インパク参加
鴻之舞・よもやま話

八鍬 金三:著

 (2)−1 生活・一般のこと
 鴻之舞が鉱山という閉塞した場所にあって、揺りかごから墓場までのたとえの通り、 会社が用意した住宅に住み、電気・水道など、すべてを企業に依存した環境では、 一部に一般の社会環境と異なった点があったとしても止むを得ないものが有ったと思う。 戦前に作られた鉱山歌に、「理想の楽土ここにあり」と謳っているが、当時の時代背景から、 そのままには受け取れないにしても、働ける限りそれほど生活に心配をすることなく、安楽に暮らせた所であった。 戦後労働組合が出来て、生活環境の向上に取り組みだしてから、大きく変っていった。賃金水準の向上とともに、 社宅の改善、水道設備の改善、冬季燃料の支給、労働環境の改善などで、生活水準は確実に向上したといえる。

 (2)ー1 町名のこと  筆者が子供の頃は、町名が異なっていた。昭和11年に居住地が広がり、新しい町名を付けるのに合わせて、 変更したようである。参考までに旧町名と対照させながら、モベツ川の上流から下へ、順に書き記してみる。
 鉱山の地域外になるが (一号は昭和区に)、地域内の住宅地で、泉町はそのまま、(金竜は金竜町に) (川向は旭町に)(喜楽は喜楽町に)(市街は元町に)(役宅は住吉町に)(五号は末広町に)泉町と栄町、 それに桜町に曙町は新設の町であり、桜町、曙町は上モベツの地域に建てられた。鴻之舞は狭い谷間にあって、 泉町の端から栄町の端まで、5.5kmもの間隔があった。再開後は、金竜町から栄町の範囲に社宅が建てられている。 (註)モベツ川を挟んで「喜楽」の向かい側なので、「川向」と称したのではないか。川向は山裾の傾斜地で、 遅れて住宅が建てられたのだと思う。

 (2)−2 居住地のこと  鉱山には従業員と共に、商店や事業者の作業員も居住し、「社外の人」と言われていた。 社宅の建設が優先されたのか、社外の人は金竜町の一部と商店街、喜楽町の一部と商店街、 元町の商店街、栄町の外れだけに住んでいた。鉱山従業員も、職員は役宅(住吉町)に、鉱員は他の場所に分かれていた。 これらも昭和30年代になると、空き地のある所にはどこにでも住宅が建てられ、鉱員が住吉町に、 社外の人も喜楽町や住吉町の市営住宅に住むようになった。

 (2)−3 鴻之舞番外地
  終戦まで戸籍の証明を取ると、本籍地は「鴻之舞番外地」となっていた。終戦後になって「鴻之舞○○町」に変っている。 戦後の映画に、網走監獄を「網走番外地」と表現するのを見て、妙なな気持ちがしたのを思い出す。

 (2)−4 住宅のこと  住宅の形状・間取りは、休山前と再開後では大きく変化している。鉱員の社宅は休山まで、 ほとんどが八戸建ての長屋であったと思う。昭和15年頃の写真で見ると、長屋にも新旧が有って、 旧い長屋 は丸屋根でカマボコ型、新しいのは軒のある長屋になっている。新しい型の長屋しか記憶にないが、 間口2.5間で奥行き4間、それに便所が外に出張り、別棟で小さい物置が付いていた。間取りは、1畳の玄関に3畳の台所、 6畳の居間に8畳の座敷がつき、居間と隣家の居間とが板一枚の仕切りで、隙間から覗けるような粗末な造りであった。

再開後に建てられた住宅は2戸建に変り、間取りは6畳6畳4.5畳の部屋に、台所と玄関に物置が付いている。 八戸建長屋も、間取りを6畳6畳3畳に造り替え、内装も建材を張って改善された。職員住宅は役職によって住宅が異なっていた。 一般職員の住宅は、間口5.5間、奥行き4間で、6畳8畳6畳の部屋に玄関、台所、廊下、縁側と物置が付いている。広いのは良いが、 冬はマイナス25度になる厳寒地なので、広いだけに一段と寒い思いをしなければならない。昭和30年代に市営のブロック住宅が建つようになり、 社員も入居できた。耐寒性が良いので入居希望者が多かった。

  (2)−5 治安のこと
 鴻之舞では夜も戸締りの必要がない、と言われたほど治安が良かった。終戦までは、鉱山自前の警備組織があって、 治安と消防に当たっていた。警察官も一人か二人駐在していたが、最盛期には人口が一万三千人と言われた地域には、不足であったろう。 鉱山の中心地に、消防署も兼ねた詰所があり、地域のはずれの上手と下手には、常駐の見張り所があって、外から入る人はもちろん、 出る人もチェックされていたようである。防火の面から、路上の喫煙は厳しく禁じられていた。夜の見回りもされて、 住人にとっては厳しさの半面安全であった。再開後は、消防は市に移管され、警備組織は無くなったが治安の良さは変らず、安心して住める所であった。

  (2)−6 鉱山内の生活設備  戦前の鴻之舞では、生活に必要な設備は、鉱山が自前で造るのを当然としていたように思う。学校・販売所・消防・病院・水道・電気、 すべてと言ってよい。規模も半端なものではなく、病院を例にとると、入院病棟は二階建て二棟に隔離病棟を持ち、ボイラー暖房で、 診療科目も充実し、坑内作業者のために、紫外線照射設備まであって、学童も利用していた。

販売所は、休山前には5ケ所(泉町、旭町、中央、末広、三王)設置され、再開後は旭町・中央・末広の3ケ所で、 主食以外にも生活に必要な物資が揃っていた。なお、他に商店街が金竜町・喜楽町・元町の3ケ所にあり、魚菜・菓子・衣類・電気店などの商店が開かれていた。 鉱山の福利として社員には、社宅・水道・電気を戦前から無料で支給していたようである。再開後に電気製品の普及で、電気料金が一部有料になったが、 冬季の暖房用燃料に石炭4トンが支給されるなど、他所から見ると恵まれた生活環境だったと思う。

  (2)−7 娯楽のこと  昭和12年に、映画の設備を備えた「恩栄館」が建設された。収容人員は二千五百人と言われた大集会場である。 昭和30年代にテレビが普及するまでは、映画が一番の娯楽で、日曜には昼夜2本立てで上映され、多くの人が楽しんだ。 運動もすこぶる盛んであった。昭和12年に、柔道 剣道 弓道の道場として光風殿(註)が建てられ、屋外スポーツには、 総合グランドの他に25mプールが造られた。他に相撲場は各町ごとにあり、祭りの時など大人や子供相撲で賑やかであった。 野球は、戦前にもチームがあって強豪だったと聞いたが、戦後はことに盛んになった。鉱山を代表するチームの他に、 職場対抗の試合が春と秋に行われて楽しみであった。

 夏の全山運動会では、町内対抗に職場対抗と、足自慢・力自慢の人たちが競いあっていた。冬季には、 2箇所のスキー場に夜間照明が設備され、多くの人が楽しんでいた。他にも  スキー遠足を楽しんだりと、長い冬も辛い事ばかりではなかった。 鴻之舞が他所と大きく変っていたのは、いわゆる歓楽街と言われる場所が無かった事であろう。それどころか、飲み屋さえ昭和30年頃まで無かった。 時代の波か、元町に小部屋の付いた飲食店が出来て、一時賑わったがすぐに飽きられて、長くは続かなかった。飲食店がない代りに、職場単位などで飲む機会が多かったように思う。 倶楽部に集まり、春は花見、秋は観楓会と、機会があれば飲み会を開いていた。 (註)閉山後に、紋別市に寄贈の上移築された。

  (2)−8 越冬米  終戦後の食糧難の頃に、冬季間の食料が光風殿に貯蔵された事が有った。米不足の頃だから春までの分が充分に貯蔵されるわけがない。 配給制で何日分かを受けて食いつなぐのだが、春先になると、光風殿の貯蔵米があと何日持つかと、口伝に聞いて心配したものであった。 鴻之舞50年史によると、昭和22年6月に紋別町に「米よこせデモ」をしている。軽便鉄道で大挙して押しかけたが、 町にも蓄えがあるわけが無く無駄足であったが、松田魚業社長の松田鉄蔵氏が、全員に鱈を一匹ずつ土産に持たせてくれ、皆は立派な人だと感激した。 その後、松田氏は衆議院に立候補して、何期か当選を続けたが、鴻之舞が良い地盤であった事は間違いない。

  (2)−9 鴻紋軌道  鉱山の拡張に要する資材運搬と、13,000人を超す人口の生活物資運搬のために、鴻之舞ー紋別間28Kmに軽便鉄道が建設された。 昭和15年(1940)着工され、18年6月完成したが、すでに4月をもって休山する事が決定された後であった。当時機関士であった宮野 博氏の話しでは、 前年中の完成予定が、元紋別の大きな沢の盛土が固まらず、鴻之舞からズリ石を運んだりしたので、工事期間が延びたとの事である。

