「鎌倉恋便り」



鎌倉政治の中心となった 「 大 蔵 幕 府 跡 」(第21回−1a)


現在鎌倉幕府跡は三つ残されていますが、意外と知られていないようです。

年代を追って見てみると、幕府所在地は下記の表のように移設されています。

幕府跡名称
開設/移設者
1180(治承4)年〜 1225(嘉禄元)年大 蔵 幕 府 (おおくら)源頼朝
1225(嘉禄元)年〜1236(嘉禎2)年宇都(津)宮辻子幕府 (うつのみやずし)執権北条泰時,連署北条時房
1236(嘉禎2)年〜 1333(元弘3)年若宮大路幕府 (わかみやおおじ)執権北条泰時


鎌倉市雪ノ下3-11付近

大 蔵 幕 府 跡

いわずと知れた源頼朝が鎌倉の地に入ると開いた幕府です。
「鎌倉市史」では東西約270m,南北約220mの敷地だったと推定しています。

この敷地内には、寝殿・対屋・大御所・小御所・常御所・御所対面所・釣殿
侍所・問注所などが造営され、屋敷の東西南北には門が設けられていました。

現在の西御門や、かつての東御門の地名は、屋敷の西門・東門から生じたもの
です。これらの建物は3度の火災(1191(建久2)年/1213(保久元)年/1217(建保5)年)
で焼失したものの、そのたびに再建されています。             
1225(嘉禄元)年幕府が宇都宮辻子に移されるまで、源氏3代、約45年間
にわたって、初期の鎌倉武家政治の中枢機能を果たした土地です。



鎌倉市小町2-16付近

宇 都 宮 辻 子 幕 府 跡

辻子とは小路のことで、宇都宮辻子は西の若宮大路とその東側の小町大路を結ぶ
小路です。その範囲は東西約213m,南北約230mの敷地だったと推定されて
おり、北条泰時はこの新御所の北側に隣接して北条の屋敷をかまえています。

このあと移される3番目の若宮大路幕府は、現在では宇都宮辻子幕府が増改築
されたものという見方が有力になっています。石碑の隣にある宇都宮稲荷は、
かつては御所内にあったと伝えられています。この石碑を見つけるのは大変ですよ。

「宇都宮辻子幕府跡」を見る



鎌倉市雪ノ下1-15付近

若 宮 大 路 幕 府 跡

1236(嘉禎2)年に執権北条泰時が南隣の宇都宮辻子からこの地に幕府を移し
以後1333(元弘3)年の鎌倉幕府滅亡まで約1世紀にわたって北条氏の執権政治
がおこなわれたところと従来いわれてきました。しかし、最近では宇都宮辻子
幕府と同じ敷地内に増改築されたものという解釈が有力
です。       

若宮大路を基準とすれば若宮大路御所、宇都宮辻子を基準とすれば宇都宮辻子御所
とそれぞれ呼ばれていたと考えられます。1253(建長5)年1月と8月に将軍宗尊親王が
西門から若宮大路を通り、鶴岡八幡宮へ参拝していることより若宮大路側に出入口
があったことがわかっています。                    

「若宮大路幕府跡」を見る


                 




写   真       解    説      
大 蔵 幕 府 跡

現在推定されている敷地の境界を記載してみましょう。

東は荏柄天神社の西側で、 もとの二階堂大路の分岐点に近い関取橋から北へ東御門へ延びる道の線。
西は筋違橋の東側から西御門へ通じる道路。
南は大倉路、すなわち筋違橋から金沢へ向かう道路。
北は頼朝の墓がある丘の下を東西に通じる道路でした。

なお、西側に関しては横浜国大付属小、中学校を含めて もっと鶴岡八幡宮に接近していたとの説もあります。



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