第一巻

壬生と島原の巻

十七

ところへ、田原本の方から早足に歩いてくる旅人。それは裏宿の七兵衛であったが、摺れちがって龍之助の方で、それと気のつかなかったのは無理もないが、七兵衛の方で龍之助に気のつかなかったのは、龍之助が、小荷駄の馬の蔭に見えかくれであったのと一つには無腰であったから、刀を差して歩く人のみを目ざした七兵衛の眼を外れたものと見えます。

八木の宿へ入った七兵衛が、何心なく、寄り込んだのは偶然にもかの女夫<めおと>餅。

「御免よ」

「はい、お出でなさいまし」

七兵衛が腰をかけたのは龍之助が置いて行った刀の直ぐ近い所でした。

「ここに怖<おっ>かないものがある」

七兵衛は饅頭を食いながら、さきほど龍之助が置いて行った刀を少し横の方へ避けると、亭主は、

「お客様、その刀をお買いなすって下さいませぬか」

「わしに買えと言わっしゃるか」

「へえ、たった今食い逃げの抵当<かた>に取った代物でござります」

「なるほど」

七兵衛は、手をのばして刀をこちらへ引き寄せる。七兵衛も一寸した刀の鑑定<めきき>位は出来る男であったから、

「拝見してもよいかな」

「へえ、御遠慮なく」

「なるほど」

七兵衛はこの刀を抜いて、しばらく眺めていましたが、

「はてな」

と首を捻<ひね>って、

「親方、目釘を外しても宜<い>いかね」

「どうか、よくお調べなすって」

七兵衛は目釘を外して、柄をとり払い、その切ってある銘を調べて見ると、

「武蔵太郎安國、待てよ、こいつは可笑<おか>しいぞ」

七兵衛は思う、備前物や相州物の類であらば、この辺を通る人でも差して歩くに不思議はないが、余り知られていない武蔵太郎あたりを、この辺で差して歩く人があったとは思いがけない。

「親方、この刀を差していた人というのは、どんな風をした人だったかね」

「さようでございます、破落者<ならずもの>か、賭博打<ばくちうち>のような人体でもあり、口の利き方はお武家でございました、大方浪人の食い詰め者でございましょう」

「年の頃は」

「さよう、三十四五」

「面<かお>つきは」

「月代<さかやき>が生えて色が蒼白くて、眼が長く切れて」

「それだ!」

七兵衛は、その人を尋ねんとしてこれまで来たのです。

「その人は、何方<どっち>へ行った」

「さあ、ちとばかり前、あちらの方へ、田原本の方へ行きました」

「田原本へ――」

七兵衛は忙<せ>わしく懐中へ手を入れて、

「親方、いくらになる」

「お客様、その刀もお買い下さいますか」

「買おう、売って貰いましょう」

「饅頭の方が八十文いただきます、刀はちと値が張ります」

「幾らで売る」

「はい、五両、ちとお高うございますが、仕込が安くございませんから、へえ」

七兵衛は黙って五両と一分をそこへ抛り出して、その刀を抱えてこの店を飛び出しました。

 

長谷寺の一の鳥居。机龍之助はそこへ立ち止まって、

「これこれ、巡礼衆」

「はい、私共に御用でございますか」

「ちと、物をたずねたいが、あの長谷の観音の籠堂<こもりどう>と申すのは、誰が行っても差しつかえないか」

「えゝえゝ、差しつかえのある段ではございませぬ、人の世で見離されたものをも、お拾いなさるのが観音様の御利益でござります」

「左様か、忝<かたじけ>ない」

僻<ひが>んで取れば、この巡礼の返答ぶりも癪にさわる。おれの今日の運命は自ら求めたもので、おれは落魄<おちぶ>れても気儘の道を歩いているのだ、まだ神仏におすがり申して後生願うような心は起さぬ、龍之助の心には、充分の我慢が根を張っているけれども、差し向き今の身に宿を貸してくれるところは神社仏閣の庇の下の外はありそうもない。それで、今通りかかる巡礼に長谷の観音の籠堂を聞いて見たのであります。

夕暮の色は、奥の院から下りて来る。黒崎出雲村の方は夕煙が霞のようになって、宿に迷う初瀬詣<はつせまい>りの笠が、水の中の海月<くらげ>のように浮動する。聞かでただあらましものを今日の日も、初瀬の寺の入相の鐘は、今し、九十九間の階廊<かいろう>を下りて、龍之助の身にも哀れを囁く。

 

わが子を縁から蹴落し出家入道を遂げた西行法師が、旧愛の妻にめぐり合ったという長谷寺の籠堂。

龍之助はともかくもここで夜を明かそうとしてその南の柱の下に来ました。

 

 

 

 

 

壬生と島原の巻 了