「鎌倉恋便り」



川の暗渠化で消えた 「 筋 違 橋 」(第62回)



JR鎌倉駅から段葛を歩いてきて、鎌倉八幡宮の三ノ鳥居を右に曲がると正面が宝戒寺。そこを金沢街道に沿って左折、この付近、横浜国大付属小学校前あたりはいつも車と人々の行き交いで混雑しています。
この街道筋の交差点そばに、以前ここに橋があったことを告げる石碑が立っています。それが鎌倉十橋一番目と数えられた筋違橋(すじかえばし)の跡です。
筋違橋は筋替橋、須知替橋、あるいは須地賀江橋ともいわれ、西御門の谷より流れ来る小流が、道路を斜めに横切り滑川に合流しており、橋が六浦道(現金沢街道)に対して斜めになるよう「く」の字に架けられていたのでその名が付けられたと伝えられています。

橋は昭和中期の道路整備拡張工事で、川が暗渠化(覆いをされた水路)され当時の面影はまったく残っていません。

この橋は、鎌倉の歴史上二つの事件に登場します。
三浦氏が北条氏の策謀によって法華堂で自害に至り滅ぼされた「宝治合戦」(1247(宝治元)年・三浦の乱)と1265(文永2)年の指定地域外での商売を禁じた町屋の限定”に関するおふれでした。

この二つの事件は、今回の 第62回 Designer's note でご紹介することにしましょう。是非こちらもお読み下さい。

 




写   真       解    説      
筋違橋跡の石碑

昭和30年頃、道路が整備拡張工事で舗装されたことに伴い川は暗渠化されてしまいました。
今は橋があったことを告げる石碑が立っているだけです。

大倉幕府最盛期、筋違橋は大倉幕府の西南の端にあたり、屋敷への人々の出入りや商買が盛んに行われ、さぞかし賑やかな場所であったろうと推測されます。

ここの混雑は現代も続いていますよね・・・(*^。^*)



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