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「玉繩城跡」(たまなわじょうあと)です。 玉縄城は1512年(永正9)年に伊勢新九郎長氏(北条早雲)が築いたといわれています。 小田原城を本拠とする早雲は、三浦半島から相模に勢力をもつ三浦義同(同寸)と対決し、岡崎城(伊勢原:平塚市)から住吉城(逗子:鎌倉市)を落とし、新井城(三浦市)に迫りましたが持久戦となったため玉縄城を築いて三浦氏の反撃と救援のおさえにしたといわれています。 玉縄城の本丸跡には昭和38年に清泉女学院ができ、周囲も住宅造成がすすみ遺構は部分的にしか残されていません。城跡の大部分は校舎やグラウンドとなって破壊されてしまい、わずかに本丸東側の城の最高部にあった諏訪壇のみが残されています。小生が取材をしていたときも住宅造成のため高台の一部が削り取られ、赤土があらわになり城跡の面影が少しづつなくなろうとしていました。 北条早雲は、1480年代の後半から突入したといわれる戦国時代において、西国の尼子経久とともに、東国の戦国大名の第一号といわれています。厳密にいいますと、早雲自らは一度も「北条早雲」とは名乗っておらず、北条という姓は二代目北条氏綱のときからです。 また、鎌倉期の北条氏と血統的なつながりはないといわれています。 |
| 写 真 | 解 説 |
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城跡の碑は目立たない住宅地の曲がり角の一段高いところにあります。 北条早雲の築城のあとその一族が城主となり、上杉謙信の攻撃にも落ちず、武田信玄は 玉縄城を攻撃せず素通り、戦国時代、東相模の大拠点として 重要な位置づけをしてきました。 |
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戦国時代東国の大拠点となった玉縄城でしたが、1590(天正18)年の豊臣秀吉の 小田原攻めのとき、4代城主北条氏勝が徳川家康の勧めにより開城し、北条氏滅亡後は ほどなく廃城となりました。 現在その付近を歩くと、清泉女学院南側人家のあいだの畑や山林で 「七曲」から上がったところに「たいこやぐら」の土塁の一部が、 西側にも「くいちがい」の曲輪(くるわ)の一部がわずかに残されています。 |