 鉄道の施設は、機関車が4輌で、内3輌は煙突が玉葱のような特徴のある形をしていた。客車の他に有蓋・無蓋の貨車にラッセル車まであり、 小型ではあるが立派な鉄道であった。基地は元山駅に置かれ、機関庫などの施設が整えられていた。駅と停留所で記憶しているものは、 次の8駅である。始発の元山駅、住吉停留所、末広駅、桜町駅(上モベツ)、曙停留所(上モベツ)、中モベツ停留所、元紋別停留所、紋別駅で、 紋別駅は当時の国鉄紋別駅に隣接していた。大きな鉄橋は、モベツ川に5箇所架けられたが、トンネルは無く、盛土と掘割で築かれた。

 休山で解体された製錬所などの転用資材を運搬した後は、残留者の足として運行が続けられ、鉱山の人ばかりでなく、 沿線の上モベツ・中モベツ・元紋別の人たちの足にもなっていた。車両には、屋根付きの客車が2両か3両しかなく、 紋別の夏祭りなどで乗車する人が多い時には、無蓋の貨車にも乗せられて、登り坂などに排煙の熱いススが飛んできて、閉口したものだった。 冬季に大雪が降って、ラッセル車で対処しきれなくなると、従業員に出動の指令が出る。一列に線路なりに連なって、 何日もかけてスコップで除雪をし、生命線だった軌道の通行を確保したものである。
 当時は機関車の乗務員がカッコよく見えて、あこがれの的であった。ご当人たちは、暑さと寒さで大変だったと思うが、 我々にはススだらけの姿が立派に見えたのが、今になると可笑しく懐かしい。(註) 鴻紋軌道に似た軽便鉄道が、 丸瀬布町の森林公園で動態保存されている。

  (2)−10 大山火事のこと
昭和23年(1948)5月21日の春先きに、山火事が発生した。鉱山の再開準備で製錬所の基礎を測量していたが、製錬所の裏山の六号坑方面から、 煙が立ち昇るのが見えた。この時期は大気の乾燥が甚だしく、湿度が40%になる事もしばしばで、山火事がもっとも発生しやすく、大火になる危険が多い。 すぐに消火斑が編成され、筆者も現場に向かった一人だが、すでに火元に近寄れる状態ではなかった。対策として防火線を作り始めたが、 ほどなく火は八号坑の山に飛び火していき、製錬所の山からも何箇所か煙が上がりだす始末で、手の付けようがなくなってきた。

坑口から製錬所に延びる輸車路を守るために駆けつけたが、斜面の上方で煙が立っている程度なのに、コロコロと火だねが転げ落ちてくる。 そのままにするとあたりに火が広がるので、山裾に簡単な火防線を作って、燃え移るのを防ぐしかなかった。 山火事の恐ろしさは聞いていたが、聞きしに勝る恐ろしいものである。山火事が起きると強い風が起きると言うが、 その風に焼けた笹の葉が乗って、八号坑の山から鉱山の谷間を越し、1kmも離れた住吉町の裏山に飛び火して行き、たちまち火の手が上がるのが見えた。 この頃になると山ばかりでなく、道路端の土橋までがぶすぶすと煙り出し、鉱山の谷間一帯が煙に覆われて、これで鴻之舞も全滅するかと思われた。

 当日は、翌月に製錬所の起工式を控えた時期で、もしもこの山火事で鉱山の施設と社宅に重大な被害があったとすれば、多分起工式は延期になり、 再開はかなり遅れたと思われる。 建物に延焼しなかったのは、天の助けとしか思えない。さすがの山火事も夕刻になると、風が徐々に弱まり、 火の勢いも衰えて、落ち着きを取り戻していった。夜中にも、山の所々で残り火を見たが、もはや心配は無かった。山火事の原因は、 畑仕事の火の不始末でないかと言われたが、結局は分からずに終わったように思う。

  (2)−11 いろいろな行事
 正月
 正月と言うと一番印象にあるのが、大晦日の夜神社参拝に行き来する人が、雪を踏みしめて「キュッ、キュッ」と鳴らす下駄や靴の音である。 寒気の強い夜ほど高い音を出すが、この音を聞くと新年が来たのを実感した覚えがある。正月は、暮れの25日頃に餅を搗く事から始まる。 我が家では昭和43年頃まで臼で餅を搗いていた。寒気の強い日であれば、外の物置などに餅を並べて「シバレ餅」にする。シバレ餅は、 ストーブの上で焼かなくても、あぶって凍ったのが解けただけでよい餅になる。家内全員で、もち米をふかし臼で搗き、餡を入れたりノシ餅にする。 会社の勤務は30日か31日に仕事納めをした。午前中で仕事を切り上げ、道具の手入れと部屋の掃除をし、歓談しながらお神酒を頂いて、 一年の締め括りをする慣わしであった。この日は坑口で御祓いも行われた。神主と鉱山の幹部数人で主要な坑口や工場を回って歩くが、近くに居る者も参加を勧められた。

 元山第二通洞坑口で何度か参加したが、何よりも寒さに閉口した。坑口は木製の扉で閉め切られているが、ヒューヒューと坑内に吸い込む空気で風が起き、 周囲は耐えがたい寒さになる。寒気が強いほど強く吸い込むので、なお寒さが増す。神事なので防寒着を着るわけにいかず、寒さで震えが止まらない事があった。 それでも参加者はこの坑口の御祓いを付きあえば済むが、幹部の人たちは神社から始まって終日何箇所も御祓いをするので、さぞ大変な一日だったと思う。 元日の神社参拝は、除夜の鐘を合図に参る人、夜が明けてから参拝する人と様々であった。神社は鴻之舞のほぼ中央にあって、上手の金竜町と下手の末広町、 いずれからも約2kmの距離にある。神社参道の終末は一直線の険しいコンクリートの階段で、昇りは何とか登るが降りは恐ろしくて、横の少し緩やかで段の付いた、 忠魂碑の前に出る坂道を降っていた。

 元旦の行事として、恩栄館で年始の交換会が行なわれたが、ずっと継続されたかどうか記憶があいまいである。交換会の後は親しい同士で訪問しあう人、 上司の家を訪れる人などいろいろであった。何しろ鴻之舞には飲食できる場や店が無いので、個人の家に行くか倶楽部などに集まるしかない。 上司の家を訪問して飲み歩くことが、しばらくの間続いていたように思う。正月の休暇が明けると、百人一首の下の句カルタ大会が始まり、 土曜日の夜などに倶楽部の大広間でチームごとに優劣を競い、明け方近くまで元気に戦われていた。

  スキー大会
 日差しの時間が延びて、寒さがいくらか緩む3月初め頃にスキー大会が開催された。 スキー場は、初め住吉町の下手に有ったが、鴻紋軌道の敷設で神社の向かい側の山に移され、軌道の廃止で清明寮の向かい山の斜面に設備された。 また金竜町にも小型のスキー場が設けられ、いずれのスキー場にも夜間照明が設備されていた。スキー大会では、直滑降・回転競技・距離競技の他に、 徒歩のミカン拾いなどの競技もあって、スキーの出来ない人も楽しめた。昼食には豚汁のサービスもあって、大人にも子供にも楽しい一日であった。

  祭りと、お盆のこと
 鴻之舞では祭りを8月の盆の日に合わせて行った。昔からの慣わしで不思議に思わなかったが、他所から来た人には奇妙な事だったようだ。 先祖の供養をしながら、軒先には祭りの印の花飾りを挿し、子供神輿に付き合ったりする。何時決められたのか分からぬが、おそらく鴻之舞だけのことと思う。 この時は、神社で相撲が開かれたり、野球大会や映画が上映され、花火の打上げと盆踊りも行われた。花火は映画の後で打ち上げたが、花火の数が少ないためなのか、 一発一発ゆっくりと間を置いて打上げられる。もう終わりかと思った頃に「パーン」と上がる。今から思うと花火の種類が少なく、気の抜けたような花火であった。 盆踊りは小学校の校庭にやぐらを組んで行われた。昭和30年代の初め頃まではたくさんの人が輪を作って踊り、やぐらの上ではのど自慢の人が声を張り上げて唄い、 夜遅くまで賑やかであった。だがそれも時代の波か、次第に子供とほんの少しの人が踊るだけになり、だんだんと淋しくなっていった。

  (2)−12 索道
 昭和16年頃の鴻之舞鉱山には、鴻之舞ー丸瀬布と、元山製錬所ー倶知安内(五号坑)、それに倶知安内ー三王坑と3本の索道があった。 元山と倶知安内で、3本の索道の始点と終点が接していて、見方によれば丸瀬布から上藻別のクチアンナイ沢の三王坑まで、総延長約20.1kmの索道でつながっていたようなものである。 現在と違い、トラック輸送が発達していない当時では、鴻之舞鉱山の発展に必要不可欠なものであったろう。記録と記憶を頼りに、各索道のあらましを記してみる。

