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鎌倉駅西口近くの御成小・中学校のそばを流れる小さな佐助川に架かる長さ3mに満たない橋があります。その名は、裁許橋(さいきょばし)。 鎌倉時代から「裁許」の名前の由来は諸説があります。 源頼朝は武士の棟梁として征夷大将軍の地位まで上り詰めましたが、一方では政治家としても立派な業績を残しています。 その一つに鎌倉幕府の政策があります。 幕府を三大機関により構成し、最も重要な機関を「政所」とし大江広元を責任者に当て、文書の作成、財政事務取扱いを行いました。 「問注所」には三善康信を責任者に当て、裁判事務を取り扱いました。 「侍所」には和田義盛及び梶原景時の二人を当て、御家人の統括を行いました。 鎌倉時代には、この近くに幕府の裁判所(問注所)があり(御成小学校の正門前の道角に問注所旧蹟の石碑有り)、判決を受けた罪人が処刑場に向かう際に、この橋を渡った事から裁許橋の名が付いたと言われています。 また、西行橋から変化した名だという説もあります。 1186(文治二)年に頼朝が鶴岡八幡宮に参拝した時に、鳥居の付近を一人の老僧が徘徊していました。その名を聞けば佐藤義清法師こと西行だといいます。頼朝は早速に邸に招き入れ、夜を徹して兵法等の話を聞き、翌日におよびて頼朝は西行に銀製の猫の像を送ってその労を謝しました。しかし西行は、帰り道に鳥居付近にて遊んでいた子供たちにこの銀猫の像を与えたとの話があります。 西行がこの橋にて行き悩んだ事からこの名が付いたとのことです。 |
| 写 真 | 解 説 |
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『新編相模国風土記』には橋長は六尺余(約1.8m)とあります。 現在は暗渠となり上流側は4m、下流側は1.6mと撥型をしています。 案内:JR鎌倉駅西口より市役所手前の信号を左に進む 徒歩約5分。 |
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判決を受けた罪人が処刑場に向かう際に、この橋を渡った事から裁許橋の名が付いたと言われている。 イタリアのヴェネツィアの運河に架かる「ためいきの橋」の日本版ともいえる橋です。 鎌倉時代、この辺りが鎌倉幕府政治の中枢であり、かつ人々がにぎやかに行き交う交通路であったことがわかります。 |