀村 名主:紋右衛門 村高899,709石 千住宿加助郷高114石 その他中川御関所渡船場諸御用、新川通綱引人足幸手宿、古川宿御賄御用 |
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弘化2年 |
1845/大洪水により江戸川、新川通船不可能に 1853/ペリー浦賀に来航 |
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安政2年 |
1855/江戸大地震で各地に損害 |
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文久3年 |
1863/法然寺住職高橋龍定、筆道の家塾開く(平船学校の前身) 江戸時代、寺子屋を開いたと伝えられる寺、光明寺、法然寺、正養寺 |
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元治元年 |
1864/船堀村名主弥次右衛門、道中奉行に助郷差村を願い出る。 |
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元次2年 |
1865/船堀に質屋。東船堀1 西船堀2 1868/1月3日 鳥羽・伏見の戦い |
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慶応4年 |
1月10日慶喜追討令、旧幕僚を天皇の直轄領とする公示 4月11日江戸城明け渡し 以後市川、船橋の戦い 5月12日江戸府を置く 5月19日旧幕府の町奉行・寺社奉行・勘定奉行を廃し市政・社寺・民生の各裁判所を置く 7月17日江戸府を東京府と改める 1868/元号を明治と改める 12月28日法律上農民の土地所有権を認める |
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明治2年 |
1869/1月13日旧代官支配地に県を置く 武蔵国葛飾郡は小菅県に(〜明治4年11月14日まで) 小菅県の事業:報恩社法(社会福祉事業の先駆、船堀村526両2分搬出) |
以下続く |
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ふるさと ふなぼり 第二集 船堀歴史会より抜粋 |