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鎌倉宮から瑞泉寺に向かう道、境内を左に見ながら細い流れに沿っていくと
左手にテニスコートがあります。その金網の傍らの草の中に「永福寺(ようふくじ)旧跡」の
石碑があります。 永福寺はスケールの大きい荘厳な寺で頼朝の創建でした。 鎌倉時代の記録にもしばしばその名が出てくる寺でしたが、室町幕府以降 全く消え失せ、幻の寺などとも言われています。 頼朝が永福寺を建立するきっかけとなったのは1189(文治5)年の奥州征伐でした。栄華を誇る 奥州平泉の藤原秀衡のもとに逃げ込んだ源義経は、秀衡の死後その子である泰衡に謀殺されました。 泰衡は父の秀衡より「義経を大将軍にたてて結束せよ」と遺言されていながら器量に乏しく、 頼朝に義経の首を差しだしたものの結局自ら墓穴を掘ることとなったのでした。頼朝としては奥州で独立国のように勢力をもつ藤原一族を滅ぼさない限り天下統一とは言えず、その総仕上げとして大軍を率いて出陣したわけでした。 この勝負は戦う前からわかってわかっていましたが、頼朝自身が出陣しました。 そこで目にした藤原文化の高さは頼朝が想像する以上のもので、中尊寺は堂宇40余り、禅房300。清衡、基衡の二代16年の歳月をかけてつくられたものといわれています。 現存する金色堂を見ても堂の内外から床板に至るまで金箔をほどこした壮麗なもの。 秀衡の父である基衡の建てた毛越寺(もうつうじ)になると堂塔40余り、僧房500余と中尊寺以上の華麗な世界をつくりあげていたと伝えられています。毛越寺の中心となった円隆寺という堂でも宇治の平等院の鳳凰堂を模した寝殿造りで、その前面池の規模は東西60m、南北150m、池には赤松林の島、やり水、船着場、石組みなどがつくられていたといいます。 「あのような寺をわが鎌倉にも・・・」 勝長寿院という父の菩提寺を建立した直後の頼朝が、永福寺建立に着手する気になったのには、このような背景がありました。 戦いには勝利しても東北の金と馬で築かれた藤原文化には大きなショックを受けたのでしょう。 永福寺の寺域は、二階堂の四川石、三堂、西ガ谷、亀ガ渕とよばれる一帯に及んでいたと推定されます。現在の二階堂、三堂などの地名は永福寺の堂塔による地名そのものです。 堂前の大池も作られ、指導は僧静玄というものが当たり、多くの御家人も参加しました。 地形は南北に細長い谷であり、池は三道とよばれる場所一帯に掘られました。西側の山は低く、そのまま築山としたようです。細長い地形のため、池につきものの築山を作る余裕がなかったらしいのですが、中心の建物から見ると本物の山がおあつらえ向きに調和して見えたはずで、一種の借景となっていました。 次に永福寺の建物はどのようなものだったのでしょうか。 中心となる存在は二階堂とよばれた建物で、二重の櫓をもっていました。 南側には阿弥陀堂、北側には薬師堂があり、廊で結ばれていたのだろうと想定されています。この薬師堂は政子の発願で1193(建久4)年11月に供養がとり行われているのですが、なぜか約1年後には北側はずれに頼朝が新しい薬師堂を建てています。この位置からは瓦片が多数発掘されています。 釣殿。薬師堂の前、池畔から礎石らしいものが発掘されていて釣殿に対する位置に泉殿があるはずと調査されましたが、これははっきりとはしなかったそうです。 その他、多宝塔、三重塔、鐘楼などの位置も山を削り取った平地から出てきた瓦片などで推定されたものです。 これらは南門、総門と瓦片、砂利、礎石などからほぼ間違いない場所と見られています。 僧達のいた僧坊は二階堂のあった中心から西北にあたる西ガ谷に並べられていたと思われています。現在の西ガ谷は分譲地として開かれてしまいましたが、かつては狭い谷でそこから瓦片の他、陶器のかけら日用品が発掘されており、僧坊跡と推定されています。 また永福寺の別当のいた場所は西ガ谷最奥や池の北方の水田方面などいくつかの候補地があげられていますが、判定しにくい現状のようです。 平泉文化の模倣とはいえ、このように永福寺のスケールは相当のもので極楽浄土を表現した浄土庭園の荘厳なたたずまいは、幕府のお膝元の寺院にふさわしいものであったと思われます。 永福寺は1405(応永12)年焼失し、廃寺となりました。 |
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| 写 真 | 解 説 |
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昭和6年、永福寺跡に大型浴場を建設しようとしていた人から、「水田の下から古い瓦片や杭などが出てきた」と赤星直忠博士は連絡を受けました。 以来連日調査が開始され、赤星博士によって永福寺の概要は初めて明らかにされました。 「永福寺址の研究」(史蹟名勝天然記念物調査報告書:第六輯) 永福寺の池は現在のテニスコートと隣接している湿地帯と推測され、元は水田・蓮池だったといいます。池畔の堂の壁画などは毛越寺のものを模倣したと伝えられています。 中島らしきものも、島を形づくっていた石組みから確認されました。 |
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鎌倉市は昭和56年から発掘調査を続けており、建築物、池など様々な配置を確認しています。 現在(2001年)は石碑の他、写真のような発掘中の遺跡がテニスコートの付近に広がっているだけです。 「国指定 指定史跡」という立札に立止まるか、永福寺という寺名を特別認識されていない方はただ通り過ぎてしまうような場所ですが、本文でご紹介させていただいたように、奥州征伐により頼朝が情熱をもって寺の造営を決意した跡地です。 ちょっと足をとめて覗いてみるのもいかがでしょうか。 |