  鴻之舞ー丸瀬布間索道
 昭和7年から稼動を始め、昭和27年か28年頃まで運行していたように思う。地図で見ると全長は約13.5kmで、中継所が紋別市と丸瀬布町の境界で、 海抜570mの第二焼山坑近くの尾根にあった。鴻之舞から中継所までは約7kmで、中継所から丸瀬布方向にはわずかに右に折曲がっていた。索道は単線式で、 丸瀬布より鉱山の資材と、生活物資を運搬するのが主目的であった。鴻之舞側は、元山製錬所とは傾斜なりの建屋で続き、南側の上端に位置していて、 さらに棟続きの反対側には、元山ー倶知安内索道の起点があった。丸瀬布側の起点は、丸瀬布駅から少々遠軽よりにあり、鉱山の出張所が設置され、数人の係員が常駐していた。 焼山の中継所には、両索道の搬器を押す人が6−7人常駐し、人里離れた山中に長屋が一棟建てられ、不便な暮らしをしながら索道を守っていたようである。 索道を支えるヤグラはすべて木造だったと思うが、高いものでは50mを越すものを設計図で見た事がある。強風が吹くと運行が止まり、時には搬器の落下もあったと聞いた。 鴻ー丸索道で働いた人の話だが、仕事で一番難儀したのは、ヤグラのロープを支える車輪に油を補給する事だったと聞いた。山中の藪道を歩き、高いヤグラを昇り降りするのがいかに困難か、 理解できるような気持ちがする。

  倶知安内ー三王坑間索道
 昭和10年12月に完成し、18年に休山するまで三王坑の鉱石を運搬していた。索道は単線式で、運搬能力は300トン/日、地図上の延長は約4.7km、 倶知安内側は、元山製錬所ー倶知安内索道と接していて、鉱石を降ろす所が、倶知安内ー元山索道の積込み口の上に位置していた。記録では、 三王坑の昭和16年の産出量が22,623トン/年で、1日に100トン前後の鉱石を運搬していたことになる。索道の路線は、五号坑第一通洞坑口付近を通過し、五号坑の山の尾根を越し、 終点は桜橋付近でモベツ川から分流するクチアンナイ沢の上流1.5kmあたりにあった。そこは三王坑の基地で、通洞の坑口と事務所の他に従業員の社宅が立ち並び、 鴻之舞の住宅街と変わらぬ風景が有ったのを記憶している。

  元山製錬所ー倶知安内間索道
 昭和7年5月に単線式で運行を始め、10年7月に複線式に取替え、17年に倶知安内製錬所が完成して運行を止めた。 倶知安内坑(五号坑周辺)と三王坑の鉱石を、元山製錬所に運搬するのが役目のすべてで、運搬能力は900トン/10時間、延長は約1.9kmであった。倶知安内側の積込み場は、 八号橋を渡った正面の山際にあり、建屋は二階建で、上の階は三王坑索道の降ろし場と、五号坑などから搬出された鉱車の鉱石を降ろすチップラー場を兼ね、 下の階は元山向け搬器の積込み場であった。元山側は製錬所の破砕場に接していて、運搬された鉱石は直ちに破砕場の貯鉱舎に取り込まれた。索道の路線は、 青雲寮と元町の住宅街、それに住吉町の住宅街と、かなりの部分が住宅地の上を通過していた。昭和16年に運搬した量は40万トンに及び、1日当り1,300トン余りを運んだことになり、 搬器は夜分になっても運行されていたように記憶している。索道は恩栄館の付近で道路の上を横断し、防護ネットが張られていた。ヤグラはすべて鉄骨であったが、 複線式に替えた際に木造から鉄骨に建替えられたものと思う。

  (2)−13 沈澱池
 鴻之舞鉱山には鉱滓を溜める沈澱地が、第一から第九沈澱池、扞止堤沈澱池、末広沈澱池と、合わせて11ケ所設けられている。沈澱池は、掘り出した鉱石を砕き磨り潰して、 金銀を取り出した後の鉱滓を溜める場所だが、取り出す金銀の量は微量であるから、鉱滓は鉱石の量とほとんど変わりない。開山から昭和41年までの記録しか手元にないが、 その間の処理鉱量は1千47万3千トン余とある。この膨大な鉱滓を泥状にして樋で流し、沈澱池に溜め置くのだから、当然多くの沈澱池が必要で、また鉱山の操業を円滑に進める為には、 無くてはならない重要な施設であったろう。貯められた鉱滓は微細な粒子のためになかなか固まらず、事故で堤防が決壊するとモベツ川に流出し、大きな被害を与えたようである。 昭和10年に起きた流出事故では、モベツ川を流れ下った排泥は19km下流のオホーツク海に達し、深刻な公害問題を起している。最終的にモベツ川河口一帯の漁業権を買収して解決した事をみても、 鉱滓の処理には苦労が付きまとっていたようである。沈澱池は放泥と沈澱を繰り返し、満杯になると乾燥させて土砂を50cm程度土盛りし、更地として利用している。以下に各沈澱池の利用状態を記してみた。

  第一沈澱池
 大正14年に、元山露頭から鴻之舞側に製錬所が移され操業を始めたので、沈澱池の使用も同時であろう。製錬所のすぐ近くで、北側は神社参道に面して南は販売所横の道路まで、西側は鴻之舞道路に面している。 南北に約200m、東西約150mの広さで、堤防の高さは高い所でも5−6m程度で浅い。使用後は総合グランドとして利用され、野球場も作られた。小学校の運動会も行われたが、 強風が吹くと白い鉱滓が舞上がり、閉口した覚えがある。鴻紋軌道の敷設で、沈澱池の大半が元山駅と機関庫の敷地になった。また沈澱池の堤防と道路の間には、消防署や労働組合の事務所が建てられ、 土手の一部は崩されて光風殿が建てられた。再開後は住吉坑第四通洞のズリ捨場に利用された。伝え聞いた話だが、初期の製錬所は金銀の実収率が低く、排泥の中にかなりの金銀が含まれていて、後に再製錬をして回収したと言う。

  第二沈澱池
 元町と住吉町の川向に築かれ、川沿いに約400m、幅は広いところで150mほどある。沈澱池の深さは15mから20mで、中央の土手で半分に仕切られている。 築造年月は明らかでないが、第一沈澱池の規模が小さいことから、昭和の初期に造られたのでないかと思う。第二沈澱池跡には、中学校が建てられ、総合グランドと野球場が造られたので、 鴻之舞に住んだ者にはなじみの深い場所である 鉱滓は木樋で流され、元山製錬所から病院横付近を通り、モベツ川を渡って対岸の山腹に至り、 第二沈澱池に注がれた。木樋はこの沈澱池から山腹を這うようにして伸びて行き、第三・第四沈澱池を経て、最終的には五号坑のガンケ(岩頭)対岸下手に造られた第五ー第九沈澱池まで延長され、木樋の全長はおよそ3,500mにもなった。排泥の流れる木樋からは泥水が漏れ、木樋の敷設された所は鉱滓で白々としていた。 <  第三・第四沈澱池  昭和5年の第一次起業と、8年の第二次起業で造られたと記録にある。第三沈澱池跡には、再開後に総合事務所や採鉱事務所、工作所・倉庫などが建てられ、鴻之舞鉱山の施設が集中している。第四沈澱池跡には、戦前に朝鮮人労働者の住居や、寮が建てられていたが、再開後は貯木場などに利用された。鴻ー紋軌道の軌条が両沈澱池跡に敷設され、五号坑々口下には末広停留所があった。第四沈澱池は昭和9年10月に水門が決壊し、鉱滓がモベツ川を流下し、オホーツク海に流れ込んで深刻な公害騒ぎを起こしている。

  第五ー第九沈澱池
 昭和9年の第三次起業で第五・第六沈澱池が造られ、昭和12年の第四次起業で第七・第八・第九沈澱池が造られている。再開後は、昭和28年まで主要沈澱池として使用され、扞止堤沈澱池が使われてからは予備沈澱池になった。第九沈澱池は昭和47年の水害で決壊している。この時の大雨では決壊した沈澱池だけでなく、他の沈澱池の堤防も所々から鉱滓が滲み出し、堤防の脆さと保守の難しさ、それに携わる人の苦労が感じられた。

  扞止堤沈澱池
 この沈澱池はクオノマイ沢を堰き止める形になっていて、発電所のダムに似ている。 第九沈澱池を最後に、平地に沈澱池を造る場所が無くなったことから計画されたものであろうが、まことに壮大な沈澱池を考えたものである。扞止堤沈澱池の堤体は、クオノマイ沢入口から700mほど入った所で、モベツ川沿いの道路からは見えにくい位置にある。計画図では、完成時の堤長が333m、堤体の底の厚さは345m、高さは93m、沈澱池の容量780万立方メートル、乾容量995万トンである。(安田 旺氏論文より) 昭和14年に着工し、昭和18年の閉山までに堤高63m、容積160万立方メートルの沈澱池が出来たが、休山で工事は中断した。昭和20年頃に山菜採りに行き、その当時の扞止堤を見たが、固く突き固められた堤体が堂々と沢をふさいで聳え立っていた。堤体横の道を登り内側に降りると、中央に溜水を流すコンクリートの塔が立ち、その巨大さに異様な圧迫感を受けたのを思い出す。

