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田谷の洞窟・・・。わが国にはほとんどその例を見ない人工の地底伽藍としてその存在はあまりにも有名です。しかし、それにもかかわらず一般には真言密教の修行道場という以外に洞窟に関する歴史、知識は知られていません。 洞窟の全長は窟内で破壊している部分もあって、実測可能なところは540m実際には1000mにも及ぶ大洞窟であります。ひとたび拝観すればわかるように堂内の彫刻画には、憧憬や精進、歓喜と敬愛、悲愁や後悔などさまざまな表情が表現されています。壁面に残る生々しいノミ跡、そして仏の御姿に接した時、誰しもが時代を超越した不思議な思いと、洞窟内特有の神秘な空間に、生き続ける人間の不屈な精神と対面したような感覚を覚えると思います。 田谷の洞窟は大古、古代人の横穴式住居跡だったとも、古墳の跡だったとも伝えられています。その粗原型はかなり古くから存在していたといいます。 鎌倉時代の初期、現在の定泉寺の寺域に幕府侍所の別当(長官)和田義盛の三男、朝比奈三郎の館がありました。1213(健保元)年5月2日、鎌倉幕府開府以来別当職にあった和田義盛とその一族がにわかに反乱を起こしました。 北条義時に対する憤りから発した、史上「和田合戦」と呼ばれる戦いです。 義盛の軍勢は一騎当千のつわもので、一時は政庁に火をかけるほどの勢いでしたが、翌3日になって幕府軍の盛り返しと同族三浦義村の裏切りによって鎮圧され、この日の夕方までには一族のほとんどは討たれ合戦は終わりました。 この事変によって北条氏の権力は一層強まることになり、1215(承久元)年正月の将軍実朝暗殺へと北条執権の謀略は結びついていくことになります。 さて、この戦いで剛勇の名をほしいままにし、幕府軍を苦戦させ続けたのが朝比奈三郎泰秀です。彼は敗北の色が濃くなると、手勢をまとめ何処へか姿をくらませました。幕府は探索を開始しましたが、消息は香としてわからなかったといいます。三郎はこの時この洞窟から脱出したといわれています。 今でも洞窟の最深部、厄除大師を安置する奥に人ひとり潜れるほどの穴が続いています。彼はこの穴を伝って落ちのびて行ったと伝説化されています。 是非、是非ご一読下さい。 この穴は途中崩落していてどこまで続いているのか不明ですが、その奥には合戦の歴史的事実が、今尚封じ込められているような神秘が漂っています。 田谷の洞窟は詳しくは「田谷山瑜伽洞」(たやさんゆがどう)と称します。 鎌倉時代以降、この洞窟は鶴岡二十五坊との関係が深まり真言密教の修行窟として随時内部が拡大されていったようです。三密瑜伽の行を行う修行僧によって、文字通り行として洞窟が掘りすすめられていったと考えられます。 田谷の洞窟が真言密教の修行窟として逐次拡大されつつあった時代、いつの頃か洞窟の前に一宇の堂が建てられました。住持したのは鶴岡二十五坊の僧の一人と考えられますが、田谷山定泉寺の開山は隆継阿闍梨(りゅうけいあじゃり)で、開創は室町時代末期である1532(天文初)年とされています。 田谷の洞窟は、江戸時代に地震かなにかによって洞門のあたりが崩落し、しばらくの間閉ざされたままになっていました。これが再び開かれたのが天保元年です。発端は、田谷地区の灌漑用水の水源を、洞内に湧出する音無川の豊富な水流に求めたことによりますが、同時に長い間途絶えていた修禅道場としての洞窟内部の整備が開始されました。整備工事には近隣近郷の諸寺、農民や町人の応援や喜捨が相ついだと思われます。それは洞内の彫り物に残された寺名、石工、屋根職、大工などの名前から推測することができます。 その工事が、今からざっと170年ほど前のことでした。 田谷山瑜伽洞にはまだまだ不明な部分が多く残されています。静かな山域に囲まれた大船から2Kmほどのこの洞窟へ皆様も訪れてみてはいかがでしょうか。 |
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本洞窟図は昭和50年代「サンフラワーズクラブ」の洞内調査により書かれた図に手を加えたものです。 地質的には三浦層群と呼ばれる基盤地層の上に成田層群がのっている三浦半島に見られる地質で、瑜伽洞 のある地層は浅海性の海成地質である長沼層にあたるといわれています。図内の赤矢印が現在一般公開されている順路です。 |
| 写 真 | 解 説 |
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拝観者は定泉寺の窓口で拝観料を納めると、10cmほどの蝋燭をもらいます。 写真には写っていませんが、向かって左側の台の所に使い込まれて艶の出た燭台が 数十本置かれています。ここで燭台のひとつを手に取り先端に蝋燭をさし、10mほど先の洞門へと向かいます。初めての方はこの時タイムスリップを感じるような感激を覚えるのではないでしょうか。 正面に小さく見えるのが洞門です。 現在、この洞窟のすべては入洞者に公開していません。 洞門を潜ると、普通は「行者道」という順路に沿って約250mの一般公開洞を歩き 再びこの洞門から出てきます。ゆっくりと見ながら歩いても 燭台の蝋燭は1〜2cm残るのではないでしょうか。 一般公開洞の中に、主要な尊像の大半があります。その他の洞は、信仰上および 洞窟保存の理由もあって順路から外されています。 |
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残念ながら洞内は「撮影禁止」です。 失敬して一枚だけ洞門を入ってすぐの場所から振り返って撮してみました。 300を越える仏像や仏画の見事な彫刻はここから先にあります。是非拝観してみて下さい。 順路の要所には蛍光灯が設置され、洞床も水に浸からぬよう整備され、一般拝観者の安全について 配慮がなされています。 洞内の気温は常に17〜18度、湿度は80〜90%と一定していて、冬は暖かく 夏は身の引き締まるような冷気に満ちています。 夏の拝観者は密教的雰囲気に目を奪われるだけでなく、一時の涼味楽しむこともできます。 |
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江戸時代、定泉寺は横浜にある三会寺の末寺でありました。 鶴岡二十五坊から離れて 三会寺の末寺になった理由や時期はわかりません。 三会寺と定泉寺の関係はたんに本末関係というだけでなく、三会寺住職の隠居寺であったり 定泉寺住職が三会寺住職に栄進するなどの深い関係で結ばれていました。 戦後は、大覚寺派に移り現在に至っています。 |