「鎌倉恋便り」



謀反の発覚が由来 「 歌 の 橋 」(第90回)



話は今を去る事、約七百九十数年前の1213年(建保元)年2月にさかのぼります。鎌倉幕府の基礎が固まりつつあったこの頃、千葉成胤が一人の怪しい僧侶を捕らえ、第二代執権北条義時に差し出したことから事件は始まりました。

この僧侶の名は安念と称し、安念法師の自白により謀叛のことが発覚。
謀叛のこととは、信濃の国に泉 親平と称す者が、源頼家の遺児の栄実(頼家の三男で幼名を千寿丸)を担いで将軍とし、執権の北条義時を倒そうとの陰謀を企んだことでした。

この陰謀の一味に、和田義盛の子息の義直・義重の名があり、一族の和田平太胤長が組していた事から、和田胤長も捕らえられました。
上総国の伊北庄にいた父・義盛はすぐ鎌倉に駆けつけて、わが子の助命を将軍実朝に請願。これまで一途に忠誠を尽くした老将の必死の嘆願に心打たれた実朝は、義盛の二人の息子を赦しました。
翌日、義盛は一族九十八名を引き連れ、一族の和田胤長の助命も嘆願したのですが、母の実家であり、幕府内で勢力を伸ばす北条氏の手前、謀反の張本人とされる胤長を実朝は放免することはできず、和田胤長の屋敷と領地は北条義時の拝領となりました。

頼朝以来、源氏に仕えた古参の重臣・和田一族の屈辱は、北条氏打倒を目指して三ヶ月後の五月「和田合戦」へとつながっていきます。

さて、橋の名の由来ですが…
時を同じくしてもう一人、実朝により死刑を免れた幸運な人物がおりました。
謀反の一味二百人の中に渋川刑部六郎兼守と称す御家人がいたのですが、渋川兼守は捕らえられて安達景盛(筋違橋で始まった宝治合戦の首謀者)に預けられる身となりました。
いよいよ明日朝に処刑されるとの事を聞き、大変に悲しんだ兼守は十首の歌を詠んで荏柄天神社に奉納しましたところ、たまたま昨夜より神社に参篭していた工藤祐高と称す御家人が、帰りがけに兼守の奉納した歌十首を受取、この歌を幕府御所に差し出しました。
幼少より和歌に関心の深い将軍実朝が、この歌を見て大変に感動し兼守の罪を赦したといいます。

この恩赦に感激した渋川兼守は、将軍の恩に報いる為に二階堂川に橋を架けて寄付。このようないわれから橋の名を「歌の橋」と呼ばれる様になったそうです。

『新編相模国風土記稿』の記述では、歌の橋の規模は長さ三間(約5.5m)と述べています。現在の橋の長さは同じく約5.5mなのでほぼ昔と変わらない規模と推測されます。

 




写   真       解    説      
歌 の 橋(1)

歌の橋は筋違橋より金沢街道を東に進み、岐れ道を過ぎてしばらく行くと荏柄天神社の参道入口に到達します。
この参道口の少々先に架けられている小橋が歌の橋です。
橋の下には二階堂の谷より流れ来る二階堂川が流れ、滑川に合流しています。
歌 の 橋(2)

橋の左岸上流側の狭い空き地に歌の橋の石碑が建ち、橋の故事来歴を述べています。
同じく橋標には「十橋之一歌の橋」と書き。更に神奈川県橋100選に選ばれた記念の名板が、同様に並べられています。


JR鎌倉駅より金沢八景・太刀洗行バス「杉本観音」下車 徒歩3分



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