 昭和28年1月に使用を開始したが、鉱滓は製錬所に設置したポンプによって圧送された。送泥管を吊橋で向側の山腹に渡し、当初は山頂まで上げてから沈澱池に流下させたが、後に山腹にトンネルを掘り、低い位置で流すように変更された。 扞止堤沈澱池は、昭和48年の閉山まで約20年間使用を続けている。最終貯泥量などは資料が無く不明だが、国土地理院の地形図で見ると、沈澱池の標高は244mと記されている。計画図の最高堤体高さが253mとあるので、双方の数字が正しければ貯泥の高さは84mになり、若干の余裕を残して終わっている。  うろ覚えだが、扞止堤の築堤工事を見た記憶がある。堤防下の沢沿いに多くの飯場が建ち並び、遠くの現場では無数の人が山肌に取り付き、レールの上を人力で土方トロッコを押し、土砂を運搬しているのが見えた。この沈澱池の築堤には、タコ労働が有ったと、子供の頃に聞いた事があった。人夫の中には、労働に耐えられずに脱走した者が居たようで、軍用犬を使って山狩りをしていると、大人が噂をしていたのをおぼえている。その結末は知らないが、たとえ山中に逃げ込んだとしても、あの道も無い奥深い山では到底逃げ切れるわけがなく、末路は哀れなものであったろうと思う。

  末広沈澱池
 昭和37年以降の鉱山の縮小措置で、末広町社宅が解体され、昭和40年に沈澱池が築造された。道路沿いに350mほど、幅は100mばかりの比較的小規模の沈澱池である。現在は土砂が盛られ、潅木と草が生えて鉱滓の溜跡とはとても思えない風景である。

  (3) 坑内全般の事
 数年前に機会があり、菱刈鉱山の坑内を見ることが出来たが、軌道が無くて自動車が坑内を走り回るなど、30年以上も前の鴻之舞と比較すると、あまりの違いに驚いた。しかし鴻之舞鉱山でも、多くの坑それぞれが違い、同じ環境のものは無いのだから、比較すること自体意味が無いといえる。鉱床(坑)によっては酸化熱で暑い場所があれば、通気(空気の流れ)が良すぎて寒い所もあり、乾燥が激しくて歩くと粉塵が起つ所があれば、湿度が高くてジメジメした所がある。

 また湧水の多い坑があるなど、坑内環境はそれぞれに全部違う。坑内経験の無い人でも、佐渡金山などのように観光化した坑内や鍾乳洞で、擬似経験をした人は多いと思うが、それと数百人もの人が働く坑内では、かなり違いがある。この先は、鴻之舞鉱山の坑内はどのような所だったか、記憶をたどって書いてみるが、興味があれば目を通していただきたい。しかし、前もってお断りしておくが、内容の多くは変化を続けた坑内の、一時期の出来事を取り上げたに過ぎないのであって、すべてでない事をご理解願いたい。機材や設備の改良と、作業の合理化などで変化が早かった。

  (3)−1 五号坑のこと
 再開後の鴻之舞鉱山で、採掘の対象になった主な鉱床は、元山坑・五号坑・住吉坑・藤島坑だが、その中でも五号坑が主力鉱床であった。戦後鉱山を再開した頃には、五号坑鉱床の露頭はすでに採掘されて、見ることは出来なかったが、鴻之舞の紋別寄りのところに、露頭と見間違うような大きなガンケ(突き立った岩)が有る。鉱床(脈)の東の樋先に位置して、鉱脈はガンケの北側にあるが、露出はしていない。鉱脈の下盤の岩が固かったために、岩頭で残ったものであろう。春先にはエゾムラサキツツジの群落が咲くので、記憶されている方は多いと思う。ガンケの裏側でモベツ川の岸に240ML坑口があるが、岩の陰で見えにくい場所にある。西側には沢をはさんで200ML東坑口があって、坑内用水はこの沢からも取水され、ポンプアップの上坑内に送られていた。

  竪坑について
 再開されてからの五号坑は、200MLより上部の鉱脈はほぼ掘り尽くされていて、下部坑道の270MLから430MLが採掘の対象であった。そのために鉱石は、第一竪坑か東部斜坑で200MLまで巻上げて搬出した。昭和33年に鉱石運搬専用の第3竪坑が掘削されるまで、第一竪坑は重要な出鉱ルートであった。第一竪坑は、200MLから500MLまで300mを掘下げ、約40m間隔にプラットホームが設けられ、これを起点に下部鉱床の開発がされた。竪坑の断面は約10mX3mで、内側を太いナラの角材で枠組みし、3間に仕切られていた。ひと間は保守用の人道梯子に排水パイプと送電ケーブルを敷設、残りのふた間がケージ(鉄製の籠)の運行用であった。

ケージは上下2段造りで、人の昇降は朝・昼・夕の3回に定められ、他の時間はすべて鉱石と機材の運搬に使われた。鉱石の運搬手段には、ケージに鉱車を積む他に、ケージの下にバケットを取り付けて、巻上げる方法もとられた。枠組が曲がっていたのか、ケージは揺れが激しく乗り心地は良くなかった。昇降の合図は、ブザーで信号を巻揚機室に送り運行された。巻揚機の運転者にはプラット(プラットホーム)が見えないので、プラットマンの合図だけが頼りであった。信号は、ブザーのボタンを短く2回押すと昇りで、3回押すと降り、長く押すと停止だった。人の昇降は、先に長く押してから短い信号を押すことで区別した。 註 第二竪坑は八号坑に設けられた

  斜坑について
 斜坑には、鉱石運搬と材料運搬用があった。鉱石運搬用は東部のE140Bと、西部のW100Bの二箇所に掘られたが、西部斜坑は岩盤が脆弱なために、鉱山を再開した時は崩壊していた。東部斜坑は傾斜50度で、200MLから430MLに達し延長は約360mあった。斜坑の岩盤は堅牢で、留枠で支保をしたところは無かったと思う。加背は幅が約5mに高さが2.5mほどで、太い角材の台枠に複線のレールを敷設した。この斜坑は主に五号坑東部の鉱石が運ばれ、積込み設備は350MLと430MLの2箇所に設置され、バケットに積んで200MLまで巻上げた。材料運搬斜坑は、五号坑西部で大量に消費した坑木類を補充するために設置された。200MLから350ML間に掘られ、軌条は単線で、加背は約3mX1.5mと小規模なものであった。

  その他の運搬設備
 鴻之舞50年史によると、昭和9年頃まで鉱車は馬で引いていたと言う、その後トロリー電気機関車と蓄電池機関車に替え、昭和30年代にディーゼル機関車に替えたと記載されている。6トンのトロリー電気機関車は、主要な通洞の鉱石運搬用で、休山前は元山坑と五号坑で使用されたが、再開後は五号坑のみで運行した。蓄電池機関車には2トンと4トンがあって、坑内の各レベルの坑道で鉱石と機材運搬に多数使用されていた。ディーゼル機関車にも6トンと4トンの2種類があり、坑内通気の良いところでは、次第に電気機関車に替えて使われていった。鉱石やズリを積む鉄製鉱車には、1トンと2トン積みが有って、丸底の鉱車・傾転装置付きの鉱車など、様々な鉱車がその時代に応じて使われた。他に木製で、手軽に組立てと解体の出来る鉱車があり、鉄製鉱車が使えない中段坑道などでは必要なものであった。

  第一通洞
 通洞の坑口は、露頭から200m下がった位置にあって、作業員の入出坑・機材の搬入・鉱石の搬出など、すべてがこの坑口を通過した。通洞の延長は750mほどで、幅が約5m・高さが3.5mほどの加背であった。700m付近で左右に分岐し、鉱石の主要な運搬ルートであった。全体に岩盤は堅牢で、一部に鋼鉄の枠を巻いた所はあったが、ほとんどが素掘りのままだったと記憶している。坑口から450m付近に坑内火薬庫があり、ここで火薬の受払いがされた。 通洞には複線の軌道が敷設され、車両の運行は一方通行に規制されていた。坑内通気の主要な入気坑口で、空気は坑口から奥に流れるが、冬季になると強風状態になり、耐えがたいほどに寒くなる。滴下する地下水はツララになって垂れ下がり、レールにも氷が付いて危険なので、坑口に木製の扉が設置されたが、鉱石運搬の列車が通るたびに扉が開かれてドッと風が吹き、寒い思いをしたのを思い出す。

