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安中教会と新島学園

 

 新島襄先生像(安中教会蔵)作者湯浅一郎は湯浅治郎翁長男、明治元年安中に生まれ同志社及び美術学校を卒業。永くスペイン・フランスに学ぶ。二科会長老として明治神宮絵画館壁画その他に数々の人物画力作を遺し、六十四歳を以て永眠。本像は「父の像」と共に教会堂内正面を飾る。群馬県立近代美術館に作品多数。

 

 

 安中教会・新島襄記念会堂(東正面)新島先生の召天30年を記念し、大正九年湯浅治郎翁・柏木義円牧師は信徒のみならず広く内外に呼び掛けて建設した。古橋柳太郎の大谷石造りの設計はライトの帝国ホテルの5年前であった。高雅典麗の名建築と言われる。  

 

 

 左は礼拝堂内の正面講壇。礼拝堂内正面を飾るステンドグラスは小川三知作。十字架とキリストの復活を象徴する白百合の花、ベツレヘムの星、ギリシャ文字の「キリスト」の略字を組み合わせたデザインが美しい。

 

 

 新島襄先生は天保十四年正月十四日安中藩板倉候の江戸屋敷に生まれて明治二十三年一月二十三日四十八歳にして大磯の客舎に永眠せられしが其の故郷は此処なりき。維新改革の風雲中海外に脱走して在米十年の苦学を竟へて明治七年の冬家に環りて老いたる父母の健在なるを見て感涙に咽ばれしも此処なりき。

 

 

 祖父辨治翁及び雙六氏は此の帰朝を待ち詫び居たれども遂に遇はずして世を去られしも此処なりき。又明治十一年の春男女三十人に洗礼施して純粋なる日本人の基督教会を創立せらりしも此処なりき。

 

 

 然れば先生は熱誠なる我が皇国の愛国者京都に同志社大学を興して我が国民の精神を育成せられし教育者且つ此処に記念教会堂の在るをみれば故郷に於いてさえも尊ばれたる予言者なりき。妙義山よ碓氷川よ汝等永遠に此の碑を守護せよ。十年待つ父にヨセフは逢いけり神には今も古もなし。

 

 

 新島家旧邸。明治4年廃藩置県と共に江戸在勤の板倉藩士は安中に引き上げ、今の新邸に居を構えた。新島先生は明治7年11月26日帰朝、翌々日東京から人力車で此処へ帰って両親に帰朝を報告、滞在3週間の伝道の後、京都で同志社の設立に力を注いだ。

 

 

 新島学園旧校舎の本館。リゾート・ログコテージ風の建物で、左側に正面玄関があり、玄関の左側に事務室があり、次いで応接室と校長室があり、職員室と特別教室へと続いていた。二階部分は図書室だった。裏に用務員室があり、畳の部屋は教職員の宿直室になっていた。寮生たちは遊びに行くのか楽しみだった。

 

 

 創立当初の校舎は蚕糸工場の廃屋だった。終戦直後の物資が極端に不足した時代でしたので、ガラス窓といってもガラスは一枚も無く金網を張りコンニヤク粉を煮て作ったノリを塗り寒風の吹き込みを防いだ。ホームラン・ボールが飛び込むとビリッと破れ、ニイジマの破れるガラスと有名だった。

 

 

 この頃の生徒は男子のみだった。生徒は、寮生と近隣の徒歩通学生、自転車通学生、そしてバスと汽車(蒸気機関車のちディーゼル機関車)通学生だったが、榛名方面と富岡方面から山越えでやって来る自転車通学隊は団結があり優秀な生徒が多かったようだ。

 

 

 

 旧礼拝堂の前にヒマラヤ杉の大木がありました。モミの木のクリスマス・ツリーよりもずーっとクリスマス・ツリーらしい樹形をしていたので、なんとしても聖誕劇の日にはツリーに見えるようひそかにイルミネーションを"飾りたいプロジェクト"が発生し、町の人たちの協力を得て輝くツリーに仕立て上げました。

 

 毎朝の礼拝は只々じーっとして大人しくしていなけれらばならないものでしたが、賛美歌を歌うのは楽しみでした。解放されて発散できて気分よく授業に臨めたのでしょう。東京に出て仲間と飲み会を開いて、酔いがまわると必ず賛美歌が出ます。それは礼拝堂でのものとは異なり、応援歌か寮歌のように大声で歌うのです。

 

 

 清心寮のヤカン・ラーメンは深夜まで受験勉強をしている高等部生に命じられた中学部生が、舎監の先生に見つからないようにヤカンを持って抜け出し、中山道を流す夜鳴きソバを買って来たものです。寮の西側から碓氷川を渡った右に高橋パン屋がありました。お小遣いの多い高等部生はコッペパンに板チョコとアイスクリームを挟んで食べます。中学部生はアンパンですから、それはとてつもない贅沢に見えました。

