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1203年(建仁3)この地で幕府の重臣・比企能員(ひきよしかず)一族が北条時政の陰謀により皆殺しにされました。 ある秋の日、比企能員は礼装に威儀を正して名越にある北条別宅へ将軍の病気見舞いへと向かいました。彼の娘、「若狭の局」は将軍家頼に寵愛され、一幡(いちまん)という男子までもうけていたのでだいぶ羽振りがよくなっていました。 しかし、比企能員は、北条宅へ入るなり謀殺され、小町の北条宅からは間髪入れず比企館に猛烈な攻撃がかけられ、やがて、館に火が放たれると修羅の火炎地獄の中で一族は全滅しました。 これは、北条時政の謀略で、病の床にあった家頼が死ねば一幡とその外戚の比企一族に権力が移るのを見越し、機先を制して比企一族を全滅させたのでした。 この地は、今でも比企ガ谷(ひきがやつ)と呼ばれ、1274年(文永11)日蓮の弟子日朗を開山として、比企一族の菩提を弔うため創建したそうです。 総門より静寂な老杉に囲まれた長い参道が続き、正面石段を登ると、どっしりとした構えの二天門があらわれます。 二天門をくぐると、広い前庭の奥には山を背に豪壮な祖師堂があります。この瓦屋根の大きな建物は、江戸時代に再建されたものだそうです。 建長寺の仏殿と並ぶ、鎌倉最大級といわれる木造建築です。 |
| 写 真 | 解 説 |
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この総門より静寂な老杉に囲まれた長い参道が続く。 寺の周辺は今でも比企ガ谷(ひきがやつ)と呼ばれています。 後ろの長い参道正面石段を登ると、どっしりとした構えの二天門があらわれる。 |
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二天門をくぐると、広い前庭の奥には山を背に豪壮な祖師堂があった。 この瓦屋根の大きな建物は、江戸時代に再建されたものという。 建長寺の仏殿と並ぶ、鎌倉最大級といわれる木造建築だそうだ。 堂内の宮殿には、南北朝時代の日蓮上人像がある。 |
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祖師堂の左手には、悲劇の比企一族の墓がある。 比企一族は、将軍の子一幡(いちまん)を擁して比企廷内に篭ったが、わずか6歳の 一幡をはじめ、ことごとく北条時政に滅ぼされてしまった。 そばには、一幡の焼け残った小袖を埋めたという袖塚もありました。 謀略により惨殺された一族の心中を想うと、合掌せずにはいられない小生であった。 |