 700m付近で通気が3方向に別れるために空気の流れがゆるくなって気温が上がり、湿度が増してベタベタした感じになる。坑内作業員の入出坑のために、朝夕の1回人車が運行された。また通洞には排水の側溝と、さく岩機の動力にする圧縮空気を通す太い鉄管、送電のケーブル等が敷設されていた。 閉山から24年過ぎた平成13年に、係員の方のご好意で通洞を見せて頂いたが、坑口を巻いたコンクリートにひび割れが見え、剥がれたような所もあって時の流れを感じたが、「洞通一第内安知倶」と、文字を右から左に刻んだ石板が無事で、文字もはっきりと読み取れたときは、それまでの懐かしさと寂しさの他に、まだ鴻之舞が存在することを実感することができた。坑口の扉は鉄製に替り、内部にはすでに軌道が無く、坑木が数本あるだけの状態であった。外光が入らなくなり、暗くなる手前まで歩いてみたが、昔ほど広く感じなかったのは意外であった

  坑内基地
 第一通洞が着脈した付近は、岩盤が堅牢だったせいか、多くの施設が集中して造られていた。主要なものを挙げると、まず第一竪坑がある、後に鉱石専用の第3竪坑が掘られ、他にも100人規模の作業員休憩所、40人規模の係員詰所、機材倉庫に電気設備、機関車の車庫等々、すべてがここに集中していた。それぞれが別個に位置しているが、接近していて板壁で仕切られたものも有った。閉山でこうした仕切りが取払われた現在はどんな情景か、さぞ広々とした空間が広がっている事だろうと思う。

 当時作業員は人車から降りると、下部坑道に行く者は竪坑で降り、他者は休憩所で着替えて作業場に向かう。休憩所は下部坑道にもレベルごとに有り、昼食はここで食し、湯が沸かされていた。また作業衣の乾燥室も設備されていた。

  (3)ー1上水道のこと
 上水道の事を書いてみようと思う。施設の内容は知らないが、水道が敷設される前の こと、水道栓の事など、記憶にある事を書き綴ってみる。

  施設のこと
 鴻之舞鉱山の上水道は、昭和11年5月に着工と記録にある。他の施設と同じく鉱山が 自前で敷設し、保守は工作課の土建係で、専任の担当者が3−4人居たように思う。 水道敷設当時の鉱山の規模は、製錬所の処理量が1,200トン/日で、労務者数は1,850 人、戸数は800戸であった。住民数の記録はないが、5,000人から5,500人と推定され る。その後鉱山の拡張で、人口は13,000人まで増加しているから、上水道の規模はか なりのものと言えよう。 水道の水源はダムでなく、モベツ川からポンプで汲み上げていたようで、水源池とい われたポンプ場が、金龍町の川の近くに有った。

  上水道敷設前の水源
 昭和11年頃の私の住居は、末広町(当時は五号と称した)の八戸建て長屋であった。 各長屋の片側に井戸が有り、ブリキの桶を投げ入れて汲み上げていた。井戸といって も地下水の溜まる井戸でなく、底に樋のある浅い「流水井戸」である。 水源は、末広町と住吉町境の「関の沢」で、水は沢の上流から樋に導かれて、長屋の 各井戸に引かれていた。濾過や浄水のされない生水で、衛生上安心できる水とは言え ない。

 沢水を引き込む井戸のためか、沢の生物などが流れてきて、底浚いの時に大きなザリ ガニを掴み上げ、見せられたのを覚えている。ザリガニは、陽の当たらない井戸底に 居たためか、甲羅が青白く、ふだん見ているものとはまるで違っていた。 末広町は流水井戸だったが、他の集落や社宅の水源となると、様々だったに違いな い。飲料水に適した地下水が有れば、一番に井戸を掘ったに違いなく、旭町の山手側 の社宅では、しばらく後まで井戸が有り、深井戸で冷たい水が飲めた。 ホームページを主宰の有田氏に、その頃の住吉町社宅の水源をお尋ねしたところ、 「ポンプだったように思う」との事だった。手押しポンプが備わっていたようであ る。水道が敷設されるまでは、沢水でも湧水でも、利用できるものは何でも、水源に利用 されていたに違いない。

記憶に有るものでは、小学校向かいの伊藤旅館の横道を進んだ、教員住宅下のモベツ 川岸の崖に良い湧水があった。暑い運動会の日に、冷たい湧き水を汲みに行かされた 覚えがある。湧水箇所まで崖を下る小道があって、水を受ける桶に柄杓が添えられて いた。すでに水道が敷設されていたが、その後も近所の人に利用されていたようであ る。 しかし、沢水や地下水はたとえ豊富でも生水で、当時の便所が汲み取り式であった事 からも、早くに上水道を敷設した鉱山の処置は賢明だったと思う。

  水道栓のこと
 職員社宅は各戸に水道栓が付いたが、従業員社宅は共同水栓であった。八戸建て住宅 は、井戸とは反対側の端に一箇所で、二戸建て住宅は二棟の中間に設置された。八戸 長屋は端から端まで36mあって、水道栓と反対側の住人は重い水を両手に下げて、日 に何度も往復しなければならい。女性にとっては重労働だったと思う。反対側の長屋 の水道はいくらか近いが、多くの長屋は傾斜地を平らにして建てるから、道は急な坂 になっていた。  共同水栓は特異な形をしていた。厚い鋳鉄製で太さは20cm程も有り、ズングリとして 都市の消火栓に似ている。形ばかりでなく構造も、回して開ける水栓とは違い、15セ ンチほどのレバーが鍵で、上下に動かして栓を開け閉めした。 レバーを下げて閉めると、水は管内の凍結しないに場所に落ちて溜まり、開けると溜 まり水を吸い上げながら吐出し、溜まり水が無くなると空気を吸い込み、泡混じりの 水になる仕組みのようである。

 このような仕組みから使い方にコツがあって、栓を開けたら勢いよく水を出し、止め るのは水が泡で白くなるまで待ち、閉める時は一気にレバーを戻せと教えられた。厳 寒期などにこの教えを守らないと、管内の水が昼間でも凍結することがあった。 屋内の水道栓であれば、使わない夜間に元栓で水抜きをすれば良いが、戸外の水道栓 は、水を出すたびに水抜きが必要で、このような構造になったのだろう。 共同水栓の使い方を誤ると、水が抜け落ちないばかりでなく、水道栓の内部から溢れ 出すことがあった。夏ならば水が漏れるだけで済むが、厳冬期になると、たとえ水が 溢れ出ていても凍結を起こし、一晩も放置すると内部まで凍り、湯や火で暖めても解 けないと、会社に修理を頼むしか方法がなかった。  こんな事態になると、長屋の人全部が大迷惑で、冬期になると水道栓の鍵は近くの家 で預かり、昼間でも子供の使用は禁じられ、夜間の水汲みは避けるようにしていた。 このように、様々な苦労のあった共同水栓も、のちには従業員社宅にも各戸に水道栓 が付き、苦労が解消した。

  月刊「鴻之舞」新聞で見た上水道の記事
 昭和38年3月25日号の、水道水の節水を求めた記事の中で、共同水栓の数が162本と記 載されている。この年の10月に鉱山の縮小と、配置転換が始まっているので、鉱山再 開後の最大本数と思う。また、昭和30年2月1日号には、「凍結しない水道の使い方」と、記事が有るので引用 してみる。

 「・・・・・・皆さんも苦い経験を積まれ、すでに知っておられることとは思います が、水道の凍らぬ秘訣を簡単にお知らせいたしましょう。それは水道鉄管に水を残さ ぬことで、水を止める場合にコツがあります。 水を出す時、チョロチョロ出したり、止めたりは禁物、出したならゴーゴー、水の噴 出するまで待ち、白い泡立ちが見えてから勢いよく止めること(こうすると鉄管の中 でコトコトと音がする。これは全部放水管に吸い込まれ残り水がない証拠)これでも なお凍るならばパッキンの故障か、水圧が非常に低いためですから世話所まで一走り することです。  さて、共用栓を絶対に凍結させずに使用しておられる社宅がありますので、一寸御披 露致しましょう。共同水栓を使う全社宅間の申合わせにより、水道使用は午後七時ま でとし、共用鍵は月当番社宅が保管の任に当り、午後七時には必ず前記の方法によ り、一度泡立てまで出水し、勢いよく止めておるそうです。」

  (3)ー2 元山坑
 元山坑は鴻之舞鉱山発祥の地で、昭和18年の休山前までは日量1000トン以上を出鉱し、開山以来鴻之舞鉱山の主要な鉱源であった。
鉱脈は、本鉱床・第一・第二・第三鉱床と大鉱床群を誇っていたが、昭和18年の休山時には、品位の良い場所は大部分が採掘され、昭和24年に鉱山を再開した時に採掘の対象になったのは、第一鉱床と第二鉱床のみであった。それさえも第一鉱床で細脈を新たに採掘した以外は、大部分が採掘跡の竜頭(注)と、坑道の踏前部分などの残掘部分で、鉱床の終掘を覚悟した上の採鉱であった。