 

 

 高床式の理科教室が出来て後に床下が図書館になったようでしたが、その特別教室の出来る前は田んぼでした。農業の時間があり、そこで田植えをしました。柔らかい粘土のような田土に足を入れ体重をかけると締まり抜けなくなります。水面に反射した太陽との挟み討ちで思いのほか暑く、汗をかき顔が痒くてもドロンコの手では掻くわけにも行きません。出来たうるち米は寮生のご飯になり、餅米で餅をつきました。

 

 

 

 航空写真を撮るというので、校庭に人文字を作るために並びました。校庭の南端で礼拝堂の裏の草原には、セロリが植えられていました。草むらの中で育てると、土を盛らなくても紙を巻かなくても太陽光をさえぎり、白くて柔らかくて美味しいものが出来るとの説明でした。南側の畑では空豆や枝豆を作り、さつまいもの苗の船底植えをしました。西端には相撲部とボクシング部の練習場がありました。

 

 

 学園の西と東に鯉の養魚池が点在していて、寮との間に綺麗な急流の用水路があり、シジミがたくさん獲れました。用務員さんの台所で味噌汁を作り、昼食時にクラス全員のお弁当の蓋についでも余る量が簡単に獲れました。田んぼの水路ではエビガニ(アメリカざりがに)がたくさん獲れました。昼休みに獲り、汲んだ井戸水に夕方まで浸けておいて泥を吐かせ、放課後に塩茹でして食べました。鍋が無くてバケツのままで茹でて、ハンダがとれて底が抜けたこともありました。

 

 

  

 聖誕劇は聖母マリア役を誰がやるかが最大の話題です。歴代のマリアは誰かを皆知っています。そこで、今年は誰がやるかは下馬評とぴたり一致します。当時は男子のみで女子はいませんでしたから、中一の生徒のから可愛い子を選びます。コンテストのようなことをするわけではありませんが、夏休みが終わり秋になるころには"マリア役者"がきまります。候補者は多くありませんが、誰もが納得する適任者は必ずいます。

 

 

 毎朝の礼拝は、壇上の先生方のパフォーマンスが楽しみでした。記念日などに校長の柏木先生はモーニング、牧師の江川先生はフロックコート、ともに着古した様子でチャップリンのそれを連想し、見るだけでも好奇心が充たされました。怒りの柏木先生のにらみ顔と嘆きの江川先生の飛び上がって悔しがるジャンプが、いつ出るかと固唾を飲んで見守りました。お爺ちゃんと孫たちのようでした。

 

 

 聖誕劇を型通りに作るのではツマラナイとイエス・キリストが脇役にまわり、ゴルゴタの丘で一緒に十字架にかけられたバラバを主役にしてしまいました。しかも大泥棒で有名になるまでの活躍はなぜか西部劇のガンマンで、みごとなガン・プレイを見せて大喝采をあびました。真面目と勉強をするしかない日々の中で、目一杯に頑張った不真面目と出鱈目だったのでしょう。

 

 

 学園は男子校でした。公立中学から高等部へ入って来た連中は、女子がいると何かと煩わしくて落ち着かないという。たしかに真面目でコツコツと努力するから成績もよい。先生に褒められるのは女子で、叱られるのは男子ということになる。共学になったら更衣室なんてものも出来たに違いない。男子のみのときは水泳の授業で海パンにはき換えるにもへっちゃらでパンツを脱げたものだ。

 

 

 学園が共学になって少なからず驚きを感じていたら、女子短大ができたという。しかも高崎市の市立女子高校を改築して大学にしたようだ。前橋市にある共愛学園は女子校で、学園生の姉妹がそこの生徒であることが多い。同じプロテスタントのキリスト教主義であるが、躾教育の厳しさは恐ろしい程のもので、兄弟姉妹でも一緒に繁華街を歩ってはいけないらしかった。

 

 

 学園生の活動範囲は主に安中市と高崎市です。安中市には繁華街が無かったし、汽車かバスで簡単に出られたからです。 映画館や喫茶店に入るのが楽しみですが、ちょっぴりアバンチュールも楽しみたいので、補導の先生に見つからないように知恵を絞りました。安中高校と佐藤学園の女子生徒と市立女子高校と県立女子高校の生徒とグループで交際しあわよくば"本命"とデートしたいと神に祈った。

 

 

 学園生の部活は盛んでした。生徒数が少なくてクラブの数が多いので、生徒一人が3〜5の部に所属していたのである。とくに運動部は大会に出場するために選手を集めるのが大変で、高等部は中学部の生徒で間に合わせたが、中学部は高校生を選手にするわけには行かないので大変だったようです。生徒会役員の立候補者も多く、他校訪問に熱心で、女子高の文化祭には、招待状の催促までした。

 

 

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