「鎌倉恋便り」



激しい源平合戦の末、鎌倉幕府を築いた源氏には、
日本各地に様々な故事が沢山残されています。
「番外編」 として和歌山県の田辺から
源氏にゆかりのある史跡をご紹介しましょう。


勝負の神様 「 闘 鶏 神 社 」(第114回)



和歌山県田辺市湊神田に、熊野の観光名所としても名高い闘鶏神社(とうけいじんじゃ)があります。 (謝:本来の闘鶏の「鶏」は違う字です)

闘鶏神社は、壇ノ浦合戦で源氏を勝利に導いた熊野水軍の伝説が今に伝わる神社です。
闘鶏神社の名の由来は、平家物語壇ノ浦合戦の故事によるもので、源氏と平氏の双方より熊野水軍の援軍を要請された武蔵坊弁慶の父であると伝えられる熊野別当湛増(たんぞう)が、どちらに味方をするかの神意を確認するため、神社本殿の前で赤を平氏、白を源氏に見立てた紅白7羽の鶏を闘わせたことによるものです。
境内の一角にはその様子を再現した湛増と弁慶像があります。

そのほかにも、神社の社務所には源義経が奉納したといわれている笛(銘白竜)、弁慶産湯の釜、弁慶の父湛増が使ったとされている鉄烏帽子や鉄扇等の宝物が展示されています。
                 

 




写   真       解    説      
神社正面

鳥居をくぐると、左手に大楠。社殿は、正面にはなく、右手に並んでいます。
大楠は、落雷により中央部を失ったため高さはないですが、幹回り、枝振りは見事なもので、樹齢 1200年ほどと推測されています。歯病平癒の御利益があるとされ、楠の下に立って楠の葉を患部に付け、祈願すると平癒するといわれています。
社  殿

古くは田辺の宮、新熊野権現(いまくまのごんげん)田辺の宮などと呼ばれていた闘鶏神社でしたが、次に記す故事により、新熊野鶏合権現(いまくまのとりあわせごんげん)、新熊野闘鶏権現社(いまくまのとうけいごんげんしゃ)などと称されるようになりました。
闘鶏神社となったのは明治に入ってから。神仏分離令によりそのように改名させられました。

通称「権現さん」とも呼ばれ、御祭神の中には、熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)も勧請(かんじょう)されています。熊野権現の三山御参詣に替えるという三山の別宮的存在で熊野信仰の一翼を負っていました。熊野本宮大社が川の増水で流失する以前の社殿の形を再現しています。

また、勝負の神様としても御利益があるともいわれています。
湛増と弁慶像

正面奥には湛増(たんぞう。湛決の子。21代熊野別当)と弁慶(湛増の子と伝承)の銅像があります。二人の前では二羽の鶏が闘っています。

源平の合戦も大詰めに入ったころ、熊野別当湛増が平氏に味方するか源氏に味方するかを迷い、占いをたて、神意を問うことにしました。
その占いとは、社前で赤白の鶏をたたかわせ、赤の鶏を平氏、白の鶏を源氏に見立てて勝ったほうに味方するというもので、赤白の鶏を相対峙させてみると赤の鶏は白の鶏を見て逃げだしました。
これを見て、湛増は源氏に味方することを決めたそうです。

この故事により闘鶏権現という呼び名が生まれました。湛増は200余艘に及ぶ熊野水軍を率いて壇の浦へ出陣。平氏を壇の浦に沈めたのでした。



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