 元山坑全体の広がりは、南北方向に1.7Km、東西方向に約1.4Kmで、本鉱床と第一鉱床はほぼ接していた。第一鉱床と第二鉱床は700m離れ、さらに第三鉱床は600mの間隔がある。 坑道図を見た記憶をたどると、最下部の坑道は露頭下300mで、第一鉱床、第二鉱床、第三鉱床が、二ないし三レベルの坑道で連絡されていた。鉱石を製錬所に搬出した170ML第二通洞は規模が大きく、 休山前は坑口から第三鉱床まで約2,500m間に複線の軌道が敷設され、有線の6トントロリー電車が運行されていた。 また、第二鉱床には大きな竪坑があったのを記憶しているが、再開後は170ML以下の坑道は一部を除いて開坑せず、230ML以下は水没して、再開後の鉱山しか見ていない筆者には、書き記せる事は少ない。  昭和37年に藤島坑の開発が始まり、本格的な出鉱が始まるのに合わせて、元山坑から連絡坑道が掘られ、切上がりで藤島坑と連絡して、第二通洞を利用した坑内ルートによる出鉱路が確保された。

 藤島坑の鉱石が製錬所に到達するまでは、約6,800mもの距離をディーゼル機関車で引かれていた。まず藤島坑で高低差50mのシュートに貯鉱された鉱石は、鉱車に積み込れて元山坑の第二通洞を2,900m運ばれ、 そこで住吉坑230MLにつながる60mのシュートに落下させる。再び鉱車に積込まれた鉱石は、住吉坑坑口でいったん坑外に出て病院横の輸送路を通り、モベツ川向いの坑口から八号坑の200ML坑道を通過して、 製錬所下の地下破砕場に到達した。  こうして元山坑は、昭和46年に藤島坑が終掘するまで、鉱石運搬の輸送路として重要な役目を果たしていた。
(註) 「竜頭」・・・鉱脈を採掘する際に、岩壁の崩壊を防ぐために残された鉱脈の残部分。

  ● 元山坑露頭
 元山坑で露頭と言えば、鉱山発祥の本鉱床の露頭を指した。元山坑には第四露頭と呼ばれた場所があるので、他にも露頭があるようだが、筆者は本鉱床と第四露頭しか見ていない。

 鴻之舞鉱山発見の物語に「露頭の鉱石を分析したところ、金300グラム以上、銀はその10倍以上・・・」と記されているが、まことの事であったと思われる。これは筆者の想像だが、 露頭の石を欠き取った時に、山吹色のベタ金を見たことも考えられる。戦後に鉱山を再開した時には、露頭はもちろんの事、鉱脈の富鉱部も掘り尽くされて、 伝説の高品位鉱を見ることは出来なかったが、表土の中に埋もれた転石の欠けらに、わずかにその面影を見ることができた。露頭の鉱石は、他の鉱脈と比較して金の比率が高く、 運が良いと欠けらを割った時に、山吹色のベタ金が見えた。筆者も何度か見ているが見事な黄金色で、他坑では見られない鮮やかな金色であった。崩れて土中に埋もれた露頭の転石は、 休山前にも表土から掘り出し、拾い集めて出鉱したようだが、再開後は機械力を使い本格的に採掘した。初めの頃は篩いを掛けて、さらに手選で選別をしていたが、 篩目から落ちた土にも金銀が含まれていることに気づき、大きい岩石以外は、ほとんどが鉱石として製錬所にトラックで運ばれた。
(註)
 元山坑露頭の事をなぜか「テンセキ」と呼んだ。休山前からで、露頭周辺に行くときは「テンセキ」に行く、と言ったように記憶している。筆者は、鴻之舞発祥の場所に敬意を込めて、 「天石」の文字をあてるのかと勝手に想像していたが、どうも「転石」が正しいことに気付いた。露頭の採掘と転石集めは、露天掘りとして、古くから盛んに行われていたようである。

 平成十四年九月に、紋別市立博物館を見学して、元山坑露頭の鉱石と言うの見た。鴻之舞鉱山のコーナーの前に、金銀の模型と鉱石の標本がケースに入って飾られていたが、 鴻之舞鉱山では見た覚えの無い鉱石であった。標本は、長さが約40センチで幅が約20センチ、厚さが約10センチである。一部切断されていたが、断面は濃い褐色でコーヒー色状とでもいうか、 それに鈍い銀色状の光るものが見え、一見したところでは、鉛か亜鉛の鉱石と感じた。そのうえ表面には白っぽいものが張り付き、いっそう金鉱石らしくない。鴻之舞鉱山の高品位の鉱石と言えば、 白い石英か薄茶色の石英に、濃い銀黒の縞が入ったものが普通である。館員の説明によると、元山の露頭の石で、長く神社に納められていた物だと言う。切断面の光るものは金銀で、サンドペーパーで磨いてみたと話していた。 磨くのならワラで磨くと良いと話したが、あのような鈍い光りかたは、銀分の多い金銀鉱に見られるもので、自然金が見られた転石の鉱石との違いに、正直のところ戸惑いを感じた。
(注)紋別市立博物館の鴻之舞のコーナーに、人形がローダーを操作して鉱石を積み込 む場面がある。そのローダーの前に置かれた鉱石は、「第二露頭から掘り出してき た」、と説明を受けた。どの鉱床のものか興味がある。

  ● 本鉱床・第一鉱床
 本鉱床は、元山坑露頭の部分でも書いたが鴻之舞鉱山発祥の鉱脈で、大正4年に発見され、5年に開発に着手したと記録にある。鉱脈の走行はN70°Wで、南に55°傾斜している。 露頭は高品位の鉱脈であったが、100m下の坑道探鉱では期待していた富鉱帯は見つからず、大正9年頃には閉山論議がされるまでに深刻な事態になっていた。こんな悲観的な見方を覆したのが、 大正12年に掘削した170ML第二通洞で、掘進すること840mで良好な鉱脈に着脈した。さらに昭和3年には、本鉱床より南方に向けて掘進した立入れで、のちの第一鉱床の高品位の鉱脈が多数発見され、 鴻之舞鉱山の明るい見通しが約束された。第一鉱床は、脈の走行が本鉱床と同じくN70°W、傾斜は85°北落しである。この鉱床には露頭が無いといわれ、鉱脈の採掘も100ML坑道より20mほど上が限界であった。鉱脈の下部は300MLまで坑道が掘られたようだが、 戦後の鉱山しか知らない筆者には、状態は分からない。第一鉱床は鉱脈の数が多く、脈名は幅が約1m以上のものには、一脈から六脈の名称が付けられ、 その間の狭い脈には、立入れ口を起点に○○m樋(金偏の樋を使うが当用漢字になく当て字を使用)と脈名をつけた。脈数が一番多いのは130MLで、全体では50本以上あったと思う。鉱脈の傾斜はほとんど垂直に近く、 採掘跡の空洞に立つと、岩盤の支えがなく天井の見えない空間は恐ろしくて、長くは立ち止まって居れなかった。

 ● 第二鉱床
 昭和9年4月に、第一鉱床から積善坑向けの南押し坑道で発見された。第一鉱床の南方700mに位置して、鉱脈の走行方向は本鉱床・第一鉱床と同じだが、傾斜は45°南落しで緩い。鉱床の規模は、 鉱脈の延長400m・深さは200m・平均幅6m・金10g/t・銀80g/t内外と公表されている。第二鉱床の特徴は、他の鉱脈に比較して傾斜が極端に緩いのと、場所によって坑内温度が高く、 また極度に乾燥して粉塵が多かった。温度が高いのは、含有物の硫化鉱の酸化熱によるもので、金銀の品位が高い所ほどその傾向が強かった。富鉱部の鉱石は、きれいな白色の石英に鮮やかな銀黒の縞が入り、金銀鉱の標本にしたいような感じであった。 採掘では、脈の傾斜が緩いために掘り残しが生じやすく、再開後の採掘は竜頭払いの他に、こうした残鉱を対象にしたものが多かった。昭和42年から、第二鉱床の東樋先で「元山坑東部探鉱」として、地表の鉱化帯下部を坑道と水平ボーリングで大々的に探鉱したが、 成果を得ることなく終わった。

 ● 第三鉱床
 第二鉱床から南に約600m離れた位置にある。鉱脈の走行方向と傾斜は第二鉱床と同じだが、脈幅は平均2mと狭く、深さも160mと浅い。鉱石の品位は低く、 再開後は採掘の対象にならなかった。昭和27年に開通した鴻之舞―遠軽道路が、鉱脈の西端130MLの坑口を削るように通過し、坑内から道路に出ることが出来たが、その後の道路の改修で無くなり、今は坑口の痕跡さえ残っていない。

 (5)-1 製 錬 所
 製錬所の歴史によると最初の元山製錬所は、大正6年9月元山露頭付近に混汞(コン コウ)法(*註1)と化法(*註2)の併用で、建設を開始したのが始まりと言う。住友の 買収が同年2月であったから、当時の不便な交通事情などを考えると、いかに期待し 開発に力を入れたかが分る。
 この製錬所は大正13年に火災で焼失、場所を鴻之舞側に移して再建し、昭和2年から 精錬法を全泥式化法に統一した。製錬所は日量96トン処理から始まり、増設を重ね て昭和8年に750トン、11年には1200トンの規模に達した。 昭和12年からは戦時体制のもと、政府の要請で拡張を重ね、昭和17年に倶知安内側に 新製錬所を建設、元山製錬所の拡張と合わせて、日量3000トン処理に達したが、昭和 18年の金山整備令で休山になり、全施設を解体転用した。

