第二巻

間の山の巻

十九

お絹は二見ヶ浦の海岸の清涯亭<せいがいてい>という宿の離れにつづいた四阿<あづまや>の中で長いこと人を待っているのでありました。やがて、編笠を被って海岸伝いにやって来る一人の武士<さむらい>がありました。

武士は松林の中を歩んで来る、お絹は、それを迎えるように松林の中へ入る、武士というけれども、まだ極く若い人のようであります。

「宇津木さん、ここよ」

若い武士は歩みをとどめて笠を傾<かた>げて此方<こちら>を見る。

「お前様は」

「えゝ、お松の仮親のわたくしでございます、さっきから待っておりました」

「…………」

この武士は宇津木兵馬でありました。兵馬は呆れたような面<かお>をしてお絹を眺めたままで立っています。

お絹の方は、一向平気らしく、

「宇津木さん、定めてまたかとお驚きなすったでしょう、けれどもね、今度は前とは違いますよ、前とは違って真剣に貴方にお話をして上げなければならないことがあるのですから」

「お前様は御身分柄にもないことをなさる、窘<たしな>まっしゃるが宜うござるぞ」

兵馬は苦りきってなおお絹の面を睨めていると、

「そんな悪戯をするつもりではありませんでしたけれども、つい貴方のお姿を見たものですから、こんなことになってしまって」

兵馬の真面目になって苦りきっているのがこの女にはかえって面白いことのように見えるらしく、

「この間、古市の町で、背の小さな男が竿を振り廻していた時、それへ槍をつけたのは宇津木さん貴方でしょう、運悪くそれをわたしが見ちまったのですよ、珍しいところで珍しい人に会って、わたしは何だかゾクゾクと懐かしくなってしまったものだから、あれからちゃんと、貴方の行方を突き止めていたんですよ、そうしてまたあの手紙を上げて、貴方をここまでお呼び申したのですよ、よく来て下さいましたね、ホヽ」

自分が網を引きさえすれば兵馬などは、どうでもなるように、呑みきっている物の言いぶりでしたから兵馬は勃然<むっ>として、

「お暇を申します」

袖を振って歩き出すと、

「そんなにお怒りなさるものじゃありませんよ、まさかわたしの名で手紙も出されませんから七兵衛の名を借りて貴方をここまでお呼びしたのは、貴方からはお松や何かの行方も聞きたいし、わたしからはぜひとも貴方にお知らせ申したいことがありますから……」

兵馬はそんな言葉を耳にも入れず、さっさと行って終<しま>おうとすると、

「あの、宇津木さん、兵馬さん、島田先生は死にましたよ、貴方はそれを知ってますか」

この一語は兵馬を驚かさないわけには行きませんでした。

「ナニ島田先生が亡くなられた!」

ズカズカと立ち戻ってしまいました。

「ソレ御覧なさい!」

「島田先生が亡くなられたというのは、そりゃ真実か」

「どうですか」

「そりゃ偽<いつわり>だ、出立の時まであの通り壮健でござった先生が……」

「偽なら偽でようござんす、御信用のない者にお話をしたって詰りませんから」

「そんなはずはない、嘘だ、偽だ」

兵馬はそれを言い消して見たけれども決して心が安んじたわけではありませんでした。まだ老病で死なれる歳ではない、また苟且<かりそめ>の病に命を取られるような脆い鍛錬のお方でもない、いわんや刀刃<とうじん>の難によって命を殞<おと>すことのあり得べきお方ではない、もし先生が死なれたとすれば、病難、剣難の外の人間の手では、どうしても防ぎ切れない天災によって殺されたと思うことの外には想像が届かないのでありました。

「それは偽、嘘に定<き>まっている」

「貴方という人は思いの外不人情なお方ですねえ、現在自分のお師匠様が亡くなられたのに、それも知らず折角それを知らして上げようとするのをお耳にも入れず、それで武士道とやらが立ちますならば御勝手になさいまし……わたしは人柄がこんなで身を持ち崩してしまったから、真剣に言っても浮気に取られるのが口惜しい、わたしだって時と場合によれば随分これで涙脆いことがありますのよ、あの御徒町の島田虎之助先生とも言われるお方が人手にかかってお果てなさるとは……」

「ナニ、人手にかかって……」

「そのお話を聞いた時は、わたしのようなものでも涙がこぼれましたねえ、あの先生がまあ……」

「島田先生が人手にかかって……いよいよそれは偽りじゃ、嘘じゃ、人手にかかって亡くなられる、そのようなはずがない、余人ならば知らぬこと、島田先生が人手にかかって、そんなこと、そんなことのあるべきはずがない、天地が逆さになったとて」

兵馬の舌が自<おのず>から縺<もつ>れる。

「それほどわたしの言うことを御信用なさらないのなら、それで宜うございます、もう何も申し上げますまい、なるほど、島田先生は人手にかかるお方ではない、今の世に尋常であの先生を手にかけるような手利はないに定まっている、それは貴方のおっしゃるまでもないこと、誰でも知っていますけれど、何も刃物ばかりが人手ではなし……」

「そんならどうして先生が」

「毒ですよ、島田虎之助先生は毒を盛られてお亡くなりになりました」

「毒!」

兵馬の渾身の血が逆流すると見えました。

「それだけ、お話し申し上げたら、もうわたしの役目も済みました、それではこれでお暇を致しましょう」

「ま、待って、もう暫く」

攻守勢いを異にしてしまい、兵馬はお絹の袖を捉えて放さないのでありました。

「わたしのお呼び立てしたことが、真剣でしたことか浮気でしたことか、それがお判りになれば、わたしはもうお暇を致します」

「よく教えて下された、嘘か真かそのような疑いを申していられることではない、お礼を申し上げまする」

兵馬の眼から涙が落ちる。

「いいえ、御礼では痛み入ります、あゝこれでわたしの心持が届いて嬉しい」

「どうか御存知ならば、もう少し詳しくそのことをお話し下さらぬか」

「知っているだけは、お話し申しましょうとも、けれども、こんなところではお話をし悪<にく>いから、あれへ参りましょう、あの清涯亭という宿、あそこに申し付けてありますから、静かなところで、ゆっくりとお話し申し上げたいと思います」

