インパク参加
鴻之舞鉱山・労働慨史
(牧田源次 氏 記)
       
大正 5年 2月 本山大露頭発見 6月 事業開始 坑夫 20名

6年 2月 住友買山 (90万円) 7月 本操業開始 (精錬所15屯/日) 労働者数 124名 (うち坑夫 40名) 坑内夫1日当りの最高賃金 2円70銭 (道内平均3円・石炭山5円)

8年 インフレ、米価高騰・米騒動の発生で鉱山は男子労働者には1日米7合 女子労働者には5合を支給する「安米制度」を取り入れる。 だが実質賃金の維持ができず、生活苦から第一通洞の坑夫6名が賃金の値上げを要求。

13年 慢性的な不況により政府は金の価格変更を行った。 金の価格が上昇し、 鉱山の業績が好転。水力発電・全泥式精錬所の建設による操業規模の拡大で 労働者数は208名に増加する。(坑内賃金2円25銭・坑外賃金1円80銭)

友子同盟 友子同盟とはお互いが親分子分の関係で結びついた服従関係の組織。 同時に労働者同士の互助と共済機能をもち、初期の鴻之舞鉱山にも存在したが 大正15年健康保険法の成立とともに友子同盟は廃止された。

昭和 2年 友子同盟に代わって鴻愛会が発足し、会社による直接的労務管理の時代になる。

硅肺患者増加 珪酸分80%という鉱石と、削岩機の使用により労働者の硅肺患者が増加、 また坑内切羽から精錬所への鉱石運搬は、馬により行われていたために 馬も硅肺に罹り、寿命は1〜3年であったという。

4年 世界大恐慌・失業者が急増の社会背景から、鴻之舞鉱山は旭川第7師団満期 除隊兵の採用に力を注ぎ、これにより事業所内に軍律型の労務管理が定着する。

6年 満州事変が勃発し金輸出の再禁止による円為替の下落で、金の価格が暴騰。 鴻之舞鉱山は住友のドル箱となる。

11年 第3次拡張起業により1200屯/日の増産となる。 労働者数 1,855名。

12年 日中戦争による軍備拡張で、戦費調達のため金の需要がさらに増大。 政府の産金奨励政策により鴻之舞の企業内地位はさらに上昇。 翌年には操業規模を2,000屯/日に拡張するも、労働者の不足と質の低下をきたす。

14年 政府による朝鮮人労働者の強制連行政策により、鴻之舞に配置となった朝鮮人 労働者は次の通りである。 この年、302名 昭和16年 894名 昭和17年 1,498名 この頃には精錬所から出る大量の鉱排水を貯留する 大規模な沈殿地造成のため地崎組によって、通称(タコ部屋)といわれる 強制労働が行われた。 この沈殿地は通称「地崎の沈殿」と呼ばれ現在も存在している。

16年 この頃には操業量 3,000屯/日 年間産金量 2,5屯 鴻之舞の人口は一万三千人を数える。 また12月には太平洋戦争に突入、金鉱山は不要産業の道へと歩むことになる。

18年 保坑要員455名を残し、朝鮮人労働者をも含め産銅部門や石炭産業、 ならびに海外の軍事産業部門などに配置転換となる。このため鴻之舞では 終戦後朝鮮人労働者による暴動は皆無であった。

20年 8月終戦、保坑要員とその家族1,100名は農耕による自給自足の生活 を余儀なくされ、紋別町へ(ムシロ旗)を掲げて米よこせデモを敢行をするも 戦争による働き手を失った農村では、全国的に食料の不足は改善されず、 辛うじてアメリカの食糧援助により生命を繋ぐこととなる。

労働組合の結成 この年の9月にいち早く労組を結成した鴻之舞の支山「伊奈牛鉱山労組」から 十数回に及ぶオルグの支援をうけ鴻之舞労組結成に着々と準備を重ね、 遂に12月23日恩栄館において、道労組連盟の関氏をはじめ多くの来賓を迎え、 鴻之舞労働組合は産声を上げた。 この時の初代組合長は「三浦五兵衛氏」である。