 戦後の昭和24年に、日量400トン処理の倶知安内製錬所を再建、26年に600トン、27 年に1000トンと増設を重ね、30年に日量1250トンまで拡張したが、38年に鉱量の減少 と品位の低下から縮小に移り、48年に閉山で解体した。
 以下の文章では、製錬所といえば再建された倶知安内製錬所を指し、元山製錬所はあ とで触れる事にする。 製錬所は、破砕場・磨鉱場・化場・精金場で構成されるが、精金場は2キロほど離 れた元町にあり、一般には他の三工場をもって製錬所と称した。
 再建当初はすべて木造であったが、破砕場は昭和30年に焼失し、鉄骨不燃構造に建替 えられた。三工場とも、建物としては大きい方だと思うが、中でも化場は、内部に 直径が約13m高さ5mのトレーシックナー4基と、直径9.7m、高さ8mのアジテーター8基 を収めているだけに巨大であった。

 工場の面積を地図で調べると、化場が約1700坪で、隣接する磨鉱場を合わせると 2500坪の面積になる。これは後楽園球場のグラウンドの約60%を塞ぐ広さで、建物の 大きさが想像できると思う。 各工場の役割は、破砕場は硬い鉱石を砕き、磨鉱場はその碎石を泥状にすり潰し、 化場は化液で金銀を溶かし回収する。化液は化ソーダから造るが、猛毒なのは 青酸カリと変らない。  通常鉱山と言うと、採掘から製錬まで大雑把なものと考えがちだが、鉱石から金銀を 採取するのは、簡単な事ではないようだ。

 金を取り出すには、何よりも鉱石を細かく砕かなければならない。磨鉱場で200メッシュ以下まですり潰すが、これは0.13ミリ 角以下の粒子になる。鉱石に含まれた金の粒子は、微粒とだけ表現されているが、お そらく顕微鏡を使わなければ見えない大きさだろう。
 含まれている金は粒子が小さいだけでなく、量がとても少ない。運び込まれる鉱石の 品位は、1トンに平均5gか、多くても8gで、含有率では100万分の5か8である。このわ ずかな金も、深い坑内で採掘され、多くの労力と経費をかけて運び込まれた事を考え ると、精製する製錬所の役目は重い。 原鉱石の品位と、排泥中の品位から実収率を調べるが、いかに努力しても93%程度し か採取できなかったようで、1割前後は沈澱池に流れた。鉱山の収益を上げるため に、常に実収率の向上が課題だったようである。

 倶知安内製錬所の歴史
昭和16年   日量1000トン規模で建設
昭和18年   休山で解体
昭和24年  日量400トンで再建
昭和26年  600トンに拡張
昭和27年  1000トンに拡張
昭和30年  1250トンに拡張
昭和38年  950トンに縮小
昭和46年   600トンに縮小
昭和48年  閉山で廃止

 ここからは、各工場の解説に移るが、筆者には製錬所の経験がなく、知識も乏しい。 わずかな見聞と、安田・森口(註 3)両氏が製錬所について記された、日本鉱業会誌に 発表した論文の助けを借りながら進めて行くしかない。 無知を押して書くのは、このホームページ上の一連の文章から、製錬所の項が抜ける のは、どうにも残念に思えたからである。 文章の構成は、各工場の処理工程を簡単に解説し、専門的な事は論文の中から工程に 合致するところを転載して、理解の助けにしたい。もしも不足の処があればすべて筆 者の責任である。

註 1 混汞法とは、鉱石中の金を、水銀を使って化合物にし、のちに水銀を蒸発させて取り出す、比較的簡便な製錬法。(管理人注)混汞法は開発途上国などで現在も使用されており、アマゾン川流域において、特にその水銀汚染が問題とされている。

註 2 化法とは、シアン化合物(青酸カリ)の水溶液と、酸素と金を反応させて金を溶かし、その溶液に亜鉛を入れると金が析出される。

註 3 鴻之舞製錬所の金銀化製錬  昭和31年 日本鉱業会誌に発表
     鴻之舞鉱業所副所長兼製錬課長  安田 汪

    鴻之舞鉱業所の金銀化製錬  昭和42年 日本鉱業会誌に発表
     鴻之舞鉱業所製錬課長        森口 義道        

 (5)-2「破 砕 場」
 昭和33年の運搬合理化以前は、坑内から搬出されたままの鉱石を、チップラー室から ベルトコンベヤで粗鉱舎に運んだが、合理化で設備を坑内に移し、クラッシャーで一 次破砕した鉱石を取込むように変わった。
鉱石は手選場で木片等を取り除き、ブレーキクラッシャーとコーンクラシャーで、14 ミリ以下に破砕して磨鉱場にベルトコンベヤで送られる。 取り込む鉱石は採掘場所ごとに硬軟様々で、特に五号鉱西部の水分の多い鉱石と粘土 鉱は、機械に粘り付き処理に苦労したようだ。 鉱石を破砕するこの工場は、大きな振動と騒音を出しながら運転した。周囲には他に も騒音を出す工場が有るのに、破砕場が停止すると一瞬静まり返って、シーンとした ように感じる程だった。
 以下に、破砕場を解説した森口氏の論文を転載する。

 (受入,破砕)
 各鉱床より採掘された鉱石は、坑内に設置したブレーキクラッシャで、ほぼ120ミリ 以下に破砕を行なつた後、ベルトコンベヤにより破砕場粗鉱舎に受入れられるほか、 一部露天採掘による鉱石はダンプカーにより直送される。 破砕は乾式処理で最大能力150トン/時程度であるが、鉱石特性に基き藤島、元山系 と、それ以外の一般系(註 五号坑周辺坑)に大別して、時間別運転により二系統処理 を行なう。両者の比率はほぼ 1対1である。
 受入鉱石は、まずグリズリにより粉、塊鉱に分けた後、塊鉱は914ミリ×610ミリのブ レーキクラッシャで約50ミリ以下に粗砕を行ない、また粉鉱は、2台のバイブレー ティングスクリーンを経て14ミリ以下の除去を行なつた後、それぞれ中砕工程に送ら れる。
 中砕は4台のコーンクラッシャ(1650ミリ径×3台、1200ミリ径×1台)とバイブ レーティングスクリーンとの閉回路操業により、最終的に14ミリ以下に破砕のうえ、 前記の粉鉱と共に摩鉱場に送鉱されミル原鉱とする。

 (5)-3「磨 鉱 場」
 磨鉱場に入ると、何よりもすさまじい機械の轟音に驚く。破砕場の音はガンガンと言 う感じだが、こちらはゴォンゴォンと轟くような音で、工場内に長くは居れないほど だった。 何列も、二段に配置された機械の筒には、大量の鉄球が入れられて回転している。そ こに鉱石と薬液を入れると、筒の中で鉄球と鉄球がぶつかりながら鉱石を砕き、すり (磨り)潰す。轟音はこの時に出る音だが、鉄球は次第に消耗して小さくなるので、大 小の鉄球がうまく鉱石を微粉砕するらしい。
 磨鉱場は、破砕場から運ばれた鉱石を、コニカルミルとチューブミルで、泥上に破砕 して化場に引き渡す工程だが、昭和38年頃から藤島坑が出鉱を始めると、90から93 %を維持した実収率が、88%に低下した。わずか2%か5%と思うかもしれないが、金 の出鉱品位が6gの場合、5%で0.3gになり、年間22万3千トンの鉱石を処理すると、 金量では66.9kgにもなり、鉱山の収益に大きく影響する。処理方法を研究して2年後 に実収率は回復したが、様々な硬さの鉱石に対応するのに苦心があったようである。
 次に、磨鉱場を解説した森口氏の論文を転載する。

 (磨 鉱)
磨鉱は湿式二段磨鉱法により、最終産物粒度マイナス200メッシュ約95%程度に微粉 砕を行なう。 ミル原鉱は消石灰の適量と共に、二台のコニカルボールミル(2400ミリ×1200ミリ) とドル分級機との閉回路操業で一次磨鉱を行ない、マイナス200メッシュ30%内外に 粉砕のうえ、バウル分級磯4台に配分・給鉱され、それぞれチューブミル(1800ミリ 径×4800ミリ、1800ミリ径×3600ミリ)との閉回路で二次磨鉱を行なうが、鉱石特性 の差異に基き系統別に処理を行なう。とくに藤島・元山系の微粉砕化に留意する他、 1800ミリ径×4800ミリ チューブミル1台をアトリッションミルとして使用する。 なお磨鉱系統における使用水は、すべて化工程よりの繰返し水を用いる。

