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この中国の仏像のページの中で最も写真数の多い項目です。雲岡石窟は京都大学人文科学研究所より刊行の『雲岡石窟』を基本図書とするのは言うまでもありませんが、私自身が撮影した雲岡石窟の仏像の数々です。無論、撮影に制限があるのは言うまでもありませが、京大の雲岡石窟は、あるところにしかありません(笑)。インターネットで雲岡の仏像の数々をご堪能ください。
雲岡石窟は北京より7〜8時間、ちょうど夜行列車で1晩ほどのところにあります。大同は今は石炭の街になっていて、経済上でも重要な都市となっています。雲岡石窟は五胡十六国時代の一部族北魏鮮卑族が中国北部を制圧したことにより、和平元年(460年)に開さくされた石窟です。最も初期に造られたのは曇曜五窟で、鮮卑族の五代目までの皇帝の姿を模して造られたといいます。曇曜とは雲岡石窟を造営するにあたって中心的な役割を果たした僧侶の名前で、途中、中国古来の道教をしんぼうする勢力が強くなったために仏教は廃仏の憂き目にあいますが、そのとき曇曜は都を一時期追われていました。その後、仏教の勢力が持ち直すと曇曜は都に帰って、雲岡石窟の造営に力を尽くしたということです。
などなど、概説的なことはこれくらいにしますが、私にとって力強い雲岡石窟の造像は大変魅力的です。故長廣敏雄氏が書いておられましたが、それまでの漢の伝統からは逸脱した造形指向はこの時代特有のもので、北方騎馬民族が仏教という西方の異文化に出会って開花させたこれらの芸術からは決して今日でも学ぶ面は少なくないでしょう。それにしても、北方の異民族であった鮮卑族は、都を大同から洛陽に遷都したことで、龍門石窟という漢の伝統を意識した造形を作り出しましたが、やはりそれだけ、異民族にとって”中華””漢”といった概念はおそろしく強大なものだったからに違いありません。自らの伝統的な文化を捨ててまで漢化しようとした意志。これは、日本人の私には、あまり理解できないことです。