結成大会の決議事項 団体協約権の確立。経営参加。封建的人事管理の撤廃。食料の組合管理。 税金の会社負担。職制支配の廃止。女子の生理休暇ならびに有給休暇の確保。

21年 賃金・食料の確保のたたかいで一定の成果をあげるが、鉱山の閉鎖を危惧し 退職者が続出したが、鉱山に踏みとどまったのは、総員408名。7月職員組合結成。

22年 鉱山の早期再開を要求し組合員総退山宣言を決議。紛争状態の中で鉱山の 再開確約を取り付ける。

23年 鉱山の再開についてGHQの許可を受け、400屯/日 精錬所起工。

24年 精錬所竣工。操業再開に伴う従業員の急募が行われ、720名に増員となる。

25年 三田村四郎による職場防衛隊の組合内部へ浸透が深まる。 従業員数 921名となる。

26年 中等教育者不採用という会社の労務方針に反して、入社時に経歴を詐称した 組合活動家と見られる従業員十数名が解雇される。 なおこの年続いて坑内夫 全員による山猫争議が発生、(出鉱量約半減)、このときも十数名の活動家と見られる 従業員が解雇される。 従業員数1.000名を超える。

28年 労働組合の組織を守るために「職場防衛隊」の活動に対する闘争を強化。 坑内の職場移動(抽選制度)の職制支配排除を目的とした改善闘争。 個人商店による掛売り・高利貸し対策として労働金庫に加盟し、 組合員への低利融資をはかる。

29年 単組単独で初のスト権を構えた「3件闘争」。1、労使厚生委員会設置。 2、住宅の炊事場電灯の設置。3、会社購買施設の掛売制度を要求。 成果として2、は完全実施。1、2、は3,000円を会社で融資する制度を つくることで決着。これが後日住友全社の「泉会」(社員への融資制度) へと発展定着する。この年、既存の会社よりの婦人会に対して、労組 「鴻之舞主婦の会」を結成。この会員は約、800名

30年 長年の懸案であった紋別市労協に加盟。前項の「3件闘争」後、山元の福利厚生関係の 改善を目的とした雑件闘争を毎年繰り返し、住鉱連傘下単組に波及。

31年 元山鉱の採掘を下請けしていた戸田組の労組結成を指導し成功。  

32年 坑内で重大災害の頻発に対し、単組単独でスト権を確立した「安保闘争」を展開。 総評新聞のトップ記事に掲載される。紋別市長選挙で革新勝利に貢献。

33年 坑内に臨時工が増加したため、臨時工の組合加入を実現し、これの本工化を図るため 団交を申し入れたが会社は拒絶。これを巡り地労委に提訴し、不当労働行為として勝訴。

34年 戸田組と同じく下請けの藤田建設で労働組合の結成を指導し成功する。

35年 歴史的安保闘争で地域共闘の実をあげる。

38年 非鉄金属の自由化による全社的合理化により、希望退職者募集により従業員581名へ激減。

39年 大幅な縮小合理化の整員闘争。

40年 鴻之舞労組創立20周年記念式典挙行。
43年 保安点検員配置。電気探鉱の女子臨時工労働条件闘争。

45年 鉱量枯渇による縮小合理化案が提示される。周辺部への探鉱努力を迫る。

46年 4/3 鉱量枯渇の実態を認め、組合員の意思を尊重した転勤や、関連会社への転換や 就職斡旋を条件に、操業規模の半減に伴う人事措置を了承妥結。組合員240名が転出し、 残留組合員180名。坑内の職場交代は抽選制度を廃止し、全員の一巡方式に切り替える。

48年 2/15 鴻之舞の全面閉山提案を受ける。 2年前の縮小と同様「一人の泣く者をも 出さない」を合言葉に、組合員の意思尊重を第一に、丁寧な人事措置を条件として、 4/24 妥結。4/28 確認大会。5/2 受入先の説明会。5/5 意向打診。 5/16 受入先の調査。5/21 調査結果報告。5/27 労組の解散大会。(式) 6/1 転出開始。 この金山の労働史も終わりを告げることになった。