「いや、それは」

兵馬はそれを躊躇しました。

 

程なく兵馬の姿は大湊の町の船着場へ現れました。あの場ではお絹を怒らせて袖を振り切ってここへ来てしまいました。

「兵馬さん」

お松は船の仕事着ではなく小綺麗な身扮<みなり>をして、船着場の茶屋に待っています。

「今日は何方<どちら>へお出でになりました」

「二見の方へ」

「藪の中や何かをお通りなさったらしい、こんなに草の実が着いておりまする」

お松は兵馬の袴の裾に着いた草の実や塵を払ってやる。

「松林の中を無暗に歩いたものだから、随分息も切れました」

兵馬は腰掛に休んで茶を飲む。

「あ、それからお松、今日はまた珍しい人に会ったぞ」

「珍しい人とおっしゃるのは」

「お前の親類じゃ、当てて見るが宜い」

「わたしの親類と申しましても」

お松にも親類の人もある、世話になった人もあるけれど、それ等の記憶を呼び起すと余り好い心持はしないのでした。

「それはお前にとっては怖い人ではない、どちらかと言えば懐かしい人だ、懐かしい人だろうけれど、油断は出来ない人だ」

兵馬はワザと廻りクドく言って見せると、

「まあ、誰でしょう、わたしの親類でそんな人、もし本郷の伯母さんでは……」

本郷の伯母さんという人は、お松を島原へ売った人、不人情で慾が深くて、その癖口前のよい人、

「いや、そんな人ではない、言ってみようか、それは湯島妻恋坂のあの花のお師匠さんじゃ」

「まあ、お師匠さんに」

お松は断えて久しい妻恋坂のお師匠さんのことを兵馬の口から聞いてそぞろに昔のことが思われて堪りません。この時、町の方からがやがやと噪<さわ>がしい人声。

「いや、与兵衛さん、御苦労々々々、もうここで好宜しい」

それは仙公を連れて、船大工の与兵衛に送られた長者町の道庵先生でしたから、兵馬も驚いたがお松の方が一層意外な感じがして、直に呼びかけようとしていますと、道庵先生はお松の方には気がつかず、与兵衛に向って、

「もうここで宜しいから帰ってくれ給え、うむ、もうどちらも大丈夫、心配することはない、野郎の方は少々跛足<びっこ>になるかも知れないが、身体のところは間違いっこなし、薬は飲まなくても放って置けば自然に癒<なお>る」

「へえ、どうも有難うございます、ほんとにどうも全く先生の御蔭様で」

与兵衛は道庵の前へ頻りに頭を下げる。

「それから、あの眼の方なあ、あの眼は野郎から見ると難物だからな、しかしまあ彼<ああ>して置けば十日や二十日は持つ、その中江戸へ出て来るというから来たら、拙者<わし>がところへよこしなさい」

「へえ、何から何まで有難うございます」

与兵衛は繰返してお礼を言います。

ここで道庵先生が、野郎の方は少々跛足になると言ったのは勿論米友のことで、眼の方は難物だというのは多分机龍之助のことでありましょう。

さきの晩、与兵衛が伝馬で若山丸へ頼みに行ったのはお玉一人であって、龍之助は、やはり与兵衛の家に隠されているものと見なければなりません。

道庵も江戸へ帰るものと見えて、すっかり旅装束になっていました。その時にお松が、

「先生、道庵先生」

「おやおや」

「いつぞや、先生のお世話になりました江戸の本郷の……」

「あゝ、そうであったか、それはそれは、矢張りお前さんもお伊勢参りかな」

「いいえ……」

「道庵先生」

今度は兵馬が呼びかける。

あちらからも道庵、こちらからも道庵で、先生面食らってしまい、

「恐ろしく道庵の売れの宜い日だ、お前さんは誰様<どなた>でしたかね」

「浪士に追われて、先生のお宅へ走り込んだことがありました、その節は豪<えら>いお世話になりました」

「そんなこともあったけな、お前さんも何かね、伊勢参りかね」

「いいえ違います、拙者は別に用向があって上方<かみがた>から、して先生はこれから何方<どちら>へ」

「拙老<わし>は伊勢参りの帰りじゃ、この与兵衛さんという人のお家にお世話になってな、折角の好意だから、舟で桑名まで送って貰って、それから宮へ行こうというのだ、お前さんも江戸へお帰りなら、一緒に行こうではないか」

「私共は、あの大船に乗るように定<き>まっておりますから」

「左様でござるか、それでは舟の出るまで、ドレ一ぷく」

道庵先生の一行は与兵衛の仕立ててくれた舟で桑名から宮へ向う。

兵馬とお松とお玉を乗せた若山丸は十六反の帆を揚げて大湊の浜を船出する。

米友の身体も道庵先生の力によって旧に復するし、机龍之助もまた計らず道庵先生の力によって幾分か視力を回復したらしい、七兵衛はムク犬と一緒にどこかへ駈けて行ってしまった。やくざ旗本を先へ帰して、一人残ったお絹も、そう何時まで遊んでいられるものでないから帰りの仕度をする。

これ等の連中の心々はそれぞれ違うけれども、その目ざして行くところは、皆んな東の空であります。

 

 

 

 

 

間の山の 了