 (5)-4「 化 場」
 化場の仕組みを、まず簡潔な文章で書かれた鉱山の事業案内を使って説明する。  磨鉱された鉱泥はシックナーで濃縮した後、適量の青化ソーダ、消石灰、酸化鉛を 加えてアジテー夕ーで約70時間かくはんして、金・銀を溶解し、オリバーフィルター で鉱泥から金液を分離する。  金液はバッタースフィルターで再濾過した後、脱酸し粉末亜鉛を加えて、金・銀を沈澱 物として回収する。最終オリバーフィルターのケークは、尾鉱としてスライムポンプ によって扞止堤沈澱池に流送し推積する。
 化工場は、破砕場や磨鉱場と違い比較的静かである。ことに、シックナー室とアジ テーター室は、直径が10mから13mのタンクが多数配置され、室内は広々として静かで あった。

 次のオリバーフィルターの工程は、とてもダイナミックな動きをする装置で、直径が 5m近い円筒形の表面は、厚いズック布(註)で覆われ、円筒形の内部は何箇所かに仕切 られ、バキューム(真空)ポンプの働きで泥から金銀の溶解液を吸い取る区画、液を吹 きかけながら再度吸い取る区画、泥をハガシ落とす区画など、回転しながら繰り返す 様子は、見ていて飽きない光景だった。
 バキュームポンプは、製錬所の外に設置していたが、このポンプは吸い込んだ空気を 放出する時に大きな音を出した。このポンプが何台も同時に運転すると、凄まじいほ どの音になる。近くを通る時には耳を塞ぎながら歩いた。 この音は、子供の頃にも聞いた覚えがある。グラウンドの近くに元山製錬所があっ て、運動会の最中も絶え間なく聞こえていた。ポンプの音をうるさいと感じたが、こ のポンプが止まる時は製錬所が停止し、鉱山(ヤマ)もまた閉まる時である。今になる とあの音が懐かしく思え、もう一度聞いてみたい気持ちがする。

 金銀を採り終えた尾鉱(鉱滓または排泥)は、昭和28年からクオノマイ沢の扞止堤沈澱 池に、ポンプで圧送された。沈澱池の堤防は、製錬所より約100m高所にある。使われ たスライムポンプは、200馬力のモーターが付き、一日に3000立方米の排泥を圧送す る能力を持っていた。
鉱石を1200トンも処理して出る排泥は、重量はほとんど変らず、砕いて水に溶かすの で量は膨大である。製錬所にとって排泥処理は、いっ時も止める事の出来ない重要な 工程であったに違いない。
送泥管は吊橋でモベツ川と道路を跨ぎ、向い側の山の中腹にトンネルが掘られ、山越 しに扞止堤沈澱池まで配管された。吊橋のロープを支えた柱は今も健在で、製錬所関 連の施設では、目にする事の出来る数少ない遺構である。ただ残念なのは、今は立木 に遮られて見る事が出来ない。元山の大煙突のように道路から見れると、鴻之舞を訪 ねた人のよい思い出になるように思う。
以下に、専門的な文章だが、化場を解説した森口氏の論文を転載する。

 (青 化)
 磨鉱産物はパルプ濃度11から12%程度なので、これを4台のトレーシックナ (12.2m径×3台、13.7m径×1台)で、約48%程度に濃縮の上コンディショナに給鉱さ れ、ここで消石灰、青化石灰、リサージ等の薬品添加を行なつた後、9.75m径×7.9m のドルアヂテータ6基シリーズで約60時間の浸拌溶解を行なうが、この中間におい て、さらにチューブミルによるアトリッション処理を行なうことにより溶解の促進向 上を計つている。 溶解終了後のアヂテータ排泥は、4.88m径オリバーフィルタでの二段濾過法により濾 過洗浄を繰返し、最終ケークはリバルピングの後、尾鉱として廃棄する。 一方、金銀濃度の高い一次オリバーフィルタ溶液と、トレーシックナオーバーフロー の一部は、バッタースフィルタにより再度濾渦清浄を行ない、さらにクロータワーで 脱酸素の後、亜鉛粉末を添加してメリルプレスに圧入し、金銀等を置換沈殿せしめた 上で濾過、分別する。  また、プレス廃液はオリバーフィルタケークの洗浄等に使用する他、一部は弱液と 合して磨鉱用水(原液)として使用する。
註 ズックとは、オランダ語で厚織の綿布のことを言う

 (5)-5 「精 金 場」
 精金場は、製錬所から2キロ離れた元町の中央販売所の道路向いに、分析所と並んで 建てられていた。建物の周囲は柵囲いされ、他とは違う雰囲気があった。 製錬所で回収された澱物は、精金場で金銀の精地金に精錬され、四国の新居浜製錬所 に送られて、電気分解で完全な金・銀になる。また、金銀以外にセレンなども副産物 として生産された。
次に、精金場を解説した森口氏の論文を転載する。

 (精 金)
 化場で回収した青化澱物は金3.6%、銀56%、セレン5%程度を含有するが、これを 焙焼炉の余熱で乾燥後、4基のロータリーキルン(456ミリ径×2.5m)により700から 750度の熱で焙焼を行ない、含有するセレンをSeO2として飛散せしめた上、溶剤とし て硼砂・珪砂を配合し、傾転式熔解炉において1100度から1200度でカラミ分離を行な い、さらに黒鉛ルツボで再溶解精製のうえアノード鋳型に鋳込む。 精地金は品位金6.5%、銀92.5%程度で別子鉱業所電錬工場へ輸送する。また、分離 したカラミは、なお金200から300g/トン、銀15から20kg/トンを含有するので国 富製錬所に売鉱する。

 (5)-6 「元山製錬所」
 元山製錬所は倶知安内製錬所の先輩で、機械施設と処理方法は同じと思う。 大正6年に一日の処理量15トンで始まり、毎年のように拡張を続けて、昭和14年に 2000トン規模の工場まで成長した。相次ぐ拡張で破砕と磨鉱は二系統に、化場は三 工場造られている。

 元山製錬所の歴史
大正7年  元山露頭付近に日量15トン処理混汞・化製錬所完成
  11年  日量31トン処理に拡張
   13年  33トンに拡張したが4月に全焼
  14年  製錬所を鴻之舞地区に移設、96トン処理開始
昭和2年  112トン処理、全泥式化製錬所完成
  3年  146トンに拡張
  4年  160トンに拡張
  5年  170トンに拡張
  7年  250トンに拡張
  7年下期350トンに拡張
  8年  750トンに拡張
   10年  900トンに拡張
  11年  1200トンに拡張
  14年  2000トンに拡張
  18年  休山命令により解体、廃止

   製錬所の拡張も、昭和11年の1200トンまでは自社主導だが、それ以後は国の強い要請 に応えたもので、鉱山の発展としては正常でない。 昭和16年の倶知安内製錬所の完成で、一日3000トン処理の鉱山になるが、これも国の 政策に沿ったもので、鉱山の出鉱規模などを無視したものと思う。 これを昭和17年の実績が証明している。鴻之舞五十年史によると、出鉱量は73万9千 トンで、予定に4万9千トン未達とある。出鉱量だけでなく産金量さえ、前年の実績 を267キロ下回り、2049キロに終わった。鉱山は息切れ寸前で、五号坑のみが頼りの 状態だったように思える。 この結果は坑内の荒廃でしかなく、再開後の元山坑は、いたる所に空洞と無茶な掘残 しの跡を残していた。昭和18年に金山整備令で休山を命じられ、五号坑鉱床が温存さ れて、戦後の再建につながったのは、まことに幸運だったと思う。

 (5)-7 「製錬所跡地」
 現在の製錬所跡は、両製錬所共にすっかり木に覆われて、かつての工場跡を特定す ることは難かしい。 特に倶知安内製錬所跡は、三十年たらずで森に還っている。平成13年に、旧電機工場 横から製錬所跡を写した写真には、破砕場の突き出た基礎がわずかに見えるだけで、 他の基礎跡は何も見えない。 ここが製錬所跡と案内しても、初めての人は信用しないと思う。現実に、鴻之舞の鉱 山遺構などを調査する人は、元山製錬所跡の煙突や崩れかけた建物は調べても、倶知 安内製錬所跡を取り上げた人は見あたらない。

 それに比較すると、元山製錬所の場合は今も大煙突が聳えていて、昔を知る人は製錬 所を想い出し、訪ねても満足感が持てる。 自由に立ち入る事は出来ないが、道路から鉱山用地に入ると、大煙突の付近に屋根の 落ちたボイラー室と、発電所の建物が残っていた。倶知安内側にも工作所と図面庫の 建屋が残っていたが、廃屋になった建屋があと何年持つか、見ると寂しさだけが残 る。  元山製錬所跡には、青化場のあった付近に住吉導水坑道が掘られている。住吉坑と元 山坑の坑内水が集められているのか、排水溝には多量の水が流れていて、止むことの ない排水処理の困難さが感じられた。

写真・八鍬金三氏 ご提供  撮影・平成13年6月26日
図面書庫跡  電機工場跡  八号抗の山  総合事務所前坂道
五号抗第一通洞口  喜楽町より大煙突を望む